変な偶然重なった

 ――寒月は皎々こうこうと夜闇に浮かび、帝都の街並みの中にある、河の流れを鏡の如く照り返している。雪こそ降ってはいないものの、蕭々とした寒風が、街路の裸木を揺らし、枯葉が渦を巻くように舞っている。

 帝城から見て南東の、庶民街の河岸っぷち。冬風に追われるようにして、童子が二人駆けて来た。大道芸が仕事であろう。軍鶏しゃもの赤毛を頭に乗せて、萌黄木綿の衣を纏い、仮面を背中にひっくり返し、日和の下駄を鳴らしつつ、


「オオ寒……寒いなあ……」


 駆けて転んでまた駆けて、一膳飯屋に飛び込んだ。そこはジパング料理を出す店である。暖簾の先の店の中、別世界のように暖かい。

 ふかした芋の香り、熱燗の湯気や汁に煮える葱の匂い、ガヤガヤとした喧噪も、外の烈寒を忘れさせる。

 大道芸の二人が、暖簾をくぐって入って来た。八歳くらいの少女と、六歳くらいの少年だ。姉弟であろう、姉が弟の手を暖めつつ、凍り付きそうな息を吐き、


「小父さん、ご飯をちょうだいよ」

「あいよ」


 と、厨房から店主が顔を出す。ちり紙を奥から持ってきて、姉の方に手渡して、


「ほら、ミラちゃん。オットーの鼻を拭いてやりなさい。そんな寒そうな顔だと、兄ちゃんの鴨鍋が不味くなるからな」

「ああ、構いませんよ。こっちに来てもらって良いですよ」


 と、隅にいた客が軽い語調で割り込んだ。そして姉弟を手招きし、二人を火鉢に当たらせた。それは密偵のハンスであった。

 大道芸の姉弟は人懐こく、身震いしながら彼に近寄って、火鉢の上に手を翳す。凍えきっていたのであろう、炭火の上に、ガタガタ指が震えている。

 ハンスは姉弟を見て、いと優しく微笑んで、


「君達は偉いね」

「お兄ちゃん、どうしてあたし達が偉いの?」

「だって、そんなに小さいのに、よく働いているもの。それを自慢にしないのも、偉いと思うんだ。僕の母さんがよく言ってた。どんな仕事でも、一生懸命に働く人は偉いって」


 と、ハンスは鴨鍋から葱を挟んで、少し冷まして口に入れた。八日前に黒屋敷の窓の下で、カーラと約束していたので、彼は今日、下町酒場の二階にある、彼女の部屋を訪ねていたのである。

 しかしまだ帰っていない様子なので、そのまま黒屋敷に行ってみようか、それとも日を改めようか、と街を逡巡した末に、この飯屋に入り込み、寒さしのぎに鍋を頼んだ。彼の周りでは、

 (大人は良いなぁ。嫌な事があっても、お酒で忘れる事が出来るから)などと溜息交じりに思っているこの少年。ジパングと争っている彼ではあるが、ジパングの食は好物だ。今も鍋を前にして、喜色が面に湧いている。


 ハンスは一人っ子ではあるが、妹と弟に向けるような柔らかい表情で、大道芸の姉弟に取り皿と箸を渡してやり、弟の方に向かって、


「名前は何て言うの?」

「僕はオットーって言うんだ。お姉ちゃんはミラって言うの」

「オットー君にミラちゃんか……良い名前だね。何処に住んでいるの?」

「此処から少し離れた、ヨワの裏手にある長屋だよ。お兄ちゃんも行ったりするの?」


 ヨワというのは、帝都に数多ある色街の一つで、我が国で言えば、吉原のような区画である。オットーの言葉を聞いたハンスは、思わず吹き出しそうになり、慌てて咳込みながら、満面朱泥のようにして、


「い、行くわけないだろっ。僕はまだ十一なんだからっ。全く可愛い顔して、何てこと言うんだ……」

「こら、失礼でしょっ。お兄さん、弟がごめんなさい」

「い、いや良いんだけど、でも君達、どうして大道芸の仕事なんてしてるの? お父さんとお母さんはどうしたの」


 ハンスが何気なく尋ねると、姉弟は悄然として俯いた。見れば、涙が雨の如く流れだし、火鉢の中に落ち込んで、ジュッと細い煙が立つ。

 まずいことを聞いたかな――とハンスが内心、慚愧の念に駆られていると、姉の方が悲しげな顔を上げ、


「おっ母さんはこの間、死んじゃった……。お墓に埋めただけで、お葬式もしてない。お父さんは生きてるけど、昼間からお酒を呑んで働いてないの。丁半博打ばかりしてるし、それに……」

「それに?」

「あたし達の上に、もう一人お姉ちゃんがいるけど、もう随分帰って来ないの。何か、悪いことをしてるって噂なんだ……」

「それで君達が働かないといけないんだ……。可哀想に」


 と、ハンスは改めて、母親の言葉――自分が出来る限り人に優しくしなさい――を思い出していた。自分が如何に、愛されていたのかを思い出し、何だか心が改まる気持ちである。

 同時に彼は、何だかこの姉弟が不憫になり、財布の銭を確認し、奥にいる店主に向かって、


「すみませんっ。この子達のご飯代は僕が払いますっ」

「あいよ。毎度ありっ」


 と、やり取りした後で、唖然としている姉弟に向き直り、笑顔でまた鍋を勧めた。姉弟は若干、遠慮交じりに箸を伸ばしたが、ハンスが笑ったままなので、やがて鴨やら葱やらを食べ始める。

 まさかこの優しい少年が、悪事の臭いを嗅ぎ回り、幾度も人を斬っている、怖ろしい密偵だとは思うまい。ハンスもまた、己が悪党にも恐れられる、密偵ということを忘れている。


 そこへ店主が、湯気の立つ米飯を椀に盛り、高菜の漬物を添えた膳を二つ持ってきた。それを卓に置くと、大道芸の姉弟は、すぐにふるいついた。

 何もかも忘れて、心から旨そうに食べているのを見、ハンスも、遅れてやって来た飯をかき込み始めた。

 それで箸休めに、一番上の姉とやらについて根掘り葉掘り聞き始める。


「それで、その大きなお姉ちゃんはどんな人なの?」

「うん……。生きていたら今年で十五歳になるかな。凄く可愛くて優しいお姉ちゃんだけど、何処にいるのか全然解らない」

「そうなんだ……。お父さんは呑んだくれで、お母さんは亡くなって、一番上のお姉さんは家出……。それにしても酷いお姉さんだね」


 ハンスは他人事では無いように腹が立ってきたのだが、それを見ていたオットーの方が、飯の椀をガツンと手荒に卓へ置き、


「お姉ちゃんを莫迦にするなっ。凄く優しいお姉ちゃんなんだぞっ。お兄さんに何が解るんだっ」

「ご、ごめんよ。つい二人が気の毒になって。でも、こんな空っ風の吹く時期に、外でずっと芸を見せてるんだろう? それでお金を稼いでも、精々お父さんのお酒か博打に使われちゃうんだろ? よくあるやつだ。特に色街だと、放恣逸楽な連中が多いっていうけど。でも、よく辛抱しているよ。きっと大きいお姉ちゃんが帰ってきたら、手を付いて謝るに違いないよ」


 それを聞くと、ミラはあどけない笑顔を見せ、頬に米粒を付けたまま、玉のような笑顔となる。それを見てハンスは、兄のような気分になって、少し胸を張っていた。

 彼は紙を取って、彼女の頬を拭ってやりながら、(博打って聞くと、カーラさんを思い出すな……)などと彼女の悪戯な白皙を思い出していた。

 それを見ていたミラは、不思議そうな声を出し、


「お兄さん? 何か顔が赤くなってるよ? もしかして熱でもあるの?」

「あ、いや何でも無いよっ。ちょっと友達を思い出したんだ……。それで、そのお姉さんは、何て名前なの?」

「カーラって言うの。カーラ・サイツ」


 途端にハンスは瞠目し、思わず箸を落としてしまう。それを見ていたミラとオットーは、俄に身を乗り出して、


「お兄さん知っているの? カーラ姉ちゃんの事知ってるの? ねえ」

「ま、待ってよ。もしかして銀色の髪で、みどり色の瞳の人? でも、君達はどっちも銀髪でも翠の瞳でも無いけど」

「でも、あたし達が産まれた時から、ずっと家にいたもん。それに貰われて来た人だったら、あたし達を可愛がってくれるわけない。それでお兄さん、姉ちゃんを知っているの?」


 と、またしても米粒で口元を白くして、両脇からハンスに縋り付く。ようやく掴んだ手掛かりを、離してなるまいか、という気組みである。

 ハンスも、相手がカーラの身内なので、彼女が黒屋敷にいることを伝えようとした――その時である。そこから程近い場所にある、火の見櫓の半鐘が、夜闇にけたたましく鳴り出した。

 時刻は丁度午後十時、貴族街の黒屋敷――鏡の下の穴蔵で、カーラとミーナ、それに乳母のマリーが、密見の間に火を放った時間である。


 どたどたと飯屋の二階から、若い衆が下りて来た。上で呑んでいた者達は、すぐに沓を引っ掛けて、火事だ、と口々に叫びつつ、消火するために走って行く。見る間に店の前の路地を、定火消しや街火消しの者達が、先を争って駆けていく。

 皿を洗っていた店主も女将も給仕の者も、ハンスとミラとオットーも、慌てて暖簾の外へ駆け出した。師走初めの冷たい風が、向こうから河の水をかすめるように、颯爽と横丁まで入ってくる。

 飯屋の店主と女将は、手を翳しながらしきりに、


「何処だ火事はっ。赤いものは見えないぞ」

「銭湯の煙と見間違えたんじゃないですか。それか夜靄がちょっと盛り上がったとか。貴族街の方に皆向かって行きましたが……」


 貴族街という単語を聞いてハンスは、はっとカーラのことを思い出した。そう言えば、彼女は黒屋敷にいる筈――そう思っている矢先、紛れも無い鐘の乱鉦が、あちこちから響いてきた。続けざまに、異変を知らせる呼笛よびぶえが、夜空に高く流れ出す。

 素早いハンスは、高い枯れ木の上に攀じ登り、火元を探ろうと手を翳している。お兄さん危ないよ、とミラとオットーが下で騒いでいるのだが、彼はそんなことは耳にも留めず、烈しい北風に揺れる梢にしがみ付き、寒鴉のようになっている。


「貴族街は此処から少し西側……しかも風が強い。……カーラさんが近くにいるんだ!」


 ハンスは駭然して木から飛び降りた。今まで他人事のように聞いていたのだが、カーラがいる、屋敷の近くが火元となると、彼は矢も楯もたまらず、自分でも何故かは解らぬが、駆け付けなければならない気になった。

 カーラは勿論、未だ消息の掴めぬミーナ様、その二人の運命が、今まさに炎に呑まれんとしているのだ。勘の鋭いハンスは、その不吉を直覚し、すぐに店に置いていた双剣を佩き、蒼惶と駆けていこうとした。

 しかし火事と聞いて、不安になった大道芸のミラ達は、優しい言葉を掛けてくれたハンスの側を、離れたくないものと見え、彼の袖に縋り付き、歯をガタガタ鳴らしている。


「お兄さんっ。怖いよっ」


 と、二人がハンスの腕に絡む間に、一番鐘に共鳴し、そこから遠く離れた、火事目付の奉行所からも鐘が鳴る。番所から番所へ、伝令が慌ただしく駆け廻る。避難誘導をするべく、衛兵達が駆けていく。

 彼方此方で鳴る半鐘のように、ハンスの胸も早鐘を打ち出した。こうしちゃいられない、と彼が駆け出すと、服に掴まっていたミラとオットーが、そこへ無惨に転んでしまい、わっと二人して泣き崩れる。

 ハンスは振り返ったが戻ろうとはせず、代わりに嚢中の財布を取り出して、飯屋の店主に投げてやり、


「それがお代です! お釣りがあったら、その子達にあげてくださいっ」


 そう言い残して、ハンスは矢のように走って行く。バラバラと松明が駆け乱れ、火消し道具を引っ提げた者達が、彼の前後に乱れ散る。

 (カーラさん……!)と、ハンスは河岸を一心不乱に駆け抜けて、息もつかずに蒼惶と、貴族街の登りまで、韋駄天の如く飛んできた。

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