地下が炎に包まれた

 カーラは、密見の間とお鏡下かがみしたとを隔てる欅の板を、少しずつ抉りながら、ミーナの決意を励ますように、語気に確かな強味を持って、


「ミーナ様。ここの境さえ破れば、あたしが転がり落ちて来た、鏡の裏の出口から登れます。この壁は、私が剣で必死に切り破ります。ミーナ様は支度をしてください。早くしないと、ヴェイスの奴が帰ってきます。そうなってはもう百年目、逃げられる筈がありません」


 と、カーラは柄手に力を込め、人の身体が抜け出られるまで、無二無三に切りけ出した。

 その間に、ミーナとマリーは甲斐甲斐しく身支度し始めた。だが、ミーナは何かが気になるらしく、夕顔のように悄然とした面持ちで、ふと手元を止めて躊躇っている。マリーはそれを見ると、乳母らしく、烈しい語気で叱って曰く、


「お嬢様! こんな穴蔵の地獄に何の未練がありますか。ご先祖様からの財宝が惜しいのですか」

「いいえ。そんなものに未練はありません。私はただ……ただ、お父様始め、ご先祖様が古今東西、世界各地での隠密から記した、数多の隠密秘伝の書を、そっくりそのまま、あの人非人……ヴェイス・フリードに渡してしまうのが、お父様に申し訳がないのです」

「お嬢様、書物は家を継ぎませんが、貴女さまさえお恙なければ、ティーレ家の血筋は繋がります。それに、大切なお嬢様のお命と、埃を被った旧態依然の書物、比べるまでもなく、お嬢様の方が大切です!」


 と、マリーは主を励まして、何か妙案を思いついた顔色で、部屋にあった檜の卓や長椅子に絨毯等、狭い部屋の彼方此方から、燃え易いものを部屋の中央に集め始めた。物品はうずたかく積まれ、薪を集めたようになっている。

 何をしているのか、とミーナが彼女を見ていると、彼女は年増の頼もしさを出し、羅刹女のように峻厳な表情で、心に決めた事をミーナに言った。


「あの奸賊輩のヴェイス如きへ、お屋敷へ秘匿されている財宝書物を渡してしまうのは、私も確かに腹が立ちます」

「どうするのですか? 三人では持ち出せませんし……」

「この上なく勿体ないですが、ヴェイスのような悪漢に渡すくらいなら、炎に投げ込んでしまう方が、良いでしょう……」


 そこまで言って、マリーは言葉を詰まらせた。目頭には露が溢れている。彼女の先祖もかつて、ティーレ家に仕えていた隠密の家柄、その歴史の深さと伝統は、彼女も痛いほど承知している。

 しかしそんな物は彼女にとって、実の娘の如く大切な、ミーナの命に比べれば、至極些細な事である。お嬢様、と今も力強い眼で促している。

 ミーナは怖ろしい紅蓮の烈火を思い浮かべて、まだ思い惑っている様子。三千世界を見るように、至極虚ろな双眸で、数百年の歴史ある地底の部屋を見廻していた。


 やや暫く遅疑逡巡した後、ミーナは、翡翠の瞳に力を漲らせ、当主らしい表情となり、


「解りました。マリー、燃える物は何でも集めてください」

「出られますよ! ミーナ様、出られます!」


 その時、カーラが声を弾ませて、ミーナに向かって手を伸ばした。見ればもう、小柄な女なら、悠々通れそうなほどの穴が切り広げられている。

 カーラはそこからミーナを救い出し、マリーは後に残って、反古に木屑に乱れ箱、とにかく手当たり次第に、部屋の中に積み上げる。忽ちがらくたの山は、彼女の背丈辺りまで積まれていく。


 カーラは蝋燭を持って、広遠たる闇の百坪を、ミーナの手を引いて駆けて行く。自分が転がり込んだ斜面を、蝋を翳して覗いて見ると、何ぞ測らん、滑りやすいように磨かれており、しかも漆まで塗られているらしく、憎らしいほどに輝いている。

 しかも、螺旋状に上へ延びており、先は全く見通せず、仏舎利を見上げるような気持ちになる。密見の間では、居残っているマリーが、灯火用の油壺を取り上げて、部屋の其処彼処に、油を振り撒いている。

 そして彼女は大声で、


「カーラさん、逃げる出口は見つかりませんか? 見つけたらすぐに知らせてくださいね。すぐに火を放って、私もそこに行きますから」

「ま、待って下さいよっ」


 と、カーラも気ばかり急いて、流石にわくわく思い惑った。足を掛ける所が無い螺旋状の木の坂道、自分は飛び付きながら登れそうではあるが、恐らく、か弱いミーナは登れまい。

 (どうしよう……)と、カーラが思案しているのを見、ミーナが思い出したように、部屋の一角を指差して、


「あそこ……此処に閉じ込められた時、あそこから入りました。もしかすると、出口があるかもしれません」


 彼女が指差す方を見て、カーラが近付いて見ると、柱の陰に隠れて、上から数珠繋ぎに結ばれた、縄梯子が垂れている。恐らく、ヴェイスが使っている縄梯子であろう、等間隔に枝が結わえてあり、登るに都合良く出来ている。

 カーラは笑顔になり、会心の声を上げ、ありましたよ、とマリーに向かって言った。それを聞いたマリーは、すぐに、暖炉から燃える薪を取り出して、反古の山へ放り投げた。

 途端、濛々と黒煙が立ち、真っ赤な花が咲くように、炎が凄まじい勢いで広がった。積み上げられた反古や木箱、長椅子に檜の卓、それら全てが火の柱に包まれて、炎は瞬く内に天井へ届いた。


 赤い舌のように伸びてくる、炎に追われるようにして、マリーが部屋から飛び出して来た。程なくして、彼女が躍り出てきた壁の穴から、石綿のような黒煙が、猛然たる勢いで吐き出されてきた。

 マリーは蒼惶と、ミーナとカーラに向かって駆け寄って行く。しかしその瞬間、縄梯子を引っ張ったカーラの双眸が、皿のように見開かれ、いけない! と彼女は紅唇を破って驚愕した。

 ミーナ様を先に――と思っていた頼みの縄梯子は、三米3mほど上にある、地下の出口辺りで切れてしまったのだ。


「そ、そんなっ。なんで、どうして⁉」


 と、カーラは悲嘆の声を上げ、恨めしげに上を睨んだが、途絶えた縄の先端が、虚空で空しく揺れている。ミーナもすっかり銷魂し、絶望的な顔で彼女を見つめている。

 ふと、カーラが縄の端を見てみると、指先ほどに畳まれた、紙片が一枚付いている。彼女がそれを広げてみると、抱腹絶倒しているような、憎たらしい顔文字を先頭に、


「(^o^)残念でしたね。もしかして、逃げられるとでも? 逃がしはしませんよ、我が妻よ」


 と、嘲るような文言が、ヴェイスの押印と共にしたためてある。彼は、もし部屋から出られてもなお、ミーナを失望させるべく、縄の仕掛けを用意していた。

 よもや逃げる事は叶わぬと、彼女の心を折るために、一度希望を抱かせた後、また悲嘆の晦冥に落とそうとしたのだ。カーラとミーナの脳裏には、俳優の如く憎たらしい、ニヤけた彼のつらが浮かんでいた。

 しかし如何に狡猾なヴェイスでも、まさか放火されるとは思わなかった。火事が起きても良いように、密見の間に、水瓶は用意していたのだが、それは既に蹴倒されている。


 望みを絶たれた三人は、地獄の一丁目に落とされた、亡者のような表情で、互いに顔を見合わせた。カーラも悲壮な顔ではあるが、心は至って気丈であり、容易に諦めない性質たちである。へたり込んだミーナの手を取って、無我夢中で逃げ口を探したが、元から他に出口は無い。

 三人が、慌てふためいている間にも、竜巻のようになった猛炎は、密見の間を焼き尽くし、闇然としていた地下室を、真っ赤な火光に包み込む。渦になった灰燼は、凄まじい熱風に煽られて、真綿の如く虚空に舞う。

 

「ああ……大変な事になった……」


 マリーは蒼い顔をして、自身の軽率さを呪いつつ、狂人のように駆け戻り、密見の間に放った火を消そうとした。しかし油と可燃物を呑んだ火は、猛炎の津波のようになっている。壁の穴から吐き出される黒煙に入り混じり、赤い炎に青い炎、人間の命を狙う舌先が、薄気味悪く床を這ってくる。

 マリーは、カーラが此処に来た時に、飛び込んだ敷物を引っ掴み、必死の力で壁に立て掛けて、カーラが破った穴を密閉した。しかし如何に分厚くても、所詮は木綿の敷物だ。時を経ず、炎に呑まれることは明白だ。

 彼女は敷物を背中で支えつつ、絹を裂くような叫びを上げ、


「お嬢様! カーラさん! 早く何処からか逃げて下さいっ。早く何か紐を繋ぎ合わせて、縄梯子を……」

「おばさんっ」

「カーラさん! 早く、早くお嬢様を助けてあげてください!」


 マリーの声は煙に咽んでしまい、最早僅かにしか聞こえない。彼女が背中の焦げるまで、敷物で壁を塞いでいる内は、煙が流れ出てくるのも、炎が広がるのも遅くなるであろう。喉には咽せ、眼には沁みる黒煙に、激しく咳込みながらも、必死で壁を押さえている。

 だが、奥の火炎が燃え抜けてこない間に、どうして上へ逃れ出す事が出来るだろう。しかし此処は生死の境である。カーラはミーナに縄梯子を手渡して、彼女を肩に担ぎ上げ、切れた縄の端に、それを結び直させようとした。

 ミーナの白い手が伸びた。生きんと思う力の限り、柳のような腕が伸びる……。だが、もう少しある。ああ、せめて一尺、そこに触れようとして、指が僅かに届かない。


 主思いの乳母のマリーは、刻一刻と背中が熱くなっていくのを感じつつ、それを必死に堪えながら、苦患の声を振り絞り、


「ま……まだですかっ。早く、ああ、熱……早く逃げて下さいっ」

「アア……マリー、駄目です、駄目ですよ……」


 ミーナは疲れ果てたのか、ガクリと腕を下ろしてしまう。同時にカーラも、流石に弱気を心に生じ、徐々に足元から昇ってきた煙に咽せて、ミーナの身体を抱いたまま、みどりの瞳で上を睨み、


「ハンス……!」


 と、普段の勝気は何処へやら、恃みなきものを恃んで、糸切歯を噛み締めた。

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