ようやく出会えたご令嬢

 初冬の空気は冷寒で、黒屋敷の地下も冷え冷えとしている。しかしカーラは寒さも忘れ、今自分が抉った壁の穴に、全ての意識を集中させた。

 壁の向こうの一室で、涙を拭くのはミーナである。首には白の襟を見せ、その上には、淡い青色の絹の服。色艶の良い銀髪は、朧気な火光を照り返し、螺鈿のように輝いて、腰までふっさり垂れている。白皙にある紅唇は悲壮であり、愁眉は哀しく閉じている。


 ミーナの向かい側にいる、中年の女が同じように眼を拭い、彼女の側に寄って手を伸べた。彼女はその皺の掌へ、白い手を優しく乗せて、国教の紋を象った、首飾りを鳴らして渡す。

 今日はまる十年と二ヶ月前に、ヨーデルが帝都を出た日である。暖炉の上には絵が一つ飾られている。端厳な男で歳の頃は三十余歳。膝の上には、一人の童子が座っている。

 厳粛な眉を持つ絵の男、それがミーナの父である。十年前にジパングへ向かって以来、全く消息不明のヨーデルだ。帝国は、彼がジパングで客死したものとみなし、ティーレ家に対し、お取潰しの沙汰を下してしまった。ミーナとても、今では既に、世に亡い父と諦めている。


 ミーナは長い祈祷を済まし、乳母のマリーの方へ向き直り、迦陵頻伽かりょうびんがの声を出し、


「此処も寒くなってきましたね。もうすぐ十二月ですから、外はきっと、雪でも降っているのでしょうね」

「さだめし、外の世間には寒風が吹いていましょう。此処へは木枯しも聞こえて参りませんが」

「……木枯しは嫌。寒風も嫌……。どうせ外に出ても、辛いだけです。せめて、ユフとグレゴールが吉報を持って帰ってくれば。そうでなければ、この部屋に埋もれてしまいたい」

「お嬢様、そんな事を仰らないでください。今は烈寒の冬ですが、いつか春は芽吹いて参ります。息子達だけでなく、ルカ様が帝都に帰って来られれば」


 それを聞くと、ミーナはさめざめと紅涙を流し始めた。ルカ様――彼の名前を聞くと、帝都で共に過ごしていた時の懐かしい思い出が、彼女を烈々と苛むのだ。

 美しい鳥が崩れるように、がばと袂を顔にして、低い声で泣き出した。この地底の牢獄で、愛する恋人も頼れる父もなく、支えてくれていた友もいない。

 いくら気高い貴族の令嬢でも、歳は僅かに十五である。鰥寡孤独かんかこどくを辛抱するにも限度がある。今も、暗然たる涙を流している。


 乳母のマリーもそれはよく解っている。ミーナの実の母親は、娘が三歳の頃に亡くなった。それで乳母として雇われたのだが、息子達と歳の近い、ミーナもまた娘のようなものである。身分こそ違えど、ユフとグレゴールも、彼女と共に育ったのだ。

 マリーはミーナの背中に手を当てて、


「お嬢様、お嬢様。貴女に泣かれても、この乳母にはどうしようもありません。もっと……お強くなって下さいませ。いいえ、今が、アア今が、大事な時でござります。貴女はもっとお強くならなければなりませぬ」

「うう……そんな無理を、貴女までもが、そんな無理を言うのですか……」

「きっと僅かなご辛抱です。じっと堪えて下さい。お嬢様のお手紙を持っていった息子達が、今にきっと良い報せを持って参ります……」


 ミーナは何故此処にいるのだろうか? 言うまでも無く、色欲物欲支配欲、これらに拘り抜いている、ヴェイス・フリードの奸策だ。

 鏡の裏の斜面から、カーラが転がり込んだ穴蔵は、かなり昔、まだ戦乱の世であった頃、事あるごとに、隠密組の者達が、集合して諜報活動の示し合わせを行った評定場所。彼らの行う活動は、皆極秘であり他聞を憚るので、必ず、組頭の家に作られた、穴蔵部屋に集まっていた。

 此処が頻繁に使われていた頃は、隠密共は符帳に呼んで、「お鏡下かがみした」と云っていた。しかし泰平の世になると、物々しい集合もしなくなり、ヨーデルの代になってからは、物置部屋になっていた。


 そして今ミーナがいる部屋は、「密見の間」と云った場所である。奸智を廻らすヴェイスは、御代地おかえちとしてこの屋敷に移るや否、ミーナと乳母を、この一間に押し込めて、世間へは行方知れずと吹聴した。

 しかし彼は三日に一度、地下の穴蔵に梯子を下ろし、密見の間の鍵を開け、地獄のような呵責をする。その日が、ミーナにとって、無間地獄のような苦しみである。

 針の山、血の池、煮える鼎に落ちるより、なおまだ辛い呵責である。


「ははは。簡単な話です。私の妻になり、私の物になればよろしいのですよ、ミーナ様。さもなければ、一生この部屋に埋もれて頂く事になりますが……。私は気まぐれな男ですよ。ともすれば、食べ物を忘れてしまうかも? それに今は紳士ですが、ひょっとすると、狼になるかもしれませんな」


 慇懃な口調で、いと穏やかに話すのだが、その内容は羅刹の如く容赦が無い。のみならず、ミーナの目の前で、ルカとの思い出の品を叩き壊したり、一々ヨーデルの私物を持ってきて、暖炉に放り投げたりする。

 兵糧攻めのつもりなのか、食糧も三日に一度、僅かな量を寄越すのみである。この無情な仕打ちでも、ミーナは彼を見ようともせず、ただ気丈に振る舞って、


「私に指一本触れてみなさい。すぐに喉を刺すか、首を括って自害しますよ……」


 と、怯える顔は見せずに言う。

 ヴェイスは非常に横着で、ミーナの心など知り抜いている。無理に玩弄すれば、彼女が必ず死ぬことも承知である。死なしてしまっては意味が無い。彼は何処までも悪鬼の如く、ミーナを責め苛むのだ。

 ミーナは幾度か死のうとした。幼い頃は兄のように慕っていた、父の一番弟子たるヴェイスが、密かな毒牙を研いでいたのを、今になっても信じられない。しかしこうまで辱められ、こうまで堪えてもいられない。


 しかし、彼女の側にいるマリーは、日がな一日彼女を励まして、息子二人が帰るまでは――と、彼女の死を思い留まらせていた。

 ああ、この哀れな令嬢は、既にユフとグレゴールが、武田茜たけだあかねの刃に掛かり、無惨な最期を遂げたなど、夢寐にも知らぬのであった。

 しかし今になってみて、兄弟二人が死を遂げた、元の禍因を探ってみれば、全くカーラの掏摸である。何気なしに、彼らの財布を盗んだ事が、渦が渦を呼ぶ因果の輪のように、波瀾の絶えぬ事になった。

 

 だが、その下手人であるカーラ自身はというと、自分の指一本が、そんな大きな因果を呼び、人々の運命を狂乱させていようとは、夢にも思わず微塵も知らない。

 彼女はただ、ルカへの想い一つに操られ、この渦紋を離れずにいるのだが、彼がいなければ、毒を散らして飛び去った、悪戯な蝶に過ぎなかったであろう。

 更に今、カーラに対して磁石のように、高坂陣内こうさかじんないが引き寄せられている。この二人だけは今日こんにちまで、港街でも帝都でも、何ら事件に関わりなく、遂にここまできたのだが、今こうして二人とも、渦紋の真っ只中に巻かれている。


 そして今、ミーナの恋人であり、カーラを魅惑するルカ・ウェールズは、明日か明後日には、帝都に入るというヴェイスの探り。

 そのルカを仕留めるため、後を追ってきたジパングの刺客武田茜も、同時に帝都へ入るだろう。一歩、ルカが帝都へ入れば、そこには陣内とヴェイスが待っている。後ろからは、彼を狙う茜の凶刃だ。

 物欲と色欲の争奪、血刀の乱舞、恋と恋との生々しい争い――悪気と殺気と狂気、それらを含んだ嵐の前触れが、今や帝都に集まっている。

 女掏摸の指一本、それが怖ろしい葛藤と、果てしない修羅の渦を招いてしまった。この災禍の元が、己の罪だと知った時、カーラはどうするのであろうか? 密偵ハンスも否応無く巻き込まれるわけだが、彼はどう行動するのであろうか?


 閑話休題それはさておき、カーラは剣に懸命な力を込めた。「お鏡下」の暗闇に立って、彼女は一心不乱に、欅の厚みを抉っていく。

 ザクリ、ザクリッと木屑が散る。一寸ずつ、「密見の間」との間が削られていく。二人の女が近付いて行く。一人のルカを恋い慕う、カーラとミーナの境目が……。


 バキッとカーラの佩剣が、一念に欅の板を抉り抜き、刃が半分ほど向こうへ通った。

 密見の間にいるミーナとマリーは、その音に驚愕し、思わず眸を集中させた。マリーは仰け反るばかりに気を消して、無論、ミーナの柳眉の辺りにも、憂愁と怪訝が漲った。

 二人が見た方向には、部屋の一面から、正体不明の刃物の切っ先が、壁を突き抜いて見えている。刃掛はがかりを得たカーラの剣は、見ている間にも、必死に躍って、須臾にして切れ目を広げてきた。


「だ、誰ですか?」


 ミーナは震える声で、剣の持ち主を咎めた。カーラの方には、それが耳に入らない。小一時間ばかりの死力が、ようやく報われてきた嬉しさに、小躍りしたい気持ちである。

 躍る剣先は、雪の如く木屑を散らし、忽ち壁の穴を一尺ばかりも穿ってきた。その時初めて、カーラは中の様子を、詳らかに見ることが出来た。ミーナの方からも、凄艶なカーラの顔を見たであろう。


「あ、貴女は誰ですか? どうして此処に」

「あ、あの。あたしはカーラ・サイツという者です。あなたは、そのう、ティーレ家のご令嬢、ミーナ様ですよね?」


 ミーナは瞠目した。どうして会ったこともない人間が、自分の正体を知っているのか、そして自分に何の用か、と言いたい顔である。

 カーラは相手が言葉に困っているのを見、自分の方から話を進めた。


「ミーナ様、お言伝があるんです。あたしの友達で、密偵のハンスが、遙々遠いハーフンの港街から、あなたに会うためにこの帝都に来ているんです。でも、この屋敷はいつも釘付けで、おまけにヴェイスの監視があるから、ハンスが大切な話を出来ないんです」

「お待ちください、カーラさん」


 と、ミーナはやや安心した様子で、カーラの早口な言葉を遮って、いと柔らかな語調で聞き返す。


「そのハンスという方には、一向に覚えはありませんが、その方は私に何の用があるのですか?」

「さあ? あたしもよく聞いていないから解りません。でも、何か仔細があって、あたしに頼み込んできたので、此処まで来たんです。詳しい話は、そのハンスから聞いて下さい」

「そうですか……」


 と、ミーナは不安げな様子で俯いた。傍らにいる乳母にどうしたら良いものかと、心なしか尋ねたがっている様子。

 カーラは更に語気を励まして、ハンスから頼まれていた言葉を付け足した。


「もしかして、ハンスを不審に思っているんですか? 彼は全然悪い子じゃないですよ。ちょっと頼りないし、まだ十二歳ですけど、凄く良い子です。いつかだって、あたしを助けてくれましたし、とても優しくて一生懸命な子ですよ。会えばきっと解ります」

「……そうですか。それで、そのハンス君は何故私に会いたいと?」

「ルカ・ウェールズさんから、大事な御用を預かって、一足先に帝都に来た――と言っていました」

「えっ、ルカ様から⁉」

「はい。ルカさんも近いうちに、この帝都に来るそうですよ」

「まあ……」


 ミーナは牡丹の咲くように、ニッコリと笑顔を見せた。マリーの方も、久方振りにみる彼女の微笑みに、自然と心が軽くなる。

 貴人の微笑みというものは、周囲の雰囲気を柔和にするものらしい。先程まで密見の間を包んでいた悲愴な雰囲気も、ミーナの笑みで、やや綻んだようである。

 ミーナは優しく、しかし明らかに希望を見出したように、


「……カーラさん。それは真実ですね?」

「嘘だったら、わざわざこんな所まで憂き目に遭って、言いに来ません。さ、早くヴェイスがいない内に逃げましょう。後は下町の酒場、ローグの二階にある、あたしの部屋で匿いますから。きっとハンスもそこで待っています」

「そうなのですか……でも、ルカ様が帝都に帰ってこられる筈がありません。何かの間違いでしょう?」


 と、ミーナは躍り立つ喜びを、冷たい理性で打ち消した。しかしマリーはそれを見て、敢えて声を励まして、主人の弱気を叱咤するように、


「お嬢様。たとえ間違いであっても、折角カーラさんが此処まで来られて、お友達のハンス君までもが、ああ云っているのですよ。此処を早く逃れでようではありませんか。どうなろうと、これ以上悪い方向へ転ぶ気づかいはありません」

「そうですよミーナ様。ハンスが嘘を言う筈がありません。あたしが言う事じゃありませんが、彼、本当に正直なんですよ」

「そうですね……そうしましょう!」


 ミーナは力強く頷いて、俄に立ち上がった。その時初めて、カーラはミーナの瞳が、自分と同じみどりであると気が付いた。

 (不思議な事もあるんだな)と、彼女は思っていたが、ミーナは彼女に向かって微笑んで、


「カーラさん。あなたは本当にハンス君を信頼しているのですね。恋人と仲が良いのは羨ましいですよ」

「な……ハンスとは何もありませんよっ。彼は友達っていうだけであたしは」


 カーラは、ルカの名前を言い掛けたが、流石にミーナの目の前でそれを言うのは憚られるのか、口を噤み、やや早口で恥ずかしさを打ち消すように、


「さ、ミーナ様。今壁の穴を広げますから。支度をしてください」


 と、また壁を抉り始めるのであった。

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