転がり込んだ穴蔵で
寂寥とした闇が、何処までも広がっている。音も無く、光も無い晦冥だ。遙か彼方まで続いているかと、錯覚しそうな闇の中、人の声は勿論、物音一つ聞こえない。
その闇の一角で、僅かに動いた人がいる。呻き声を漏らしつつ、気絶していた人影は、ようやく意識付いたようである。それはカーラであった。
大鏡の仕掛けから、黒屋敷の地下に転がり込んだ道中で、左の腕をぶつけたらしく、痛みを堪えて立ち上がる。
カーラは不安げに四方を見廻すが、文字通り、一寸先は闇である。
「うう、痛い……あたしはどうしたんだっけ? あたしは……そうだ、ジンナイに追い掛けられて、落っこちたんだ……」
そう呟いて、カーラは何か支えを探そうと、泳ぐように歩き出した。しかし彼女は何かに躓いて、その場に倒れ込んでしまった。胸から地面に倒れたのに、不思議と痛みは感じない。
そこには柔らかい敷物が敷いてあった。そしてカーラが手探りすると、今彼女が躓いた、剣の
落ち込んだ場所も含め、部屋は一面、錦繍の絨毯が敷かれているらしく、湿っぽい織物の匂いがした。そして彼女は、此処が伽藍堂のように広い部屋だと気が付いた。
深々と毛穴が締まるような烈寒と、
けれど、そこは手探りで測りきれないほど宏大であった。ヴェイスが言った通り、百畳余りはあるようだ。やがて彼女は太い柱に触れた。八寸角の堅い柱である。
また少し手を伸ばすと、氷のように冷たい板壁がある。
「この部屋は地下に作られた隠し部屋に違いない……。どうしよう、ハンスもいないし……」
と、カーラはいつにも無く、彼女らしく無い憂虞と不安が
こういう希望の無い場合、刃物は、不思議な強味を与えるものだ。掏摸を始めて以来、護身用に身に着けていた粗末な剣が、今では非常に頼もしく見える。
いつしか彼女は、壁に凭れて暗闇の中でぽつねんと座り込んだ。そして自分で自分に言い聞かせるように、心の中で、
「喚いたところでどうしようもないよね……。落ち着いていれば、その内に何か良い知恵が浮かんでくるよね。眼が馴れてくれば、暗闇でも少しは見えてくるだろうし、夜が明ければ……。そうだ、ハンス……ハンスが様子を見に来てくれるかも」
こう自分を励まし、努めて無駄に疲れまいと心に決めた。いたずらに心身を疲弊させるのが、一番危ない事であると気が付かぬほど、カーラは取り乱していなかった。
やがて微睡みだしたカーラの神経が、不思議な物を感じだした。それは眼に感じた物では無く、耳から感じた物でもない。何処からともなく、忍びやかに、極めて仄かに、プーンと薫ってきた得難い香気である。
(何だろう?)と、カーラは翠の瞳を動かして、辺りの闇を見廻した。身動きをしてすら、その妙なる香気は、掻き消えそうなほど微かである。しかしカーラは、その僅かな芳香に、全神経を集中し、その出所を探り始めた。
こんな地底の穴蔵に、有り得べからざるほど良い匂いが、一体何処から来るのであろう。そう思い惑っている
その香気は、日向に蒸れる
――かつてカーラが七、八歳で、掏摸も覚えていなかった頃、学問所に通っていた彼女は、子供を迎えにくる貴族の親たちを見たことがある。その時親たちは、東西南北、あらゆる舶来の香水を付けていた。
彼女からしてみれば、そんな金貨を焚いて出たような、何の意味も為さない香りを纏い、見栄えに銭を掛けるなら、遊びに使えば良いのに、と言いたいのである。それで初めて、出来心から一人の親から財布を盗んだ。存外に上手くいき、それで彼女は味を占め、掏摸の技に磨きを掛けた。
それからカーラは、次第に学問所にも行かなくなり、貧しい自宅にも帰らなくなった。下町の酒場の二階で部屋を借り、表稼業はそこの給仕である。
しかし裏では掏摸を繰り返し、息をするように金を盗んだ。湯水の如く金を使い、贅沢三昧、放埒極まる日々を送るようになった。絵に描いたような非行少女の完成である。
十五歳の今になっても時折、一人で夜空を見つめて膝を抱き、自分の所業を振り返り、
「あはは……あたし、何処で道を間違えたんだろう……。もう戻れる筈も無いし、戻るつもりもないけど……」
と、自嘲しながら、自分でも理由が解らない、そぞろ涙を流すのだ。
――そんな事を思い出し、彼女は今も薫ってくる匂いを探ろうと、全ての神経を研ぎ澄まし、香水の出所は何処かと思案した。誰が良い匂いをさせているのか、何処で立てているのか? 香水だとは解っても、何処からと考えると、皆目判断が付かなくなる。
カーラはまたもう一度、眸を凝らして見廻した。しかし何回見ても、如法闇夜、つつ闇が陰湿に立ち込めている――その時、コトリと小さい音がして、彼女の眼が、今向いている方向とは、反対の隅へ吸い寄せられた。
「ハンス⁉」
と、彼女が見た方には、黒布に織り込まれた縞目の糸の如く、細い一筋の光が、闇の中に見えている。
カーラは吾を忘れ、そこに向かって、一も二も無く駆け寄った。闇夜の提灯を見つけた人のように、無明の闇から碧落を仰いだような喜びで、彼女は闇を泳ぐように走り出す。
細い光は、隅の太柱と羽目板との境の、わずかな隙間から洩れている。そこへ駆け寄ってみると、いよいよ薫風は強くなる。丁子の花に似た香煙も、その間隙から、いと忍びやかに流れてくる。
カーラは板壁の向こうにいる人が、誰であろうかと考える余裕も無く、壁の板を破ろうと、剣を抜いて、柄頭を腹に当て、ダッと壁に突っ込んだ。
壁は欅か檜か解らぬが、意外にも頑丈な厚い板。突き込んだ剣先が僅かに刺さったのみで、むしろカーラの身体に衝撃が走った。咳込みながら彼女は、剣を折っては一大事と、光にそれを透かしたが、長年使っているだけあり、問題なく無傷である。
「今はこの剣だけが、この気味悪い地下室を出られる活路だから……。気を付けないと」
カーラはそう呟いて、冷たい鉄のような羽目板を、ゆっくりとさすり、極めて大事を取りながら、壁に向かって剣を刺し、仮面でも彫るように、ザクリ、ザクリと抉り始めた。
白い
やがて、流石に鉄壁のような板壁も、ようやく眸の覗かれるくらいな、小さな穴が彫れてきた。抉り込んだ刃の肌に、薄灯りが段々と濃くなった。
そこでカーラはほっと一息つき、額から汗が噴き出しているのに気が付いて、それを初めて押し拭い、乱れた銀の短髪を、さっと耳へ撫で上げた。
(誰だろう? こんな所に住んでいるわけ無いし……)と、カーラは疑惑を持つだけの余裕が出来、剣を鞘に納め、今開けた穴に眼を当てて、じっと中を覗き込んだ。
穴の向こうには、彼女が想像もしなかった光景が、深沈として広がっていた。そこには二人の女がいる! 彼女は瞠目して二人を見た。
隠し部屋は、カーラのいる闇然たる穴蔵とは違い、普通と変わらぬ部屋である。錦繍の長椅子、金の飾りが為された卓、天蓋を戴く牀がある。奥に見えるのは浴室であろう。そして、暖炉の火光が春雨のように、全てを淡く濡らしている。
その長椅子の上に、羞花閉月たる一人の佳人がいる。遠目からでも解る程、艶やかな銀髪を腰まで伸ばし、黙然と瞑目し、精巧な人形のように動かない。或いはこの部屋のまま、暖炉に炎を燃やしたまま、石にでもなってしまったのか? と思うほどに、全く動きを見せていない。
彼女の向かい側には、また一人の中年の女がいる。これもまた、俯いたまま沈黙し、合掌している女性の如く、何の声も発しない。二人の間には、ただ縷々として香煙が昇っている。
「……」
糸より細い煙の筋が、卓に置かれた香炉から、夢のように立っている。そして、日陰の丁子の如く慎ましく、ゆかしい香りが漂って、壁の向こうのカーラをも惚れ惚れさせた。
(誰なんだろう? 此処は一体何処なんだろう?)と、彼女はその時、頭脳を必死に働かせた。同時に彼女の頭には、一つの言葉がひらめいた。
「ミーナ様?」
と、彼女は思わず呟いた。
さて、ひっそりとした部屋の中では、二人の女が向き合っている。すると俄に、マリー、と金鈴を振るような声がした。卓上で名香を焚き、石像のように沈思黙考していた、春蘭にも似た一人の女。その人の口から、低く漏れた言葉である。
はい、と応えるのは中年女。心もち顔を上げ、仕えるお方を見上げる内に、何が気に食わないのか、ほろほろと涙が溢れ出す。それを見た若い女も、そっと片手で涙を拭う。
暖炉に燃える炎の光が、辺りを仄かに照らしているが、今は真夜中、ましてや地の底。部屋の調度の麗しさも、若い女性の明るさも、全てが陰森たる鬼気に掻き消され、悽愴な雰囲気、というものさえ流れている。
(多分、あれはミーナ様でなくても、このお屋敷の人だ)と、カーラは胸をドキリとさせた。そことは板一枚を隔てるのみで、やっと小指の通る隙間を作り、彼女は息を殺して見つめている。
そして若い方の女を、高貴な身分に紛れもなし、と思いながら、カーラはじっと部屋を覗き込み、頭の先から爪先まで、全身に寒気のような心地を覚えた。見ているだけで心打たれるというか、畏れ多い気持ちになるというか、とにかく彼女は
それでも息を潜めて覗いていると、若い女がまた紅唇を開き、
「マリー……」
夜半の寂しさ空しさ希望の無さ、それら全てに堪え得ぬと見え、彼女は指先でまた眼を拭う。
この佳人こそ、謎に包まれたティーレ家の令嬢、ミーナ様なのであった。
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