利用する奴される奴

 高坂陣内こうさかじんないは、情欲に双眸を爛々と光らせ、穢らわしい情念に血を勃々と滾らせる。狂いに狂ったその姿、まさに意馬心猿という言葉の通りである。今しも浅ましさを漲らせ、廊下の突き当たりにカーラを追い詰めて、餓狼が獲物に掛かるが如く、いきなり彼女へ跳びついた。

 あわやと思ったその刹那、陣内の血眼の目の前を、キラリと走る刃の光。カーラが抜いた捨て身のつるぎ、如何に不慣れな彼女でも、死身の気魄を剣に込め、構えを取れば大した物、相手も容易に近付けない。寄らば斬る! と必死の気組み、剣の切っ先に張り詰める。

 はっと陣内は気を竦め、腰を落として隙を見る。ジリジリ後ずさるその内に、一念宿ったカーラの眼と、煌めく剣の切っ先とが、今度は立場を逆にして、陣内の方へ迫り来る。


 しかし此処はもう行き止まり、カーラの後ろには壁があり、左右の部屋の檜戸は、どちらも錠が下ろしてある。逃げようとして逃げられる場所では無い。

 羅刹女の如く凄艶な、カーラでも今こそは、陣内の思うがままに玩弄され、何の容赦も無しに割り込まれるか、自分で自分を守る為、右手めての剣で喉を刺すか――選べる道は他に無い。

 死ぬのがましか、どう足掻いても生きるのがましか。彼女が今から取る道は、当然既に決まっている。


「誰が! 誰があんたなんかに許すもんか!」


 そう叫ぶと自然、柄手に力が漲った。えいっ、と手慣れぬ剣を振り、何の工夫もなく斬り込んだ。陣内は踵を蹴って後ろに跳び、殆ど同時に柄を握り、はばきの音も置き去りに、眼にも止まらぬ居合抜き! 発止と火華が散った時、柳のようなカーラの身は、剣と共に吹っ飛ばされ、惨めに背から落下した。

 やはりこの陣内は、一廉の男でも歯が立たぬ、示現流の達人で、百戦錬磨の剣豪だ。今もつい癖からか、居合いの刃を虚空で返し、抜いた場所から踏み出して、一糸の狂いも無く垂直に、滝の如く振り下ろす。この一瞬にも満たない往復で、今日の今日まで、百人以上は斬ってきた。カーラの付け入る隙は無い。

 彼は、刃光ひかり鈍らず、刀身も曲がらぬ同田貫どうだぬきを見つめ、満足げな表情で、獣情と殺気を放ちつつ、爛々と燃える眼差しで、ジリジリとカーラに寄っていく。


「うう……」


 カーラは背中から地面に叩きつけられ、咳を漏らすだけで起き上がれない。口惜しさに紅唇を噛み締め、何とか上半身だけ起こし、震える切っ先を陣内に向ける。だが、もう陣内は怯まない。カーラは腰を抜かしたまま、ズリズリと後退り、いよいよ袋小路の壁際に背が付いた。

 (もう駄目だ! ハンス……ルカさん!)と、彼女が覚悟の眼を閉じ、意気地の無い心を萎えさせかけた時、ふと陣内は、何か魔魅でも見たように、二米2mほど離れた場所で、急にぎょっと立ち竦む。カーラの後ろから、真っ黒な悪鬼のような男が、血走った形相でこちらを睨んでいる

 陣内は眼を瞠り、情血を一気に冷たくし、残ったのは狂暴な殺気のみ。彼は、カーラの後ろから覗いた男を、一体誰かと慄然し、恐怖に五体を強張らせている……。


 一方でカーラには、後ろを見る余裕が無い。よもや自分の後ろから、得体の知れない男が現れた為に、陣内が二の足を踏んでいるとは解らない。彼が戸惑っている内に跳ね上がり、蒼惶と剣を構え直し、ただ一念に敵を待つ。

 刻一刻、寂寞とした時が流れ、穴蔵のような闇の中、二人の息遣いだけが数えられる。その内に陣内が、微かな呻きを漏らし、カーラの後ろに佇む男を見た。

 彼が今脅かされた、全身黒い偉丈夫は、何処からか、極めて仄かに差す月光で、彼の姿を彼自身の眼に映した、舶来品の姿見だ。行き止まりの壁一面に張られた玻璃の鏡は、カーラの背中と陣内の姿を、すこぶる綺麗に映している。


『ふん。ただの鏡か』


 陣内は闇に馴れた眼で、鏡と知ったその時に、前にも増して猛然と、再びカーラに迫り寄る。途端に、カーラは光の輪を描き、陣内の鼻先へ斬りつける。

 陣内は苦も無く身を開き、彼女の手首をしっかと掴み、手強くじ曲げる。止めて、とカーラの叫びが谺して、振り動かす剣先と、彼女の手を掴む陣内の手が、幾たびも同じ角度で煌めいた。

 その時不意に、カーラの口に蓋していた手を噛まれ、顔を歪めた陣内は、堪らず彼女を突き放す。あっ、と彼女は後退り、ドンと鏡にぶつかった――途端に、壁がぐるりと回転し、驚く間もなくカーラの身は、壁の向こうの空洞へ、頭を先にして消えていく。


『な、なんだ⁉』


 陣内が唖然としていると、また壁は元に戻り、もう後にはただ一面、冷たい鏡が広がって、そこに自分が映るのみ。

 まるで龕燈返がんどうがえしである。網中の大鵬、手中の珠を逃した陣内は、しばし呆気に取られていたが、泳ぐように壁へ寄り、その大鏡面をぐっと押してみた。

 すると、トンと仕掛けの外れる音がして、鏡ごと壁は回転した。陣内もうっかりすると、回転する壁の一端に跳ねられ、闇に続く斜面に呑まれそうである。


 どうやら隠密屋敷らしく、敵に攻め入られた時のために、非常口を設けていたらしい。もし敵が来ても、此処から地下に逃げ込めば、寄手の眼を掻い潜れるという寸法である。しかも一見、身装みなりを整える姿見で、実際に押してみるまでは解らない。

 陣内は歯噛みして、鏡に映る自分へ怒鳴るように、


『おのれ! 此処まで来たのに、逃がしてなるものかっ』


 と、カーラを追うべく、もう一度鏡に手を掛けた。しかし彼は、愕然と眼を瞠り、鏡に向かって伸ばした手を引っ込めた。陣内より背丈の低い人影が、ヌッと鏡に映った彼の後ろに現れたのである。

 人影は陣内の肩に手を掛けて、いと馴れ馴れしく、


『ふふふ。そこは危ないですよ、ご浪人……いや、高坂陣内殿。うっかり鏡に跳ね込まれたが最後、奈落の斜面に呑まれ、この屋敷の地下に転がり込んでしまいますよ』


 嘲笑混じりの声は、高くも無く低くも無い。何処かで聞いた事のある声に、陣内がヒョイと振り向くと、例の金髪の若者――ヴェイス・フリードが、彼の肩の辺りで笑っている。このヴェイス、弱冠二十歳のくせに、七つも上の陣内に、臆する色は微塵も無い。むしろ飄然とした微笑みと口調で、程良く殺気を躱してる。

 反対に陣内は、唐突に現れたヴェイスに狼狽し、咄嗟の言葉が見当たらない。もう相手の名前まで把握しているヴェイスは、ニヤリと皮肉な笑いを見せ、


『いやはや、とうとう拙宅に忍び込んでいらっしゃいましたね。裏口からですかな? 貴殿が入り易いよう、わざと鍵を開けておきましたが、お気に召しましたかな?』

『……』

『ふふふ。カーラが拙宅で一週間以上、居催促をしているのも承知の上です。今日辺り、貴殿がいらっしゃるであろうと思い、先に入り込んで、あちこちの壁仕掛けやら隠し通路をいじっておいて、カーラを此処まで誘導しましたが、見事的中ですな。……彼女は私が預かりましたよ』


 何もかも予想していたヴェイスは、いやに年寄り染みた口調で、ポンポンと陣内の肩を叩いて言う。その男とも女ともつかぬ容姿にも、男にしては高い声音にも、陣内は内心に冷や汗をかいていた。

 ヴェイスは書院の檜戸を開け、中に入って燭台と暖炉に火を付けた。そして真鍮製の燭台を手に持って、陣内を手招きしている。くすんだ火影に照らされて、ヴェイスの微笑みが、いよいよ以て不気味である。


 陣内は当惑の表情でヴェイスを見た。こういう掴み所の無い男は、彼の最も苦手とする者である。咎め立てをしたり、いきなり躍り掛かってきたりなどするなら、まだ彼に取ってはあしらいやすい。しかし、今目の前にいる男は、不敵な笑みを浮かべるだけで、腹の底が読み取れない。

 陣内が敷居を越えかねていると、ヴェイスはまた笑って、


『ははは。ご懸念は無用です。此処は私の書斎、廊下や大広間のように、床が開いたり矢が飛んだりは致しません。私は良いですが、貴殿はカーラの身を取られたままでは帰れますまい。ささ、どうぞ中へ』

『……よし!』


 陣内も腹を据えて余儀なく頷き、ズイと大股で部屋に入り込む。刀を鞘にしまい、長椅子に腰を下ろした。

 ヴェイスは紅茶を用意して、銀の茶碗に注いで陣内の前に差し出した。少し経っても茶碗が変色しないので、どうやら敵意は無いらしい。

 

『ヴェイス殿。よもや、地下から屋敷の外へ抜け道などありますまいな。頭を打って死んだ、という事も』

『ご心配はありません。着地するのは床ではなく、分厚くて柔らかい敷物の上です。それに脱出用に裏口へ続く梯子はありますが、それも私が外してあります。貴殿がお望みとあらば、すぐに梯子を用意致します。ですが、その前に私の望みを叶えて頂きたい』

『承知。カーラの身と引き換えとあらば、お断り致す理由はございませぬ』


 陣内は一も二も無く承知した。ヴェイスは相手が単純なのに、内心ほくそ笑んでいたが、それを面には出さず、相変わらず無害そうな笑みを見せ、瑠璃の瞳を動かして、額越しに陣内を見直した。

 ヴェイスは一呼吸置いて、


『望みとはつまり、貴殿の同田貫をお借り申し受けたいのです。それで貴殿のお得意を発揮して頂きたい』

『は? カーラの身と引き換えに得意な事、と仰いますと? それにどうして拙者の刀が同田貫だと』

『ふふふ。さっきの居合を見て、貴殿が手練れの辻斬りだという事は見抜いております。そして、大抵辻斬りというものは、剛刀を使います。何よりもその武骨な柄、同田貫そのものです。得意と申しますは言うまでもなく、人を斬って頂きたいのです。どうです、算盤を弾いて考えてくだされ』

『ふむ、成る程……。中々念入りなお頼みですな』

『それをご承知くださるなら、地下に落ち込んだカーラの身は、私が必ずお渡し致します。嫌とあらば物別れ、このヴェイス、とかく気まぐれな男でして、妙な依怙地を起こして、彼女の味方となるやもしれませんな。何処かに逃がしてしまうかも? ははは』


 ヴェイスは独り言のように、陣内を唆したり脅したりする。紅茶を啜りつつ、美味そうに焼き菓子を口に含む。

 陣内は何も出来ず、目の前で低く笑う青年を、忌々しげに見つめていた。


 高坂陣内のような剣客を、こうも呑んで掛かるヴェイスは、優男の見た目からは、全く想像も出来ぬ程、狡知奸弁を頭に満載している。絶えず、悪心が頭に渦巻いて、また行動が殆ど打算的である。

 それに反して陣内は、剽悍なる一本気、計画も無く衒いも無い性質たちである。常にその場の本能に任せ、悪を悪とも思わない。自分の欲情を何でもやってのけようとする、先天的な男である。

 どちらも物騒極まる悪党だが、ヴェイスを、帝都に洗練された都会型の悪党とみるならば、陣内は、ジパングの侍気質の暴勇を惜しげも無く振るう、野性的な悪党である。


 全く反対の悪玉と悪玉とが、妙な切っ掛けで、カーラを渡すか渡さぬか、駆引き比べとなってしまった。

 刃で渡り合うならば、陣内が負ける筈は無い。しかし舌先三寸では、とても彼はヴェイスの敵では無い。屋敷の前で会ってから、只管翻弄されている。

 (小癪な青二才め……)と、陣内は癪に障っていた。カーラを渡すも渡さぬもあるものか、面倒だ。こいつから先に斬り捨てて、家の地下を改めてみよう――と、密かに殺気を撓め抜いている。


 ヴェイスは、早くもそれを感知して、眼を血走らせる陣内に向かって、取って付けたような笑いを上げ、


『だいぶ熟考ですな。何を迷うことがありますか。辻斬りの達人、高坂陣内殿が、一晩暇を潰せば、それで済むのですよ』

『まあまあ。もう少し考えさせてくだされ』


 焦らしてやろうという腹づもり、隙を測る心支度で、陣内は腕組みしながらも、凄い上眼使いでヴェイスを睨む。

 ヴェイスは熊野筆を取り出して、何か紙に書きながら、


『そうですか。まあ夜は長い。お考えも、ごゆるりとなさるが良いでしょう。そうですね、適当に本館の部屋でお休みになってください。……しかし、煎じ詰めた話ですが、貴殿のお答えは応、以外有り得ませんな。つまりカーラの運命と似たり寄ったりなものです。命と惚れた女が欲しいなら』

『生意気な!』


 と、ヴェイスが言い終わらぬ内に、陣内は素早く立ち上がり、同田貫の柄を掴み、相手の眉間へ抜き払う。

 しかし、とうに予想していたヴェイス・フリード、さっと仰け反って刀を躱し、踵を蹴って、陣内から少し距離を取り、下りてくる二の太刀へ、持っていた筆を横に翳す。そのまま筆ごと斬られるか――と思われたその時に、眼を灼く火華が飛び散って、刀は斜めに流された。

 陣内が斬り掛かってくると予測していたヴェイスは、鉄の筆を持っていた。しかも膂力に劣るので、敢えてまともに受け止めず、刀を横に流したのだ。


 ヴェイスは筆先を陣内に向け、不敵な微笑を浮かべつつ、


『成る程。それがご自慢の居合ですか。予想してしっかり備えていても、危なかった。そんな狼藉を為されては、カーラにも嫌われますぞ。いやいや、止してくだされ、そんな野暮は。ふふふ……』


 と、憎たらしい面で冷やかした。

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