追われる者と追う者と

 師走の烈寒が、今日は少し和らぐのか、気まぐれな花が咲いている。凍て晴れの空は澄み渡り、街道沿いに霜が降りている。雪が解け残って、綿の如く裸木に付いている。

 そんな冬日和の宿場を出ると、街道がずっと続いている。松並木が両脇に植えられて、左ではもずつぐみが啼いており、右は松が途切れたところから、青々とした海が望まれる。気怠げに波打つ浦と浜が、帝都の水門まで続くのだ。

 寒さがやや穏やかな、寒凪の朝なので、砂浜にも沖にも、小鰭や鰤を釣り上げようと、漁師が忙しなく働いている。明け方に取れた魚は、既に帝都の朝市に並んでいた。


 何処からか、心地良い笛の音が聞こえてくる。今しがた、外套頭巾に顔を隠し、宿場を発った青年が、風流な鉄笛を吹いている。かつ、戛……という足音に混じり、長い尾を引く笛の音。往来を行く旅人も、車力も思わず手を止めて、うっとりとそれに聞き惚れた。

 笛を吹いていた青年は、浦伝いの街道を、帝都に向かって歩いている。ふと、彼は鉄笛を、腰の左に下げた袋に納め、強い感慨に衝たれたように、その場で棒立ちになり、茫然と沖を眺め始めた。


「オオ……帝都が見える……」


 と、彼は外套の内から呟いた。波に縒れ、波に散り広がる陽光が、青年の、玉映のような顔を照らしている。細い丹唇に細い鼻筋、もっと深く覗いてみると、切れ長く、凜とした明眸が、海を隔てた帝都の空を、じっと見つめているのである。

 容姿端麗たる青年は、何を思い耽っているのだろうか。やや暫く、忘我の態で立っていたが、また少し足早に、石畳の道を急いでゆく。小一時間ほど歩いた彼は、河の渡し場に着いていた。

 帝国では伝統的に、大きな河に橋は架けない。反乱が起きた際、容易に進軍させないというのもあるが、渡し船を公有することで、帝国が莫大な利益を得るのも、橋を架けない理由の一つである。幾つか設けられた待合所の中には、乗り合いの客が犇めいている。


 合羽を着た旅の男と、風呂敷包みを持った女が、火鉢の側で話している。


「全く、年の暮れだというのにえらいことになりましたよ。息子が受け入れてくれるから良かったですが……」

「お気の毒なことです。それにしても、貴族街から、奉行所まで焼いてしまうなんて、一体何処が火元だったのでしょうかね」

「何でも、怪し火だそうで……。定火消も町火消も、対応が遅れてしまったんです」


 どうやら話は、数日前の火事のことらしい。すると、それを横で聞いていた一人の男が、慌ただしく煙管の火を消して、二人の会話に割り込んだ。


「どうしたんですか? 火事でもあったんですか」

「知らないんですか。一昨日の夜、帝都の南区で大火事があって、一帯殆ど焼け野原ですよ」

「え⁉ そ、そんな事があって堪りますかっ。願掛けがあって、ヴルカ火山に行ったのに、その留守に家を焼かれてしまうなんて……。神様をお詣りして、火事に遭うなんて、そんな篦棒なことがあって堪るかっ」

「……」


 そんな会話を、先の青年が、火鉢に当たりながら聞いていた。顔を覆っているので、表情はよく見えないが、「火事」と聞いた彼は、不安そうにくちを動かした。


 ――渡し船が河を越えると、我がちに客が降りてくる。帝都大火の噂を聞きつけて、憂いの色を見せていた青年も、一番後から桟橋に降り立った。

 そして、小走りに道を急ぎつつ、彼が再び帝都の方を見ると、大火の余燼が濛々と、薄黒く空を覆っている。

 何とも案じられて堪らないのか、関所に着くと、役人に手形を差し出しつつ、


「すみません。一昨日、帝都で火事があったそうですが、貴族街の方はいかがでしたか?」

「ああ、焼けましたよ。というより、南区はもう八割方全焼してしまいました。残ったのは、火除地くらいなものだそうです」

「とすると、隠密組頭の黒屋敷もですか」

「はい、そのようです。ああ、そうだ。申し訳ありませんが、楽士さん、お顔を見せてくれますか?」


 青年は茫然としていたが、震える手で頭巾を後ろへやる。この青年楽士こそ、ルカ・ウェールズその人である。

 港町ハーフンで、ユフの真心に動かされ、初志を翻したルカは、ジパング領事館の様子をほぼ見届け、国主である源頼経みなもとのよりつねが、帰国の途に着くまでを見届けた。その後、大急ぎで帝都に来たのである。

 彼は、先に帝都へ向かわせたハンスが、ユフの惨たらしい顛末や、自分が来るであろうことを、ミーナに伝えて手筈を整えているのだろう、とばかり思って此処まで来た。


 しかし意外なことに、隠密屋敷のある南区は、怪し火とやらで焼失した。もしミーナが焼け死んだら、全ては水泡に帰してしまう。ハンスや彼の、心を砕いての活動も、全く徒労に終わってしまう。

 ルカは、帝都に帰るつもりは毛頭無かった。終生、侘しい楽士として、旅に人生を終えるつもりであった。ユフが死の刹那に、凄絶な男気と義侠を見せたので、彼は心を衝たれたのだ。そうでなければ、五年、十年、二十年、或いは死ぬまでも、ミーナから貰った鉄笛に、寂寥たる心を託すつもりであった。

 しかし、今こうして帝都を眺め、だんだんと帝都へ近付くにつれ、彼は、何とも言えぬ愛着を呼び覚ましていた。やはり、生まれ育った郷土というものは、不思議な魅力を持つらしい。如何に仇があり、迫害があり差別があろうとも、煩い情実や陥穽があったとしても、土地や家族、友人達そのものには、素晴らしい懐古の心がある。


 ルカは三年前、十五の歳に帝都を捨てた。二度と帰るまい、帰ればまた辛くなる、と彼は流浪漂泊の旅を続けていた。

 ルカは、幼い頃から共に過ごしていた、ミーナに恋をした。ミーナもまた、少し歳上の彼に、為すべからざる恋をした。隠密組は、諸国に探りを入れるのが役目である。そのため、帝国の政策として、同役の者以外とは、縁組出来ないのが御定法。

 お庭番とも称される、隠密組の者達は、いずれも禁中の出入り自由で、皇帝や元老達に会うときも、直問直答の制度である。所謂、御用探偵というべきであり、帝国は、その秘密が漏れるのを、殊の外嫌っていた。


 しかし二人は恋をした。人目を忍んで逢っていたのが、どういうわけかヴェイスに感づかれた。しかし、彼は敢えてそれを誰にもいわず、ルカを気遣う振りをして、

 

「ルカ様、私は貴方やミーナ様が帝国に目を付けられ、所払いになることを好みません。それに、ウェールズ家とティーレ家がお取潰しになることも」


 と、さも二人を案じる顔をしつつ、内心では、ルカを帝都から追い払うつもりであった。

 ヴェイスは、腰巾着のクライヴに命じ、巷に風説を流布させて、虚実綯い交ぜの噂を流したのだ。こうしてルカは、帝都から出奔せざるを得なかった。

 

「……とにかく、急いでみるに越したことは無い。ハンスも先に入っているだろうし、町に入れば、詳しい様子も解るだろう」


 と、ルカは萎えかけていた自身を叱咤して、我が心に鞭打つように、足を素早く進めていった。

 ヴェイス・フリードの脅威であり、高坂陣内こうさかじんないが恋仇、そしてカーラが恋い焦がれているルカ・ウェールズが、遂に帝都に至ったのだ。


 そんな彼から少し遅れて、関所に入った者がいる。草鞋に野袴を佩いて、来国俊らいくにとしの大小を差し、熊谷笠を被っている。軽捷な旅装束の侍は、役人に手形を差し出しつつ、笠の内から、ルカの背中を凝視している。

 調べが終わった役人は、侍に手形を返し、慣例通りに、


「よろしゅうございます。ではお武家様、最後にお顔を見せて頂けますか」

「はい。承知しました」


 と、引き締まった武芸者姿に似合わない、嫋やかな声が返ってきた。熊谷笠を取った侍は、柳眉が伸びるかんばせに、黒真珠のような瞳を持ち、亜麻色の短髪を戴く女武士。朱唇皓歯たる彼女こそ、ルカを付け狙う、ジパングの武田茜たけだあかねである。

 彼女は、主君からルカを仕留めよと命じられ、また憎たらしいハンスを斬殺すべく、港町から此処に至るまで、幾度かルカに接近したが、相手には油断も隙もない。

 ルカが帝都の雑踏に紛れていまうと、討ち果たすことは困難だ。しかも、そのまま行方知れずになる怖れもある。そのため、何処かで斬り捨てる気でいたが、遂にそれを果たせなかった。


『どうにかして今日こそ……。はぁ……』


 昂ぶる戦意や気性こそ、男勝りな茜だが、何しろ女性にょしょうの身であるし、元来虚弱な体質だ。

 長旅の疲労から、幾度も汗を押し拭い、小刻みな息を漏らしている。しかしその凜々たる性質は、彼女を諦めさせはしない。

 (姉上……お守りください!)と、姉のあおいから貰った護符を握りしめ、ルカが右に行けば右へ、辻で止まれば立ち止まり、歩めばそれに従って歩き出す。食事も同じ店の離れた席で取り、所謂、影のように尾け廻していた。


 東区管内は、帝都の商業地帯である。夕方になっても、人通りは昼間と変わらない。身の丈が低く、体躯も細い武田茜は、荒れる川のような雑踏に、揉まれながら歩いていた。

 幸いにもルカは常人より、頭一つ分背が高い。彼の真っ黒な髪を目印に、何とか茜は尾行を続けている。するとルカは都合良く、人通りを避けて裏路地に入り込んだ。もう既に日は暮れて、辻の街灯には火が灯されていた。

 と、先に行くルカは、後ろに切れの長い眼をやって、


「やはりアカネが尾けているな……。面倒だ」


 と、呟いた。彼はとうに、刺客が尾けているのを察知していたのだ。不意に雨が降ってきた。折りの悪い驟雨とみえ、桶を引っくり返したような、突発的な豪雨である。

 沛然たる雨の中、ルカは何か思いついたらしい。茜を撒いて、姿を眩ます思案をしていた彼は、いきなり後ろを振り向いた。


『あ……』


 まずい、と思ったのか、茜は慌てて足を止め、路傍にあった木箱の影に身を隠す。途端にルカは、右手にある建物に、身を翻して駆け込んだ。

 ルカの動きが飛鳥のようだったので、茜は一瞬、彼が消え失せたのかと錯覚した。やや暫く、眼を白黒させていたが、はっと彼女は気が付いた。以心伝心。茜はルカが、自分に感づいていると悟ったようだ。

 今ルカが姿を隠したのは、諸国放浪の楽士を支援する、同業者組合の本部である。関係の無い茜が入っても、追い返されるだけである。


『とにかく、外で待ってみよう……。見逃してなるものか』


 と、彼女は、五階建ての建物を囲む塀の影に隠れ、身を低くして入り口を睨んでいた。

 しかし、程なくして彼女は愕然としてしまった。雨が降りしきる夜なので、本部から出てくる者達は、須く外套に身を包み、雨除けの頭巾を被っている。みんな顔が隠れている上に、朧気な火光しか道の明かりは無い。

 刀の目釘を湿らせて、凄まじい気組みだった茜は、まさか一人一人に詰問するわけにもいかず、虚しくそこで、立ち尽くしていた。

 (ルカ殿は、楽士であることを利用して、拙者の眼を惑わすために、わざと姿をそらしたに違いない。不覚だった……)と、彼女は自分を罵りつつ、蛾眉を嶮にして眼を怒らし、ルカの姿を捜し始めた。


 その頃、ルカは裏の土塀をひらりと越えて、小走りに本部から離れていた。三十分ほど走った後、ちらりと後ろを振り向くと、もう茜の姿は無い。


「これであの女も当分、俺のことは見つけられないだろう。思ったより上手くいったな……」


 と、彼は会心の笑みを浮かべ、黒屋敷のある南区へ歩を進めていった。

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