水と油が手を組んだ

 ハンスは更に声を励まして、身は少しでも届けと爪先立ち、女の声が聞こえた雨戸に向かって、


「今答えてくれたのは、ミーナ様ですよね?」


 と、口に手を翳して問いかける。今度は暫く、何の答えも無かったが、ハンスの方から二度三度、同じように呼び掛けてみると、はい、と嫋やかな声が聞こえてくる。

 またハンスは念を押すように、今度は大声で、


「お姉さんは隠密組頭ティーレ家のご令嬢、ミーナ様ですよね?」

「……ええ、そうですよ」


 よし、とハンスは改めて確信し、雨戸に足を近付けつつ、どうにか覗こうと思案したが、到底背丈が足りていない。僅かに空いた隙間から、冬の風が吹き込んで、絹の帳が揺れている。壁まで黒い屋敷の窓で、まるで羽衣が見え隠れしているようである。

 ハンスはようやく、一遍に重荷を下ろした心地がし、胸を撫で下ろす。まず此処が、ミーナ様の部屋であるらしい。高窓を見上げつつ、ハンスの胸にはまた一つ、好奇心が湧いてきた。


 (これくらいの高さなら、何とか届きそうだな)と、彼は壁を見ながら目星を付けた。とかく、この歳頃の少年は、予想が的中した時と、その慢心に味を占め、新たな手柄を探るのだ。

 加えてこのハンス、生来好奇心が旺盛で、母親を困らせてきた悪戯少年、いつも小賢しい知恵を廻らしている。しかし今まで何度も、己の小知恵に揶揄われて、神楽堂の外で神楽舞をやっているような、お話にならない骨折り損を繰り返してきた。

 しかしそれでも懲りない彼は、今も少し驚かせてやろうと思ったようで、何かじっと考え込んでいる。


 やがてハンスは、屋敷の壁から離れて、黒い板塀に背中を付け、地を蹴るように駆け出して、栗鼠りすの如く黒壁を駆け上がる。

 窓に近付けるだけ近付くと、ぐっと右手を力強く伸ばし、窓枠の端を引っ掴み、足を上げてそこに登った。

 ハンスはニヤリとして、雨戸をコンコンと叩いたが、彼が散々疑心を抱いたように、先でも警戒するらしく、待てど容易に返事はない。それでハンスは、先に疑惑を解いてもらうために、


「決して怪しい者じゃありません。ミーナ様もよくご存知の、ルカ・ウェールズさんからの遣いで、大事な用を帯びて来たんです」

「えっ? ルカさんから?」


 応えがあったので、ハンスが固唾を呑んでいると、白い手が雨戸の隙間から差し出された。彼がそれに手を伸ばしてみると、不意に! 白い手が彼の手をぐいと掴んで引き込んだ。

 雨戸に強く捻じつけられ、ハンスは俄に仰天し、危うく窓枠から滑り落ちそうになる。藻掻けど藻掻けど、窓の角に手がくびれてしまう。


「い、痛い。痛いっ」


 嫋やかな声に連れ込まれ、油断しきっていたハンスは、泣き言にも似た叫びを上げて、歯噛みして振りほどこうと藻掻いたが、壁に足を掛け、両手で渾力を込める家の中の者と、足場の悪い窓枠に立っているハンスとでは、地の利において大変な相違がある。

 こういう結果になってみると、やはり世の中、思い通りにはいかないようで、二四にしが九、三五さんご十九である場合も、常に心得ておかねばならないと解る。

 そんな事は釈迦が経文を諳んじているより、百も千も合点しているハンスにとって、今この失策は遺憾至極である。彼は懸命に膂力を絞り、逃れようと試みつつ、相手が誰であろうかと、必死に考えざるを得なかった。

 

「痛いっ。まさか、ヴェイス・フリードかっ?」


 しかしそうだとしたら、先程の嫋やかな声は不自然だ。いや、声ばかりではなく、今ハンスの手を掴んで離さぬのも、柔らかくて温かい、確かに女の両手である。

 しかしそれにしては随分と、粘り強く掴んで離さない。しかも時折彼を揶揄うように、掌を指でなぞるのだ。

 ハンスは歯噛みして、腕が抜けるか女が離すかとばかりに、再度の強引を試みる。空いている方の手を壁につけ、ぐっと力を込め始める。すると中から、憎いほど落ち着きすました声で、


「危ないよ。騒ぐのは止めた方が良い。あたしの側には粗末な剣があるから、あまりジタバタすると、あんたの手を鰻の首でも仕留めるみたいに、窓板に刺してしまうよ?」

「そ、その声、まさか……。わ、解った、解ったよ」


 剣で手を留められては敵わない、とハンスは冷や汗を流しつつ、羅城門の鬼のような女に従った。

 一体誰だ――とハンスは沈思している。ヴェイスでないとすれば、ミーナ様に相違ないが、お淑やかだと聞いていた、お嬢様とはまるで違う。しかも、何処かで聞いた事のある声なので、ハンスは首を傾げて止まない。

 しかしあのお内儀が、ティーレ家がお取り潰しとなった後、住み着いたヴェイスの手で、ミーナ様が密かに監禁されていると言っていたので、益々怪しまざるを得ないのだ。やがて彼は遅疑逡巡、皆目見当も付かなくなってしまった。


 家の中の女の方は、口の裡に笑いを含ませ、忌ま忌ましさに口を尖らせるハンスに、


「あはは。何もこんなに苛めることは無いんだけど、ちょっと揶揄いたくなって、捕まえたんだ。実は、少し聞きたい事があるんだけど、此処だとちょっと都合が悪いから、後であたしの家に来てよ、ハンス」

「え……。じゃあ、君はこの屋敷の人じゃないの? それにどうして僕の名前を」

「誰がこんな草茫々のお化け屋敷に住むものですか。あんたは密偵で、あたしは掏摸。お互いに困ってるんだから、協力しようよ。じゃあこう言えば解るかな。下町酒場の看板娘――」

「あっ、カーラさん⁉」


 ハンスは駭然したのと、急に手を離されたので、危うく窓枠から落下しかけたが、素早く窓を開けた二つの手が、彼の襟首をぎゅっと掴み、そのまま部屋の中に引き込んだ。

 ハンスが頭をさすりながら起き上がると、日没間際の夕陽を受けて、蠱惑に微笑む一人の少女――見ると、白い長袖の上に青の袖無し上着を着て、如何にも町娘といった身装みなりだが、短い銀髪に輝く翠眼、それはカーラ・サイツに違いない。


 ハンスは彼女を見て、眼を皿のようにして驚いた。家違いでもしたのかと見廻すが、確かに此処はかつてのティーレ家、今ではヴェイスの表札がある黒屋敷。そこにカーラは自分の家が如く、澄ました顔で座っている。

 半年ほど前に見た、旅装束とは打って変わった姿だが、争えぬ美貌の白皙は、ハンスの気色をまじまじと見つめている。カーラはっぽく笑い、


「あはは、久し振り。驚いたでしょ? 痛い痛い、だなんて……あはは」

「か。カーラさん……。本当に、心臓が止まるかと思ったよ……。でも、どうして此処に?」

「ごめんごめん。実はね、札博打で貸した金の催促に来てるの。でも、この屋敷、いつ見ても釘付けだからさ、ちょっと人に頼んで、裏の塀と勝手口をぶっ壊してもらったんだ。それでこの部屋に上がり込んで待ってたんだ。それにしても、妙な所で会ったね」

「そうなんだ。そう言えば、頼みたい事ってなに?」

「実はね……ルカさんと、その、知り合いみたいだから、詳しく聞きたいな。とにかく後で、東地区にあるローグっていうお店にきてよ。あたしの部屋は二階にあるから」


 カーラは口ごもり、顔を伏し目にして、心に何か描いている。港街で引いた月夜の風邪は、治るどころか、恋飛脚の梅川が如く、よりいっそう根深くなったらしい。

 ハンスは力強く頷いて、カーラの顔をしっかり見据え、解った、と言った。カーラはその彼を見て、ニッコリ無邪気な笑みを見せ、今度は彼の頼みを尋ねてきた。

 いつもの彼女なら、ここで上手くはぐらかし、相手に虻蜂取らずの結果を見せるのだが、どういうわけか、ハンスが少し気に入ったとみえ、弟でも見るような眼で彼を見る。


 ハンスは真剣な眼差しだが、カーラの顔を直視するのは気恥ずかしいらしく、若干眼を逸らしつつ、


「この屋敷の中に誰かいなかった? カーラさんと同じ、十五歳の女の人で、ミーナ様って言うんだけど、ヴェイスに監禁されているんだ」

「うーん。見なかったなぁ。第一、この凄く不気味で中は全部真っ暗だよ。ヴェイスが時々帰って来るくらいじゃないかな? もしかして、あたしをその人と間違えたの? あたしも黙ってビシッと立っていれば、貴族のお嬢様に見えるのかもね」

「うーん、顔だけならそうかもしれないけど。……カーラさん、君のお願いはまだ詳しく聞いてないけど、きっと僕が引受けるから、僕のお願いも聞いて欲しいな」


 本当? とカーラが俄に白皙をズイと近付けてきたので、ハンスは思わず瞠目し、顔を紅潮させた。しかしカーラの方は、気味の悪いほどうっとり陶酔した顔で、ハンスに語りかけた。


 ハンスは精々、博打を黙っていてくれだとか、掏摸の事を見逃してくれだとか、それくらいに思っていた。そういうわけなので、彼は、カーラの依頼に少し絶句し、呆れもした。

 まさかルカ・ウェールズへ一途に抱く、初心な恋心だとは露ほどにも思わなかったのである。彼がここでカーラを利用しようとしたのは懸命だったが、反対に頼まれたことは、かなりの艱難辛苦に繋がりそうな事であった。

 これが常人なら、頼んだことはやらせておいて、頼まれたことは忘れてしまうだろうが、ハンスには、カーラに港街で助けられた恩ともう一つ――彼自身も気が付いていないが、彼女の頼みを断れない気持ちがある。


「わ、解った。任せておいて」


 と、ハンスはきっぱり頷いた。カーラはと嬉しそうな顔を見せた。帝都へ帰って以来、片時も忘れた事は無かったが、儚い恋と諦めていた、ルカへの接近に、一縷の望みが繋がれた。

 カーラはまた、悪戯っぽいえくぼを見せて、俄かにハンスの手を取った。そして、彼の小指と自分の小指を優しく繋ぎ、約束だよ、と声を弾ませた。彼女からすれば、ちょっとハンスを揶揄ってやるくらいの気持ちだったのだが、この約束の所為で、彼が後に、どれほどカーラのため、暗中模索する事になったかしれない。

 ハンスは先程とは違い、今度は、カーラの手だと解っているので、襟足まで朱泥のようにして、真っ赤な顔をと背け、


「ほ、ほら。今度は僕の番だよ。その、上手くヴェイスを騙して、ミーナ様を連れ出して欲しいんだ」

「良いよ。お姉さんに任せておきなさい」


 カーラは一も二も無く承諾した。すると俄に彼女は眼を反らし、じっと窓の外を睨み付ける。塀の外から忍びやかに、地面をこする雪駄の音……。


 ハンスは歯噛みして、窓の外に顔を出し、もう逃げ口を探しながら、


「まさか、ヴェイス? 悪い所に帰って来たのか」

「……多分違うよ。あれは別な人だね。厄介には変わりないけど」


 ハンスは些かとして、カーラの方に向き直り、


「いくらヴェイスに監禁されているミーナ様でも、会ったこともないカーラさんに言われて、屋敷を出る事はないだろうから、こう言ってよ――近いうちにルカさんが帝都にきて、ミーナ様に会いたいって言ってるけど、それにはヴェイス・フリードなんて奴の屋敷では都合が悪いから、屋敷の外で――ってね」

「えっ、じゃあルカさんも近いうちに来るの? まあ……」


 牡丹が花を開ききったように、カーラは満面に喜色を見せた。もう既に夢見心地である。この少女の独り善がりは、生来の気質と見えるが、月夜に引いた夏の風邪、それがその気質に輪を掛けているらしい。

 カーラは自分の胸を軽くポンと叩き、


「良いよ、任せて。ミーナ様とか云う人、あたしがきっと、ヴェイスを上手く騙して連れ出してあげるから」

「じゃあ落ち合う場所は、カーラさんの家だね」

「うん。一週間くらいしたら来てよ。あたしの部屋は二階の一番奥だからね」


 有難う、とハンスは明るく言って、窓からするりと抜け出して、窓枠にぶら下がり、トンと難無く着地した。

 カーラが空けた裏の塀の穴をくぐって外に出ると、もう陽は暮れて、夜空には群星が宝石のように輝いている。夜風を受けて彼は少し悄然とした。寒いというのもあるが、もう一つ別な感情もある。

 ハンスは屋敷の方をかえりみて、寂然と溜息を一つ為し、今宵の宿を探して歩き出す。塀の角を曲がろうとしてすぐ、彼は心臓が止まるのではないかというくらい、愕然として立ち止まった。

 

 今ハンスと偶然、鉢合わせたのは、黒縮緬の頭巾を被り、黒いぞっきの着流し姿に、鉄漿染おはぐろぞめの羽織を纏う、背丈の高い一人の男。同田貫どうだぬきの太刀を帯に差し、鮫尾の雪駄を履いているのは、他ならぬ高坂陣内こうさかじんないであった。

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