悪い奴らが巡り会う

 墨渋を塗った黒塀と、篝火から離れた闇に紛れ、黒鬼のような高坂陣内こうさかじんないは、目の前にいても見失いそうで、ハンスはもう声も出ない。

 一方で陣内は、陽が暮れた後に子供が出歩くなんて怪しからん、と言わんばかりに、暫くハンスを見つめていたのだが、何かの拍子に彼だと気が付いて、物凄い眼光を覗かせた。蛇のように鋭く冷たい眼光に、ハンスも思わず息を呑む。

 (じ、ジンナイだ……。ど、どうして帝都にいるんだ)と、彼が何とか勇を奮い直し、必死で陣内を睨んでいると、相手もまた、同じ気構え同じ敵意。半年前に味わった屈辱を、今ここで晴らしてやろうかという気概である。


 陣内をして言わせれば、憎たらしいハンスが目の前にいるのは、即ち斬れと三世相に書いているのと同じである。どうしても彼を、同田貫どうだぬきの錆にしない内は、恐らく陣内も収まるまい。

 彼はハンスを睨んだまま、ハンスは彼を見上げたまま、寂寞とした時が僅かに流れた。斬ってやろうか――と陣内は幾度も思ったが、その度に心の裡で、


『いやいや、ここは拙者にとって大事な瀬戸際だ。折角カーラを見つけて、こんな薄気味悪い屋敷まで追い掛けてきたんだから、またいつかの時みたいに、気狂いされたら敵わん。向こうが何も言わないなら、拙者も黙っていよう』


 と、自分を戒めている。

 ハンスの方は彼自身、陣内の剣には敵わぬと自覚しているので、ただ空元気のみである。しかし、生来の気質は彼に勇気を与えるようで、一歩も退いたり泣き叫んだりする気配は無い。

 (く、くそ。このけだものめっ。きっとカーラさんを追い掛けてきたんだろうけど、酷い目に遭わせたら許さないぞ)と、思わず腰の双剣に手が伸びる。


 柄手を握って震えているハンスを見て、殺気を感じた陣内は、稲妻のように手を動かし、同田貫の柄をしっかと掴み、鮫尾の雪駄を踏み開き、必殺の構えで彼を睨む。

 あわや! と思われた時である。塀の中から、耳に心地良い歌声、静かな夜に相応しく、いと柔らかな歌声が流れてきた。裏手からは見えないが、カーラが退屈しのぎに、小さな宝石を散りばめた黒絹のような夜空を見上げ、気まぐれな歌を謡っている。

 その優しい歌声が、ハンスと陣内の間に起こった、悽愴な殺気を打ち消して、二人を理性に返らせた。殊にハンスは、リカードとヒルデの訓戒を思い出し、瞼を閉じ、声を震わせて、


「こ、こんばんは」


 と、陣内の横を早足で通り過ぎた。陣内の方もじっとハンスを横目で睨み、


「こんばんは」


 と返したが、もうハンスはその時、脇目も振らずに木枯しのように駆けていた。遠ざかっていく背中を見送りつつ、陣内は相変わらず魁偉な容貌で、縮緬ぞっきの懐手。ハンスとはあべこべに、黒塀に沿って歩き出す。

 いつまでも同じ所に立ち止まっていると、不審者扱いされかねないので、それを紛らす足取りだ。なので至って悠々とし、雪駄の音も軽やかだ。ハーフン以来、久方振りに姿を見せた彼であるが、帝都でも持病の辻斬りをすると見え、身装みなり持物、履物に至るまで、ジパングの上級武士に劣らぬものである。

 帯も流行りのものを締め、羽織の紐も高級品。カーラの眼を惹こうと必死な彼は、これで彼女が参らなければ、また一工夫という腹づもり、諦める気は全くない。さりとはこの黒頭巾、何処まで根気強い男であろう。


 好色一代の浮世之介に劣らぬほど、好色異常な彼であるが、カーラを見てから禁欲同然、女も買わず辻斬りも無駄にせず、かつ職業というものが無い。全ての精と力と時間とを、カーラを手に入れる事だけに掛けている。無論、庶民街にあるカーラの部屋も、執念深く突き止めていたのだが、衛兵番屋が近くにあるので、遂に今日まで良い折が無かった。

 そうしている内に、カーラが時折、配達に行くような姿をして、裏路地の店で博打をしているという噂。果たして今日、朝から見張っていた陣内は、彼女の後を尾けて、賭場まで行った。

 しかし今日は彼女の運が良くなかったらしく、酷い落ち目が続いてしまった。彼女が負け金を工面するため、ヴェイスへの貸金を催促しにこの屋敷にきたのを、陣内は彼方からずっと尾行していたのである。


 (確かにカーラはこの屋敷にいる筈……。だが、ヴェイス・フリードとやらはどんな奴なんだ)と、陣内は懐手のまま、広い屋敷の外郭を、獰猛な獣が獲物の籠を廻るように、心の爪を研いでいる。

 しかし妙案は出てこない。そもそも、カーラの方から御免被られている陣内である。どう懐手をしてみたところで、妙案のある筈がない。俄に彼女の心を惹ける理由も無い。

 しかし陣内は、無いとは全く思っていない。あると固く信じている。まだまだカーラを、自分のものにする手段は山ほどあると信じて止まない。金ずく腕ずく根気づく、或いは脅し、或いはホロリとさせる泣き落とし……。

 でなければ手籠めにする。泣き叫ぶ彼女を組み敷いて、無理矢理へ割り込んで、彼女の胎に自分の胤、呪いの忌み子を宿させる。


『ふウん……いくらでもあるじゃないか』


 独りごちた陣内は、いつしか屋敷の周りをぐるりと廻り、表門の前に立っていた。「ヴェイス・フリード」という表札はあるが、草茫々として、門も所々錆びている。まるで羅生門のように荒寥として物悲しい。

 ドンと一度蹴ってみたが、門も横の通用口も、開く気配がまるでない。陣内は裏手の穴にも気が付いておらず、ハンスのように門を跳び越える事も出来ぬので、弱り切って頭を掻く。

 折から辺りの人目は絶え、篝火と月以外に明かりは無い。街廻りの衛兵も来ない様子なので、彼は門前の石を足掛かりにし、塀の見越に片手を掛けて、ひらりと上に攀じ登る――と、その時、闇から走ってきた人影が、塀を登ろうとする陣内を見、ぱっと塀の上に跳び上がり、彼の前に躍り出た。


「待てっ。コソ泥っ」


 その声に、陣内は思わず眼を瞠り、慌てて二、三歩後ずさる。人影は塀を蹴ったかと思うと、そのまま虚空で一回転、陣内の後ろに着地して、盗人でもあしらうように、彼の襟髪を引っ掴む。

 後ろを取られた陣内は、思わぬ脅威に駭然したが、しかしそれ以上は何もしてこない様子なので、好きに掴ませておいて、彼はくるりと後ろに向き直る。如何にも図々しい落ち着きよう。そして眉間に、糸蚯蚓のような皺を寄せ、ギラリと凄まじい眼光を光らせた。


 いま陣内の襟髪を掴むのは、二十歳前後の痩身の若者である。艶の良い金髪を首元あたりまで伸ばし、男とも女ともつかぬ風貌。しかし女にしては声が低く、男にしては高過ぎる。印象的なのは瑠璃石のような瞳である。

 (ははア、こいつだな。ヴェイス・フリードという男は……)と陣内は、まず相手の出方を探ろうと、わざと力を出さずにいる。居合斬りと示現流の達人、高坂陣内の襟髪を取って、このヴェイス、どう料理するつもりか。

 陣内はニヤリとして、ここは一つ、相手の好きにさせておき、ヴェイスの腕を見る腹づもり。彼は大人しく身を屈ませている。

 

 今、ヴェイスの方は陣内の襟髪を掴んでいるので、右手めてが全く使えない。反対に陣内は身を屈め、足を前後に踏み開き、右手めては早くも、同田貫どうだぬきつかに伸び、もう居合いの構えである。

 この竦み合い、明らかに陣内が有利である。もし仮にこのヴェイスが、剣道に目のある者ならば、危急の瀬戸際だと解るであろう。陣内を押しても引いても離しても、次の瞬間には胴払い! 腰車に向かって、銀蛇ぎんだの光が伸びてくる。それを逃れる工夫は恐らくない。


「ふふふ……」


 不意に笑い出したのはヴェイスである。気でも触れたのかと陣内が見ていると、彼は笑いながら手を離し、如何にも軽快な言葉遣い、流暢なジパング語で、


『いや、これはこれは。お見受け致しますところ、どなたかは存じ上げませんが、ご風采も賤しからぬ様子。まさか空巣狙いではありますまいが、ご浪人、私の屋敷に何か御用がおありですかな? 差し支えなければ、仔細、お聞かせ頂きたい』

『い、いや……その』


 急に笑顔で馴れ馴れしく話し掛けてきたので、陣内も弱り切って、七つも下の男の前で頭を掻いて、


「侍に有るまじき無作法をして、慇懃な武士扱いをされては、何とも面目ない次第です。どうか、許されたい」

『ジパングの言葉で問題ありませんよ、ご浪人。私は忙しいゆえ、つい屋敷を留守にする事が多いので、事情に依ってはお咎め致しません。何か拙宅に火急の用でもありますかな?』


 若いくせにこのヴェイス、なかなか能弁で隙が無い。巧みな弁舌で陣内を煙に巻き、彼の殺念と猛炎のような気振りを躱した上、おもむろに彼の真意を読み取る腹づもり。陣内も刀から手を離し、如何にも神妙な面持ちを見せ、目の前で笑う青年を見下ろした。

 ここに猫を被った悪玉と悪玉とが、双方、微妙な腹探りをやり出した。

 

 陣内は咳払いを一つ為し、


『実は……拙者の女房が、御宅にお邪魔しているらしいので、それを訪ねて参りました。無断で家を飛び出して、もう数ヶ月になります』

『ほほう……成る程? 貴殿のお内儀が、ですか。それはそれは、お気の毒に……。それで、お内儀のお名前は?』

『貴殿は恐らくご存知でありましょうが、カーラと申すものです。全く困りものでして、家に居るのは退屈だと云って飛び出していったきり、この帝都で遊び暮らしていると、人伝に聞きましたので、遠路遙々、是非戻ってくれと言いに参ったのです』


 こう口に出してみると陣内も、自分の嘘の巧みさに驚いた。その場しのぎの出任せだが、夫婦の馴れ初めだとか国許での生活だとか、次から次に言葉が出てくるのだ。

 一方でヴェイスは、相変わらず、一見無害そうな微笑みを見せつつ、わざとらしく頷いてみせたり、同情してみせたりする。真実は解らないが、八割方は嘘であろう――と、彼はとうに見抜いているのだが、それは敢えて口に出さない。


『――そういうわけで、帝都中を捜し回っていたのですが、何か貴殿のお屋敷に用事があって、昼間から居座っているようなのを、今日偶々見つけたのでございます。甚だ恐れ入りますが、此処へ連れてきてくだされば、幸甚の至りでございます』

『やや、ではカーラが来ているのですか? それは弱りましたな……。カーラには、少しばかり借財がございまして、それを取りに来ているのでしょうな』

『貸借に関しては、拙者が説得致しますゆえ、とにかく連れてきて頂きたい』

『承知致しました。して、貴殿のご尊名を伺いたいのですが……』


 高坂陣内――と言い掛けた所で彼は、ぐっと喉まで出掛かった言葉を止めて、代わりに出鱈目な名前を口にした。

 ヴェイスはニッコリ気軽な笑みをみせ、腰から鍵を取り出して、通用口を開けると、中に入って陣内に少し振り向いたが、門を閉めてスウと何処かに行ってしまうと、一時間、二時間、三時間、待てど暮らせどそれっきり、全く出てくる気配がない。


 いくら待っても出てこない筈である。ヴェイス・フリードは空家同然な荒屋敷の庭を素通りに、裏門をこっそり開けて、何処とも無く消え去ってしまった。

 家の中に待ち受けているカーラと、外で待ち惚けを喰らっている陣内とを見捨てて、遂に彼は、夜半になっても帰って来なかった。

 陣内が、一杯食わされたと知った時には、既に喧嘩相手のヴェイスが奔ってしまった後で、流石の彼も、もう一度塀を躍り越えてみる気力も無く、また後日の策を心に描き、そのは空しく引き揚げた。

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