虎口逃れる剣の秘技

 しかしルカは案外落ち着き払ったものである。右手めてに持ったる長剣は、抜けば玉散る氷の刃。真如の月に照らされて、鏡のように冴え渡る。

 凄まじい意気込みであった侍達も、彼の姿を怪しく思い、二米2m以上は近付かず、自然と彼を半円で囲み、


『神妙にせい! 大人しくお縄に付け!』

『逃れる道は何処にもないぞ!』


 口々に激しい空気合の声を出すのみである。ルカは彼らを睥睨し、満月のように冴えるその構えは、八面鉄壁斜め青眼、頭の先から爪先まで、一脈の殺気を漲らせ、何処から見ても隙が無い。


 ルカが落ち着き澄ますのには理由がある。かつて帝都にいた頃、彼の十年来の剣の師匠が、門下生の中で、第一の使い手であった彼に、


「およそ一人が数人に取り囲まれる場合、敵は三人より無い。どんな場所にも必ず背を守る楯はある。右敵、左敵、前敵、これ以上に敵はない。ただ一人に対し、三人以上の剣が一度に掛かれる理由がない。つまり、三十人も三人の敵と同じ、四十人も同じこと。要は心身の据え方一つだ」


 と、言って、自身秘伝の奥義を彼に授けたのである。ルカは師の技の全てを習得し、その精神をも受け継いでいたのである。


 そして今、植え並べた刃の林を前に、彼は慄然するでもなく、静かに殺気を放っている。侍達も敢えて斬り込まず、ルカと彼らの間には、悽愴な鬼気だけが、空気を凍り付かせるように張り詰めた。

 僅かに五秒ほど、誰も声を出さず、ただキラリと光流が走るのみ。ルカもまた、玲瓏の如き面を崩さず、流れる水のような目配りで、侍共を見据えるのみ。

 

 寂寞に絶えきれず、一人がダッと槍で突いていく。ルカは穂先が来る前に、踵を蹴って横に飛び、同時にその者の首を斬る。血煙が濛と立ち、侍共はたじろいだ。また彼の前から一人の侍が、金剛構えで斬り込んだ。一緒に横からもう一人、大上段でルカに向かう。

 彼が咄嗟に身を沈め、颯と光の輪を描くと同時、哀れな二人の侍は、腰車から両断されていた。あっと侍共が驚いた時、ルカは斃れる死骸を踏み台に、人垣の上を跳び越えて、蒼惶と走り出していた。

 衆は渦を巻いて混乱し、肝心のルカはもういない。武田茜たけだあかねは柳眉を逆立てて、


『各々方! あっちです、逃がしてはいけません!』


 八、九人が後を追うが、追い付く度に、ただ一撃で斃される。磨かれ抜かれた太刀風は、寄るべくもない鋭さで、ルカの行くあと行く後に、幾人もの侍が、血煙を上げて斃れ伏す。

 茜は不甲斐ない味方に歯噛みして、来国俊を左手ゆんでに下げ、疾風の如く追い掛けるが、その寸隙に、ルカは手の届かぬ所にいる。


 ルカは、ヒルデとテオドラを救う事、またクララの事をも諦めてしまった。今はこの死地から脱することも容易ではない。

 しかし、綱倉から例の抜け道へは、さほど遠くなく、地の理も見極めているので、やや窪地になった藪の中に、ザッと身を隠そうと飛び込んだ――その彼の頭に向かって、彼方から風を切る飛槍とびやり! 結ばれたルカの髪をかすめ、その先にあった松の幹に突き立った。

 刺さった樫柄の震動が止まぬ内に、駆けて来たのは、それを投げた武田葵たけだあおい。彼女はルカを見つけるや否、傍らにあった槍を取り、片手で彼に向かって投げつけたのである。


『あら、逃しちゃったか。残念残念』


 すぐに藪の中に入り込んで、意外な抜け道を探り出した。驚いたような顔で彼女が立っていると、息を切らして、妹の茜が駆けて来た。

 茜は愕然としていたが、葵は大喜びである。興奮気味に、


『ね、見てよ。こんな所に抜け穴があるなんて、道理で偶に中間の皆がいなくなるわけだね』

『すぐに追い掛けないと、姉上、行きましょう!』

『うーん。でもね茜、もうすぐ船出じゃないかな? ほら、殿もお呼びになるよ』


 茜は姉の発言を訝ったが、程なくして近侍の者が姉妹を呼びにきた。茜は不服そうな表情ではあるが、姉に手を引かれるまま、是非なく主君の元へ向かった。

 

 開陽丸はもう既に沖に浮かび、頼経はもう楼船の屋形に座を移している。櫂を調べる水夫楫主かこかんどり、慌ただしく荷物を運び込む御船番士達や女中達が、右往左往、事俄のように眼を廻している。

 その混雑の中を通って、武田姉妹は船室にいる源頼経みなもとのよりつねの前に、ゆっくりと手を付いた。茜は、ルカを取り逃がした事を歯切れ悪く言い訳していたが、頼経には特に不機嫌な様子はない。むしろ明快な言葉で、


『是非がない! 夜の混雑に付け込まれたのだ』


 と言ったが、次に突然、茜を指差して、


『茜、そなたは帰国を見合わせい。しばらくいとまを出すであろう』

『え、い、暇⁉ 申し訳ありません、今宵の失態の埋め合わせは必ず致しますっ。どうか、どうかこれからも召し抱えてくださいますようっ。この通りでございます!』


 何度も叩頭し、涙ながらに許しを請う妹を見、葵は笑って、もう少し聞きなよ、と彼女を宥めた。眼に紅涙を溜めた茜は、恐る恐る主君の方を見た。

 頼経は彼女の頭を撫でて曰く、


『しばらく、と申したであろう。まず一両年遊歴する気で、思う存分な所を歩いてこい。しかし一つ、土産を命じる! 他でもない、ルカ・ウェールズの首だ! 昨夜の話、恐らくあの男も聞いていたに相違ない。生かしておいては大事の蹉跌だ』

『御意! 必ず仕留めて参ります』

『うむ。後で、旅費を充分に持たせ、帝国各地にある領事館の者達への紹介状も書いてやろう』


 そう言って、頼経は姉妹を下がらせた。茜はほっと胸を撫で下ろしたが、葵は口に手を当てて微笑み、彼女の手を引いて、欄干まで行き、懐から一枚の紙を出した。

 そこに描かれているのは、緑髪の少年。ヒルデの息子、ハンスである。茜が理解出来ずにそれを見ていると、葵はまた早口で曰く、


『ね、茜。その子可愛いよねっ。帝国に行くんだったらさ、その子も一緒に連れてきてよ、良いでしょ?』

『……どういう事ですか、姉上』

『もう、このハンスったら、キリッとしてるけど、お人形みたいに可愛いじゃない。この子をわたくしの屋敷に住まわせるの。お姉ちゃん、お姉ちゃんって言わせれば、きっと可愛いし、大きくなった後、可愛い顔でね、お姉ちゃん、僕もう我慢できない……なんて、うふふ。それで、ハンスとの子供なんてきっと……。可愛いに決まってる、うふふ』


 葵は満面に笑みを浮かべ、ハンスを自分の屋敷に迎え入れた後、夫婦になる妄想までを早口で滔々と述べている。彼女はとにかく、自分が愛らしいと思ったものは手に入れないと気が済まない性質のようである。

 それでルカを仕留めるための旅に出る茜に、ハンスを連れてくるよう頼んだのだが、茜の方は語調こそ変わらないものの、黒真珠の瞳に瞋恚を燃やし、剃刀のように冷たい表情である。言葉だけは慇懃に、お任せ下さい、と言って自分は下船した。

 領事館に戻り、自室の窓から遠く、開陽丸を望みながら彼女は、ハンスの顔が描かれた紙を投げるや否、居合いの一閃! 寸分の狂いも無く、紙を真っ二つにしてしまった。そして、憎念と嫉妬を漲らせ、


『よくも……よくも姉上に変な気持ちを抱かせたな! 姉上を誑かすなんて。許せない! 姉上は拙者だけの姉上……誰にも、誰にも渡さない!』


 沈んで行く月と、仄明るくなっていく東雲に向かって、茜はそう叫び、ルカは勿論、是が非でもハンスを斬らねばならぬと心に固く誓った。


 ――薄い霧の底から海が現れ、霧の隙間から朝陽が燦々と光を射る。朝靄にこだまする鐘は、夜明けを告げる教会の鐘である。三角州や河原の草叢も、順々に明け放たれて、眼を覚ました雀の啼く声が聞こえてくる。

 水平線の彼方から出て来た朝陽に照らされ、水面は金泥のようにうねっている。領事館の水見櫓から、開陽丸出港を合図する、法螺貝の音がする。それに応えて、港街奉行所の管轄である過書船かしょぶね支配所からも、合図の鐘が鳴る。

 帝国の諸侯が港街から船出するときは、一時間ほどの船止めとなる。漁船商船渡し船、みな影を潜めてとする。


 塚原一角は自分の乗る脇船の他、二隻の脇船を率いて開陽丸に先立って、沖合へ櫓を進めていた。一角の船の中には、吾助の他、麻袋に詰め込まれたヒルデとテオドラ、そして長櫃の中で哀絶の涙を流すクララがいる。

 朝焼けに船は照らされ、穏やかな天候に、金色の空は晴れ晴れとしている。今朝はクララの船出ともいえる。しかし、外の明かりは微塵も無く、ただ目の前は闇である。彼女の視界と心の中、希望の光明は全くなく、ただ絶望が広がるのみである。

 脇船の底、長櫃の中、そこにあるのは、永遠の悲恋と恐怖の闇である。明日到着するジパングで、暗涙と悲嘆に満たされた長櫃に、どんな運命が待っているのであろうか。それを知る者はただ一人、みよしに立って朝陽を見ながら、満足げに手を翳す一角のみである。


『オオ、凪だ凪だ。波も潮風も良い、首尾は上々だ』


 と、彼は己の幸運を祝福するのであった。彼の視界と心のどちらにも、溢れんばかりの光明がある。自邸に着いた後の情念妄想久しゅうして、ニヤリと気味の悪い笑みを漏らす。

 ボウと領事館から二番貝。開陽丸は徐々に港街ハーフンから離れ、沿海へ向けて水面を滑ってゆく。輝く鏡のような海上で、やや取り舵に切り返し、舳先を東に向け直す。一角達の脇船は、前方と両脇から開陽丸を護衛する。


 頼経が座乗する開陽丸――三本ある帆柱の頂にはそれぞれ、帝国の旗が翩々へんぺんと翻り、下にある帆にはジパングの国章が描かれている。船尾に架け並べられた船印の差物には、源家の家紋が描かれ、朝の潮風にはためいている。

 槍の緋羅紗ひらしゃは暁光より赤く、燦然と波に映える黄金の金具かなぐは、魚群をも遠ざける威風がある。帆幕いっぱいに風を孕んだかと思うと、颯! とばかりに櫓拍子が、心地良く波を切っていく。


『葵! 葵!』


 檣楼にいた頼経が、俄に大声を上げた。はい! と答えて、縄梯子を駆け登り、ふわりと宙返りをして着地し、彼の前に膝を付いたのは、笑顔を浮かべて元気な葵である。海を望むと、誰でも自然と声が大きくなる。

 頼経は彼女に向かって、


『余りに良い眺めだからな。一人で見るのは勿体ないと思って呼んだ』

『満天晴朗、今朝の御船出、滞りなく済みましたね』

『不吉な昨夜の騒動も、これで清々しく拭われた。イリーナ殿は帝都に潜伏しに向かわれたので、後は茜を気長に待っていよう』

『そういえば殿、ご存知ですか。朝焼けが起こる仕組みはですね。太陽の光が、夜明けの澄んだ気候を長く通るからで、波長の短い光は散乱されすぎて弱くなるからなのです。逆に波長の長い光が残るから、空は赤く見えるのです。こういうのも、光というのは小さな空気にぶつかると四方に屈折してしまって、真っ直ぐに進んできた光は方向が変わってしまうのです。ですから』


 また始まった――と頼経が困り顔をしていると、葵はふと、何かに気が付いたらしく、片手を彼方に向けて笑顔で振り、慌てて何か紙にしたためたかと思うと、弓を手に取った。

 その時、開陽丸は丁度、海を望む崖の近くを通っていた。崖上には、諸国廻船の目印となる灯台が、一定間隔で聳えている。その内一つの脇で、開陽丸を見下ろす一人の男がいた。他ならぬルカであった。

 (見ていろ、ジパングの面々)彼は心の内で誓った事を、大声に出して曰く、


「如何に国境を厳重に固めていようとも、この俺が、きっとジパングに潜入するぞ! 動かぬ証拠を掴んでやる。一度帝都に帰ってミーナに会った後、改めて、お前達の喉笛にとどめを刺してやるからな!」


 そう開陽丸にも届けと叫んだ刹那、何処からか、風を切って飛んできた竹の矢! ルカの頬をかすめて、灯台の石壁を砕いて突き立った。ぎょっとしてルカが、矢柄を見ると、切銘深々と曰く――源頼経公側用人みなもとのよりつねこうそばようにん武田葵之矢たけだあおいのや

 しかも、鏃には紙が刺さっている。ルカが手に取ってみると、


 ールカさんの決意、船からでも聞こえましたよ。格好付けるのは良いけど、大概にしないと命は無いですよ。でも、わたくしの薙刀と渡り合うなんて、ルカさんが初めてかも。妹の茜が近いうちに会いにいくので、その時は宜しくお願いしますね。ルカさんの首を見るの、楽しみです。


 ルカは読み終わって、もう一度開陽丸に眼を向けた。眼を凝らすと、檣楼の上で武田葵が、笑顔で弓を持った手を振っている。ルカは彼女と頼経を睨み据え、遠ざかっていく船を見送った。

 のどかな音頭に櫓拍子の声、そして朗らかに響く、お国口調の船歌が、遠海の秘密に包まれている、ジパングへ指して薄れていった。

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