命運尽きるか隠密よ
後ろからルカに飛び掛かり、喉輪を締める
今この時、声を出すのは、即ち自殺と同じである。如何に自力で藻掻いても、無駄に疲れるばかりである。かといって連れ拍子に、後ろへ引かれていくのなら、顎の下が変色し、意識が遠退くのは必然だ。なにしろ不意の事である。ルカもはっと狼狽えたに相違ない。
まずは呼吸に気力を集め、声も出さず力も込めず、茜に引かれるまま、大廊下を歩いていく。茜は心の裡で(やった……!)と、僅かに小躍りした――その途端である。
ルカは彼女に引かれるその隙に、右の肩から手探りし、相手の拇を握り込み、ええい! と気当の一喝放つや否、相手の耳を劈いて、襷を切って払うように、茜の五体を投げ飛ばす。
きゃっ、と茜は声を出し、身を沈めたルカの肩越しに、彼女の身体は斜めに飛んで、見事もんどり打っていた。しかし彼女も流石である。空しく落ちる事はしない。まんまと投げられたその咄嗟、天地の逆にも関係無く、
一閃の剣光が闇に走り、ルカの毛先をかすめたのみか、茜は宙で一回転、何の苦も無く着地した。その時初めて、
『曲者! 各々方、曲者です!』
と呼ばわるや否、
一太刀外せばもう一太刀、今度は別の方から飛んで来る。茜は地形と身軽な体躯を活かし、猫のような素早さで、ルカに四方から斬り掛かる。闇に煌めく刃の嵐、ルカも流石にあしらいかねて、素早く後ろに身を引いた。
その弾みに、菊の襖に身をぶつけ、塗枠の襖障子二枚と共に、ドッと広間に倒れ込み、くるりと後ろに回って身を起こす。だが、広間には誰もおらず、百畳の空間が寂寞と広がるのみ。外の物音を聞きつけて、頼経とイリーナは、素早く退座してしまったらしい。
「うふふ。ルカ・ウェールズさん、こんばんは」
と、衝立の影から躍り出たのは
港街の船宿で、十人を難なく斬った、楊心流の達人だ。その他にも、肥後古流と月山流、巴流の免許皆伝も受けている。妹を苦戦させたこの男、良き獲物とばかりに、ルカの影を見るや否、手強く横に斬り払う。ルカが飛燕の如く身を引くと、葵はすかさず手を返し、水面の如く斬り返す。
眼にも止まらぬ
彼は横目で茜を捉え、その場で咄嗟に踏みとどまり、空中に向けて剣を翳し、発止と茜を受け止める。同時に葵がルカ目掛け、下段から素早く斬り上げる。
ルカは素早く刃を下ろし、戛と薙刀を止めたが、今度は茜が
右袈裟、左小手、腰車、ルカは葵の乱刃を受け払い、隙を逃さず、真眉間目掛けて流れる一閃! 葵はすぐに、兼定の柄を横に翳す。
(よしっ。このまま柄ごと真っ二つに)と、ルカは心で呟くが、案に相違して、発止と凄まじい金属音、眼を灼く火華が飛び散った。
葵はまた嬉しそうに、無邪気な笑顔を浮かべ、
「うふふ。ルカさん、驚いた?
「なっ……。しまった!」
「流石姉上! ルカ殿、お覚悟!」
葵はルカの剣を押し返し、その腰車に刃を伸ばす。ルカはもはや死身の気合い、ポンとその場で後ろに宙返り、間一髪で葵の刃を躱す。自分目掛けて、空中で身を横に捻り、上から斬り込んできた茜を、片膝のまま、片手伸ばしで受け止めて、やっ、と素早く斬り上げる。
あっ、と茜が声を上げるのと同時に、彼女の手から、来国俊の太刀がすっぽ抜け、ピューッと彼方に飛んでいく。
同時にルカは、蒼惶と広間の外に駆け出して行った。葵は彼の後ろ姿に向かって、朗らかな声で、
「あ、ちょっとルカさんっ。何処に行くの。まだ勝負は終わってないよっ。ほら、茜も行くよっ」
葵は太刀を拾いに行く茜に呼び掛けて、自身はもう庭先に飛び出している。茜が刀を拾うのと同時に、何処から現れたのか、甲斐甲斐しく
茜も顎を蹴られた痛みを抑えつつ、自分も駆け出していこうとすると、後ろから主君の声がする。振り返ってみると、
『茜、こんな奥深い所まで入り込んできた男だ。決して逃してはならんぞ。だが、そなた達姉妹を相手に逃げおおせるとは、中々腕が立つようだな』
『申し訳ありませぬ。必ず引っ捕らえて参ります』
『うむ。手抜かりはあるまい。待っておるぞ』
本丸の辺りから御船蔵の木立、または屋敷の屋根裏から床下に至るまで、ルカを訪ねる侍共が、今やジパングの領事館中、右往左往に入り乱れている。
本丸の騒動を後にして、ルカは今、御船蔵の方へ脱兎の如く奔ってきた。ほっと一息ついて、辺りを見回してみれば、此処は数時間前、不憫なクララを見た記憶のある、綱倉の近くである。
夜明けには船出する予定の
その内に、沖の方から声がする。ルカはそれを聞くや否、すぐに陸へ引き揚げられていた高瀬舟の側に身を隠す。
沖からの声に、谺の如く返すのは
開陽丸から漕いできた高瀬舟は、ギーッと櫓韻微かにさせ、黒い波紋を大きく描き、一角の立つ桟橋へと漕ぎ寄せた。続いて繁綱を取る者、舟に飛び乗る者と暫く騒いでいるのは、領事館から引っ立ててきたヒルデ達を、脇船に移すためらしい。
一角は、女二人をそれぞれ麻袋に詰め込んで、高瀬舟に手荒く蹴り込んだ後、部下達をかえりみて、
『ご苦労だった。そなた達、後は拙者がこの二人を脇船に積み込むので、本船の準備に行ってくれ』
『塚原様お一人で大丈夫ですか?』
『いや、配慮には及ばぬ。開陽丸の方も人手不足だろうし、殿の御出立にも余り間が無い。ここまで手を貸して頂ければ、後は拙者と吾助で運び込む』
『御意』
と、
なお念入りに周囲を見渡し、用心深く引き戸を少しだけ開けて、中にいるであろう自分の
一角が中に入ってみると、吾助が蝋燭だけ持って彼を迎え、綱倉の隅にある長櫃を指差し、
『旦那の仰った通り、あの女、縛り上げたままで長櫃に押し込んでありますぜ』
『それが俄の模様替えでな。拙者達は脇船に乗り、捕えた
『お、それはお誂え向きですな。さっさとこの女も積み込みましょうぜ。味見が出来ないのは残念でしたが』
『何を下らぬことを……。長櫃は拙者が担ぐから先導してくれ』
中で僅かに揺れる哀れなクララ、色恋の闇路を行く彼女の命運は、果たして何処まで持つのであろうか? しかし何の救いも仮借もなく、一角達は勝ち誇った表情で高瀬舟に向かって行く。
両手両脚縛られて、猿轡に目隠しという哀れな姿、温い涙、悲愴な涙がいと静かに、真っ暗な長櫃の中を濡らして止まない……。
吾助が先に高瀬舟に乗り込み、一角と共に長櫃を舟に下ろした時である。物陰から飛び出したのはルカ・ウェールズ。待てっ、と叫ぶが早いか、繁綱を解きかけている吾助を河に放り投げ、驚く一角を突き飛ばす。
捕えられたヒルデとテオドラ、そして哀れなクララをも、事のついでに救おうとしたのだが、人のことよりまず彼自身、すぐそこに危機が迫っている。
おのれっ、と一角が、刀を颯と抜き払う。ルカはすかさず身を引いて、ぎらと背中の剣を抜くや否、一角目掛けて斬りつける。一角は必死で立ち向かうが、元より腕は段違い、忽ちしどろに斬り込まれ、桟橋から足を滑らせて、ドボーンと河に落下した。
闇を低く流れる槍衾、閃々と煌めく白刃は、ジパング名物の荒武者や若侍達である。曲者が御船蔵に逃げ込んだと聞きつけて、武田茜を真っ先に、今ここへ殺到した。
先頭の茜が足を止め、桟橋の近くを指差して、
『あ、各々方、あれです! ルカ・ウェールズ殿はあそこです!』
それを聞くや否、津波のような勢いで、槍や刀を持った二十名、ドッと彼に向かって行く。危ういのはルカである。前は月に照らされて、螺鈿細工のようになった水、後ろは刃を植え並べた死の追手。
ユフの遺志を継いだ彼も、空しく刀の露となるか? 初めて望む所の秘密境へ、一歩の足跡をつけた彼も、それをわずかの思い出として、ここに進退きわまるであろうか?
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