今去る危機と迫る危機
頼経は
女中共は内心怯えつつも、茜に促されるまま、外に出て、花の如く庭の白洲に居流れた。闇夜はいと寂寞とし、鳥の声も聞こえない。ただ一人、廊下の行灯や庭の石灯籠に照らされる、夜叉のような頼経が、不気味な殺気を放って止まない。
彼の睨む
『こやつかっ。今宵の血祭りの生贄は!』
そう叫んだ彼は、自慢の銘刀ぎらと抜き、ヒルデの額へ突き付けた。彼女の方は、ハーフン近辺のお堂で捕えられてから早十日、一切食事の支給はなく、何の仮借も躊躇もない、葵の拷問を受けてきたので、五体の所々から血を流し、面は幽鬼のように蒼白い。
茜はそれを見て、流石に気分を悪くした。堪らずに眼を背け、隣で微笑む姉を見て、
『姉上……。またあんな事して……。あの女が死んだら元も子もありませんよ』
『うふふ。だって、あの人、全然口を割らないんだもん。伊豆石を五枚乗せても、
酒の助勢か、素面なのか――恐らく後者であろうが、葵は頬に手を当ててうっとりと、さも愉快そうに手真似をして、次はどうしようかな、と如何にヒルデへ責め苦を与えようかと、嬉々として語っている。拷問で囚人が上げる戦慄の叫びは、彼女にとって至高の旋律である。
茜は溜息をつき、俯き加減に小声で曰く、
『姉上のそういう所、拙者は少し怖いですよ。……それ以外は全部好きなのに』
姉妹がひそひそ話している縁側から少し離れた庭先で、ヒルデは頼経を睨み付けていた。衣服には血が滲み、身体中に痣のある、凄艶そのものの姿だが、意気軒昂に顔を上げ、臆する色は微塵もない。
見上げる眸と見下ろす眸、眼には見えない火華を散らし、互いに睨みすえながら、無言の闘争を続けている。やがて頼経の方から静寂を破り、ヒルデの顎をむんずと掴み、
「その面構えでは容易に吐くまいが、予の城へ、そなたの手から住み込ませた同腹の女があろう。ここに居並んだ奥仕えの女の内に、その廻し者が必ずや潜んでいる筈。その者の名を明かせば、命だけは助けてつかわそう」
「煩い……。さっさと斬りなさい」
耳煩し、と言わんばかりに、ヒルデは、頼経が何度強引に尋ねても、啞かつんぼのように押し黙り、眼を静かに塞いでいる。その時、庭先に並んだ女中の中に、二十二歳くらいの者が、首を垂れて黙然と、身体をブルブル震わせている。
縁側で二人を見ていた武田葵、庭先に出て、頼経の前に膝をつき、
『本人がそう言っている以上、致し方ありません。斬ってやるのも情けと言えましょう』
『それもそうだな。よし! この
それを聞くや否、茜や番士達は、慌ただしく働いて、瞬間に成敗すべき死の座を作る。用意が整ったのを見、頼経は、国綱を右に引っ提げて、ジャリと足を進ませる。
一歩一歩ヒルデに近付く彼の横、二十二歳くらいの女中が一人、袖の裏から
「うふふ。仲間はあなただったのね。残念でした」
不気味に明るい声を出し、いつの間にか後ろに回っていた葵が、その者の背中を蹴る。あっと驚く声を上げ、女は地面に倒れ込む。しかしすぐさま立ち上がり、余裕の笑みの葵目掛け、キラリと白刃を伸ばしていく。
葵は手元に引きつけて、刃の下に身をすぼめ、相手の手首を
しかし葵から見れば、何の工夫も錬磨もない、猪突にも足りない攻撃だ。女の刃が来る寸前、楊柳流しに身を捌き、女の肩を掴んで入り身投げ! 葵は倒れ込んだ彼女の襟を掴み、ポンとヒルデの前に放り投げた。
投げ飛ばされた女は落花微塵、隠し持っていた懐剣を放り投げ、ヒルデの側へ倒れると共に、わっと泣き崩れた。
ヒルデは意外に衝たれて瞠目し、
「テオドラさん……!」
それはリカードの妹で、常に鳩の密使を飛ばし、領事館の内秘を漏らしていたテオドラであった。ヒルデも当然、面識はあるので悲愴に泣く彼女を見、思わず抱き寄せようとしたが、両手の自由は利かないのである。
ああ、自分が捕えられたばかりに、とヒルデは悔恨の唇を噛み締めるが、悔いてもどうにもしようがない。女二人、此処で刃の露となるか――と思われたが、どうやら違うようである。
頼経は、庭先でヒルデを血祭りにすると豪語して、思う壺に、女中の中から間諜を見つけ出した満足に哄笑し、
『一角、一角はおるか』
彼が鬼丸国綱の太刀を鞘に納めながら呼び立てると、
『明日の船出に際し、
『はっ』
『途中で別れ、そなたは八戸港に着船し、そのままこやつらを
『御意!』
頭を下げた一角は、内心ほくそ笑んでいた。クララをジパングへ送り込むには、本船開陽丸よりも、脇備えの闘艦で行く方が好都合である。ニヤリとした顔は隠して、部下に命じて、ヒルデとテオドラを引っ立てさせて行った。
その時、ヒルデの胸元からハラリと一枚の紙が落ちてきた。葵は何気なくそれを拾ってみたが、そこに描かれてある人を見、彼女は心を衝たれたように眼を瞠った。
しかし茜に呼ばれ、慌てて広間に戻っていった。
間諜二人を一角に任せて、頼経達が宴席に戻ると、茜は訝りの解けない顔である。どうして密事を嗅ぎつけてきた輩を、銘刀の錆としてしまわないのか――とでも言いたげである。
それはイリーナも同感の様子で、改めて饗された酒には眼もくれず、頼経の前に膝を進めて、
「何故結局、ご自慢の刀を振るわれなかったのですか? オソレ山に監禁しておくのも良いとは思いますが……」
「あれは元より葵の策です。そう言えば、イリーナ殿には話しておりませんでしたな。当家の掟として、捕えた隠密は、致し方なしの場合を除き、必ず恐山に差し向ける事となっております。この所以は五十年前に遡ります」
こう前置きして、頼経は間者を斬らぬ理由を語り出した。
――五十年前、ジパングを治める者は頼経の父、
同時期に、帝国は北にあったルーシ王国を併呑した。王家に属する者は皆、捕えられた後、一週間晒されて首を刎ねられたが、戦に敗れた落ち武者達はジパングを頼って、海伝いに夥しく流れ込んだ。為経は、彼らを恐山に匿った。
しかし泰平の豪傑というのは不遇なもので、本人に帝国を攻めるつもりは無かったが、帝国は遂に彼を毒殺してしまった。為経を毒殺したのは、皇帝の親戚で、帝国から、彼の側室として送られてきた人であった。
浅草寺で婚宴をしていた為経は、世にも怖ろしい
城内城下は言うに及ばず、ジパング全体が鼎の沸くように、帝国討つべしの声で騒然とした。しかしまだまだ帝国の力は強く、ジパング方には備えもないので、恨みの涙を呑み、その時は諦めた。
しかし、家中の者は凄まじく結託して、帝国から側室に付いて来た使用人は言うに及ばず、少しでも帝国に縁のある者を国中から捜し出し、乳飲み子から耳の遠い老人に至るまで数千人を、夜を日に継いで、小塚原の刑場で打ち首にした。
そのために、首と胴は山を成し、刑場は鬼哭啾々とし、無惨というのも愚かなことであった。しかしその後民衆のみならず、家臣達の間にも、
――そこまで頼経が語り終わると、イリーナは少し怖れた様子だが、茜は満面蒼白にして、小刻みに震えていた。自然と姉に擦り寄り、葵の方は微笑みながら、彼女の頭を撫でてやる。
幼い頃に両親を亡くしたこの姉妹は、殆どいつも一緒にいた。茜は剣に出会う前、髪の色の所為で度々苛められていたが、その度、葵に助けられていた。
姉妹の叔父がジパングの筆頭家老であるので、不自由のない暮らしを送っていたが、茜は何かと言うと、葵の膝で泣いたり、不安な夜は彼女と同じ床で眠っていたりしていた。
今でも日頃は凜々しくしているが、茜は孤独を感じたり、ひどい恐怖を感じたりするとき、すぐに葵の元で泣き晴らす。会えないときは、彼女の容貌や声を思い出しながら、一人、孤独に自分を慰めるのである。
「家臣達が一種の祟りを信じたらしいので、我が国では不承ながらも、捕えた隠密は恐山で死ぬまで捕えておくことにしてあるのです」
頼経は満足げにそう語った。女中や小姓は遠ざけられて、百畳広間には頼経たち四人の影だけである。襖一面、乱菊の墨色鮮やかに、夏の夜は更けていく。
その時、天井裏で蜘蛛這いになって、じっと下の話を聞いていた者がいる。漆黒の髪を一本に結び、無紋の黒着、背中に蝋色鞘の長剣を負っている。それはルカ・ウェールズであった。
天井の薄板を外して、なおも、大広間の話を伺っている。いよいよ明日、開陽丸が出る混雑に紛れ、大胆にも本丸まで足を踏み入れてきた。やがて、広間の方へ席を移して、別宴になった隙を計り、彼は広間の外から屋根裏へ上がり、此処まで姿を現したのである。
恐山の間者牢、先代国王の毒殺の事件、帝国へ深い怨恨を持つジパングの話を聞き、ルカは心の裡で、(いよいよジパングの密謀は確かだ)と固く信じた。更にそれが一朝一夕の陰謀ではなく、五十年に渡って、帝国に隙あらばと常に鏃を研いでいたに違いないと、慄然せざるを得なかった。
およそ一国の民心に、刷り込まれたる怨恨は、必ず子々孫々に伝えられ、報復が遂げられるまで、代々忘れられないものである。ましてや、一代の英邁君主と仰いでいた為経を殺されたジパングの怨みというのは、民心に深々と刻まれているであろう。
そこへ十三年前、イリーナ達の陰謀が起こり、打倒帝国の風雲が僅かながらに動いてきた。ジパングがその後ろ盾となるのは、けだし当然の事といえよう。
(これほど明らかに危険な気運が起っているというのに……)と、ルカは内心で溜息を付いている。帝国の方では、目の上のたんこぶであったジパングを、一応臣従させ、暢気な泰平を謳歌している。
帝城では毎夜の如く遊惰な宴が催され、今の皇帝は悠々逸楽、政治は臣下に任せて怠惰な遊楽に耽っている。先代を害されたジパングや、日の目の当たらぬ貴族とは、その気概や境遇が雲泥の差である。
しかし、今のルカに、そんな事は関係無い。彼一箇の立場として、恋人の父親を捕えているジパングは敵である。そして、彼を救わない内は、ミーナの前途はなお暗い。だが今、頼経自身の口から、
「捕えた隠密は、恐山で死ぬまで捕えておくことにしてあるのです」
と聞いたので、ルカは(今宵の潜入は無駄ではなかった!)と、心の奥で叫んで、そろそろと天井裏を這い始めた――が、その時、
『曲者!』
と、頼経が傍らにあった槍を取り、天井に向け、飛電の如く突き上げた。手応えが無かったので、彼は笑って、鼠でありましょう、と槍を置いた。
ルカは頬をかすめた槍先に、内心ひやりとしながらも、また蒼惶と這い始める。茜と葵は、いつの間にか広間からいなくなっていた。頼経の話を聞いて恐ろしくなった茜が、厠に行きたくなったので、葵を連れていったのである。
ルカは天井裏から音も無く、廊下にふわりと着地した。そしてまた、鮮やかな銀色の月明かりの差す長廊下を、一歩一歩歩んでいく。
その時、隠されていた
途端に廊下の奥から、駆け付けて来たのは武田茜。後ろからルカに組み付くや否、細腕を喉輪に引っ掛けて、ぐっと彼の首を締め上げた。
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