宴と舞いと女武士

 パチリッと碁石の音がする。榧の碁盤へ黒碁石、ここで暫く間を置いて、微笑むのは一人の女。蝋燭の火に照らされて、束ねた黒髪が艶やかだ。脂粉霓裳は質素だが、争えぬ美貌の白皙見せつけて、蘭瞼細腰の姿も凜々としている。

 対峙しているのは彼女の主君、ジパングの王である源頼経みなもとのよりつね、むっと唇を固く結んで、白の碁石を挟んだ指を、碁盤の上に彷徨わせることやや久しい。頼経がようやく打つや否、パチリと女も打ち返す。


 この対局、頼経の方が劣勢である。苦心の末に彼が打てば、黒、電瞬に打ってゆく。女は余裕の笑顔を見せ、


『殿、いよいよ本陣火の手とみえますね。先程のは、釣り野伏せと言いまして、兵法の一つです』

『むむむ……。追い詰めていたと思ったのだが。いや、まだまだ勝負はこれからだぞ、あおい

『ふふふ。楽しみですよ、殿』


 そう微笑んで、黒の碁石を摘まむのは、頼経の側用人である武田葵たけだあおい。他ならぬ武田茜たけだあかねの姉である。

 高価な碁盤を挟んだ二人、忽ち戦雲漠々としてきた。齢六十を過ぎた殿様と、負けん気の強い女武士との対局は、技を別にしても興がある。

 此処は本丸の一部、名付けて昨夢亭さくむていという茶室である。時は既に午前零時を回っているが、碁盤の勝負は果てもつかない。深沈とした奥庭で、植えられた芒や叢竹が、程よく居並んで揺れている。その数寄屋の一亭に、風流な行灯の光の中、パチリパチリと碁石が鳴る。ジーッと近くで鳴くのは螻蛄けらである。

 やや暫く経った後、葵は頬に手をやり微笑んで、


『うふふ。今日もわたくしの勝ちですね。残念ながら殿の腕前では、まだまだわたくしには敵いません』

『うーむ。良い所まで行ったと思ったのだがな』


 勝負が終わったその矢先、庭先の踏み石に、一人の家臣が蹲り、茜と一角が広間に到着したことを伝えた。それだけ言い残して、家臣が下がりかけたのを、待て、と頼経が呼び止める。

 行灯の火光に照らされた顔を家臣に向け、何事か耳打ちして下がらせた。暫くすると、また頼経と葵は勝負を始める。


 葵は、歳まだ十八である。しかし年齢に合わぬ稚さ、ニコリと無邪気な笑顔を見せ、局に対する人を見つめている。その頭脳には、今まで耽読してきた神学書に学術書、古今東西の兵法書、各国由来の哲学書など、見聞知識が所狭しと詰まっている。兵学談義を侍共に行うこともある。

 その上、弓術、馬術に薙刀術、武芸百般にも優れたものがあるので、主君である頼経もいたく信用し、側に置いてよく議論する。しかし一つ性格に難がある。常に微笑んで飄々としているかと思えば、一旦気勢に火が付くと、途端に相手へ詰め寄って、我を忘れ、滔々と早口で捲し立てるので、至極掴み所のない人物である。

 今もまた、ふとした話題が彼女の気に触れたらしく、段々声に、力が籠もり始めててきた。これには頼経も、(虎の尾を踏んだか・・・・・・)と内心溜息付いている。バチリッと彼女は碁石を叩きつけ、


『殿、良いですか。そう甘いお考えですと、国祖以来の江戸城の白壁や甍に、矢弾焔硝弾の穴が空きますよ。良いですか、弓の弦張りは強ければ強いほど良いというものではありません。人によって五人張、一人張があるのです。それによって使う矢も違います。を竹で作るのか鉄で作るのか。形は一文字、杉成、麦粒と色々あります。大筒の弾だって榴弾と徹甲弾と』

『ま、まあ落ち着くのだ……。ほら、そなたの番だぞ』

『殿! お目見えになりましたっ』


 先程の家臣が、蒼惶と茶室に報せてきた。頼経はとして、お通ししろ、と下知をした。葵は不服そうな面持ちで、膝立ちの居住まいを整えた。


 庭伝いに通されてきた客なる一人、素浪人と称してこそいるが、その真はイリーナ・フォン・クライバー、十三年前、齢僅かに十七で、帝権転覆の陰謀を企てて、遠流おんるとなった筈の女貴族である。

 人目に立たぬ旅装束、茶室であるから仰々しい礼はなく、行灯の火も揺るがぬほど、物静かに腰を下ろす。

 頼経は碁盤を片付け、彼女の前に茶を出して、


「お待ち申し上げておりました。随分遅いご様子でしたので、心配しておりました。どうなされましたか?」

「ええ。例の港街奉行が煩く見張っておりますので……。ヨリツネ殿におかれましては、明日にも開陽丸かいようまるで国許に引き揚げるおつもりだそうですね」

「その通りです。何しろあの陰謀から早十三年、近頃、帝国にも少々油断の色が見えだしてきたと思いましたが、免官された元役人やその仲間、帝都からの隠密も執念深く嗅ぎ回っているとか、ここは一旦、本国に引き揚げる方が良いかと」


 そうです、と横から葵が割り込んで、蘭花に似たる眦を裂き、イリーナの前に身を乗り出して、生来の情報通を以て任じながら、ヒルデとハンスの母子や彼女達と繋がっていたリカード、帝都からの隠密兄弟の事を彼女に報告した。

 イリーナは少し色を変えて、十三年前と同じ轍を踏みはしないかと不安げである。しかし葵はむしろ胸を張って誇らしげに、鼻高々にして曰く、


「うふふ。ご安心ください、イリーナ様。妹の茜がヒルデを捕え、隠密の兄弟を斬りました。そして、わたくしがリカード・ヴァイカートを港街から放逐し、彼の雇っていた十人ばかりは皆斬りました。リカードは小舟でどうにか逃げ出しましたから、何処かで難破して沈んだに違いありませんよ。ヒルデの息子はまだ十二歳ですから、今頃きっと家で震えています」

「それは何よりですね。ところで、十年前、御本国に潜入した隠密がいると風の噂で聞いたのですが」

「はい、確か名前はヨーデル・ティーレと言いました。あの男、何処から嗅ぎつけたのか、イリーナ様達の後ろ盾に、我々がいることを看破したのです。しかし今では、恐山おそれざんの山牢に監禁してあります。ヒルデもまた山牢の住人となるのです。なあに、水も漏らしはしませんよ。御明敏な殿と、不肖ながらわたくしも帷幄におりますので」

 

 脇で黙っていた頼経は、意気軒昂たる若者の言葉が気に入ったらしく、手を叩いて哄笑し、イリーナに向かって、例のものを、と促した。

 イリーナは懐から細長い包みを取り出して、帛紗を敷いてその上へ、スラリと一巻の血判状を繰り展げた。スッと畳の上に置き、葵の方に眼をやって、


「アオイさん。ご苦労ですが、見張りをお願いします」


 はい、と葵は立ち上がり、辺りに人なきを確かめて、縁の端で見張りとなる。頼経は身を乗り出して扇子を延べ、固唾を呑んで眼を落とし、イリーナと共にその血判を辿っている。

 秘密の血判状には、盟主である源頼経を筆頭に、イリーナを初めとする帝国各地の貴族や王侯達の名が、血文字で綴られている。これから帝都に潜伏するつもりのイリーナは、ジパングが兵を挙げれば、すぐに帝都に火を放つ計だと云う。

 その時、葵が何か気配を察し、さっと外に飛び出した。行灯の火がボウと燻されて、一抹の不安が茶室に走る。


 葵はもう庭先に出て、落ち着いた様子で辺りを見回している。木立の闇が蕭々と夜風に揺れて、小さなざわめきを奏でている。その中から、ザワッと庭木を掻き分けつつ、歩いて来た侍がいる。六尺棒を引っ提げて、血眼になって駆けてくる。

 葵は彼の前に立ち塞がり、止まりなさい、と言い放つ。六尺棒を持った男は、茶室にいる者達を見、驚いた様子で拝跪する。葵は呆れた様子で溜息付いて、しかし柳腰に油断はなく、


『今夜は此処に、誰も寄せるなと言ったでしょ。御役目を預かるあなたが騒いでどうするの、もう。許してあげるから退りなさい。殿にはわたくしから言っておくから』

『しかし今一度、お庭内を改めさせて頂きたいのです。実は捕えてあるヒルデですが、その者に近付こうとしていた輩がおります』


 それを聞いて、頼経が俄に立ち上がり、その侍に近くへ来るよう命じた。侍は、恐る恐る靴脱石の前に手をついて、蟇のように這いつくばった。

 頼経は瞳をキラリと光らせて、侍に向かって厳粛そのものの声で、


『役目の忠実ゆえ咎める事はせぬ。只今の申し出、詳しく申してみよ。由々しき事態やもしれぬ』

『はっ。先程、奥牢の方を見廻っておりましたところ、我々の眼を盗んで、怪しい影が牢に押し込めておりますヒルデに話し掛けていたのです。拙者が、待てっ、と叫んで追い掛けましたところ、この辺りで見失ってしまったのです』

『むむむ……。そうか、その怪しい者の風采や面差しなどは見届けたか』


 夜番の番士、額を地面に着けながら、しばしの間考えていたが、やがて思い出したかのように、曲者は確かに女であったという事を告げた。イリーナは面を暗くして、首を捻って考えていたが、葵と頼経は瞳を光らせている。曲者が自分達の身内にいると、早くも悟ったものらしい。特に頼経の顔には、緻密にかがっていた秘密の目を、何者かに乱される不快が込み上げている。

 葵は主君の方に向き直り、


『殿、曲者が女だということは、女中共の中にいる筈です。いかが致しましょう?』

『どうするも何も』

『実はです。わたくしに一策あるのです。ちょっと、お耳をば……』

『うむ……うむ! おい、番士! すぐ塚原一角と共に、大広間に酒肴の支度をせいっ。そしてこの城にいる女中を人種問わず、皆集めろ。明日は開陽丸の船出ゆえ、別れの酒を皆で酌むのであるっ。そして、武田茜に命じて奥牢に繋いであるヒルデを曳かせて参れ』


 頼経は晴れ晴れとした顔で、声に活気を宿して言いつけた。


 白々とした脂粉の面に、ぱっと桃色の灯を浴びて、三十人の女中達、闇を払って長廊下から、砂利の撒かれた庭園を横目に、百畳敷の大広間に流れ込んだ。間も無く、茶室から席を移した頼経と葵、客人であるイリーナもやって来る。

 明日は船出で別れの宴、佳肴杯盤が饗され、富饒の酒宴となる。流石に国王らしい歓楽の夜である。頼経がまず杯を上げて、


「イリーナ殿、心ゆくまで酔いましょうぞ。国祖以来、帰国の船内では、一滴の酒を舐ることも家訓において、許されませぬゆえ」

「そうです、飲みましょう、飲みましょうっ。ほら、わたくしもう我慢できませんよっ」


 と、葵はもう酌を傾けている。彼女は宴や舞いなど、とにかく賑やかな催しが好きな性質たちである。今も宴席を笑い話や蘊蓄で盛り上げ、早くもお銚子を五本も干して、饗される料理を三人前は平らげ、徐々に白皙へ微醺が及んできた。

 イリーナは、葵の細い身体の何処に、大量の酒肴が入っているのかと内心驚いた様子であるが、頼経はいつものことなので、逆にむしろ機嫌が良い。気を良くした葵は、近くにあった鼓を取って、仄かに赤くなった顔を上げ、


わたくし、名人には及びも尽きませんが、鼓の舞いを心得ています。殿、秘蔵の小鼓撫子なでしこを」

「うむ! では参ろうかっ」


 頼経は姿勢を正して、ポン、ポン! と小鼓を打つ。音冴えを見澄ました葵は、白足袋の爪先滑らせて、いと静かに舞い始める。羽織りと袴は質素だが、扇を手に舞うその姿、珠と散る行灯の光に輝いて、凜々としながらも、祇王に劣らぬ嫋やかさ。

 ジパングの文化をよく知らぬイリーナも、柳のようにしなやかな、葵の姿に眼を奪われ、思わず我を忘れて見惚れている。頼経の小鼓にも、俄然、やる気が漲ってくる。

 

濁世だくせの無限の底になるウ、慷慨悲憤の海の渦! 濁った世の底深けれど、怒りの渦は潰えぬか! 流せや濁世、流せや濁世! 澆季ぎょうきの帝国押し流し、いま泰平に酔わんとす!』


 金鈴を振り鳴らしたような声で、葵は朗々と舞っている。

 やや暫く座中が、美しく風流な舞いに見とれていると、大広間の襖を開いて、両膝を付いた者がいる。舞っていた葵が、ぱっと笑顔になり、その者に駆け寄って曰く、


『茜、遅かったじゃない。さ、一緒に飲もうよ。ほらほら、今丁度舞いの途中だったから、一緒に』

『う……酒臭いですよ姉上。それに拙者は下戸だと何度言ったら解るんですか。……それに、残念ですが、今は御役目を受けた身ですので』

『全くあんたは、いつもそうやってお堅いんだから。偶には肩の力を抜いて、遊べば良いのに。いつも剣だの書物だの。良いこと? そんな風にね、詰め込んでばかりだと、立派な奥さんに』

『ですから拙者は……ああもう、酒臭い。後でお付き合いしますから。もう、はしたないですよ』


 面倒な酔いどれに絡まれているにも関わらず、茜は彼女を振り払うでもなく、むしろじゃれ合っているようにすら見える。イリーナは、俄に砕けた調子になった葵と彼女とはまるで性格の違う、妹らしき堅物女に当惑している様子。

 頼経はそんな姉妹の様子に、微笑みすらみせている。齢六十六の彼からすれば、孫くらいの年齢である。二人が幼い頃から近くにおいて可愛がっているので、この姉妹の絡みも見慣れたものである。

 しかし、今は役目ということで、すぐに面をそれにして、茜に向かって、


『茜! ヒルデとやら召連れて参ったか』

『はっ。庭先に押し出してございます』

『相変わらず仕事の早い女だ』


 頼経は満足げに頷き、今度は敢えて大声で、大広間全てに聞こえるように、


『あらぬ疑惑を以て、当家の内秘を覗かんとする港街の寡婦、船出の別宴に格好の肴だっ。頼経が自ら血祭りにしてくれる! この先祖伝来の名刀で!』


 と、愛刀である鬼丸国綱おにまるくにつなを左に下げ、居流れた女中どもを鋭い眼で見渡した。その中で一人、面を蒼白にしている者がいた。

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