死する男と新たな決意

 六月も末頃である。初夏を過ぎた夏本番の前段階、爛々とした太陽が大地を焦がし、道行く者の顔に汗を浮き立たせる。山や峰は孔雀色を濃くし、傾斜の木々は強烈な陽差しを浴びて、白い水蒸気を上げている。

 その雑木林の山道で、木漏れ日を浴びながら駆けてくる一団がいる。昨日の嵐に振るい落とされた病葉が、道一面に散り敷かれていて、そこを踏みしめてゆく大勢の足音の前に、山小禽が腹毛を見せてツイツイと驚いて飛び去っていく。


『皆の者、急げ急げっ。人に見られぬ内に領事館へ参るのだっ』

『もう一息、もう一息っ。此処を越えれば道も平坦だぞっ。領事館に行けば、山盛りの白飯だぞっ』


 一行は綿のように疲れている。先頭に立って励ますのは当然、天堂佐助てんどうさすけ塚原一角つかはらいっかくである。二挺の唐丸籠を長蛇に挟んで、後から追うのは侍達、難路へ掛かる度に出る愚痴は、夜を徹して裏道を休みなく、駆けに駆けて来た汗と悲鳴の愚痴である。

 真っ黒な幕を掛け、縄括りにした二挺の唐丸籠、それを担いでいる侍共は、時折肩を代え、人を代えして、九十九折りにうねった道を、駆けに駆けて来たのである。その中で武田茜たけだあかねは、最後尾で息を切らして足も縺れている。

 それを見た佐助は足を止め、彼女に駆け寄って、もう少しだ、と励ました。


 元来、茜は身体が弱い。ジパング人の両親を持っている人間ならば、須く黒い髪を戴くのだが、彼女の場合、その虚弱体質が災いして、黒髪ではなく、白髪で産まれた。それを染料で無理に染めようとしたのだが、中途半端な亜麻色となっている。幼い頃から何度も病で死にかけ、体躯も小柄である。

 剣の才能は十分にあり、本人の努力も血の滲むものがある。しかしジパングでは男女ともに、丈夫な身体を持った人間が好まれる。到底子が産めそうにない病弱な茜には、如何に剣の腕を磨いても、今日まで浮ついた話も縁談も無かった。

 今も、夜通し走っていた茜は、いよいよ疲労困憊して息も絶え絶えである。蹌踉と二歩三歩動いた後、とうとう膝に手を置いて、喘々としわぶき混じりの息を切らし、歩みを止めてしまった。


『先に……先に……行ってください……。拙者は……遅れ……て……参ります』

『あっ。また血がこぼれるぞっ』


 同時に、唐丸籠を担いでいた侍共もドカンと一挺の籠尻を下ろしてしまった。その籠の裾から、滔々と夥しい血潮が溢れ出している。見ている内に、それは生ける蚯蚓の如く、辺りの地面に流れ出した。

 死ぬぞこの男、などと侍共は、下ろした籠に蝟集してざわめきだした。様子を振り返った一角が、先頭から慌てて戻ってきて、籠の周りで慌てふためいている侍共や疲労に挫けている茜を睥睨し、


『死なしてはならん! 領事館に着く前に死なしては、骨折り損というものだっ』


 一喝するや否、彼は佩刀を抜いて籠縄を切りほどき、暗幕を上げて中を覗いたが、彼自身も流石にとした様子。

 止血をしろ、と一角が叫ぶのと同時に、ユフが籠から引っ張り出されてきた。茜に斬られた太腿の瘡は、縦に割られた柘榴のように弾けている。他にも、彼女に負わされた太刀瘡が一、二カ所、ユフの五体は紅花を塗りたくったように、惨たらしく真っ赤である。

 一角は、怪我人の酸鼻な有様に顔を顰め、侍共に下知して曰く、


『下に行って水を汲んでこいっ。瘡を洗った後で薬を付けろ。後、血止めをギリギリと巻き付けておけっ』

『御意!』


 忽ち二、三人が渓流の方へ駆け降りていった。ユフは夥しい出血と瘡の痛みに、苦しむでもなく気絶している。それを手当てする侍共に情けなど無いので、無論荒々しい。

 水を待つ間に佐助が一方の唐丸籠に眼をやった。その中にはヒルデが、無念の荒縄で高手小手に縛められて、犬のように押し込まれている事は明白である。捕えられたときに深瘡ふかでを負わされていないので、死ぬ懸念こそないが、猿轡から微かな呻きを漏らしている。

 その時、茜は不意に訪れた小休止を幸いに、崩れるようにして木陰に座った。空を仰いで、荒い息に胸を上下させている。ふと彼女は峠の七曲りを見下ろしたが、何を見出したのか、柳眉を險山のように逆立て、俄にただならぬ色を現わした。


『あの男……あの楽士ですっ。ルカ・ウェールズ殿があそこにっ』

『何っ』


 茜が指差した先には、色艶の良い漆黒の髪を一本に結び、凜とした玲瓏の面で彼女達を睨んでいる美丈夫が一人――他ならぬルカ・ウェールズが立っていた。


 ルカは昨夜、カーラと別れた湖の畔から脇目も振らずに走ってきた。無論、ジパングの者達を追い掛けて、ユフを取り戻すためである。無論ハンスの母親ヒルデをも助け出す心づもりである。

 ユフの一身だけは、命を賭してでも取り返さなければならないとルカは決心している。帝都の地を踏めない自分に代わって、ミーナを守り、ティーレ家を支えてくれる唯一の力はユフである――そうルカは信じている。

 ジパングの侍共は世間の目を避けて、必ずや裏街道を通ってハーフンに向かうであろうと察していたルカは、迷うことなく隘路をとって侍共の先回りをしていたのである。そして今、峠の頂で、茜や一角、佐助達を見つけた。


「……」


 ルカは涼しげな瞳に爛々と炎のような怒りを宿し、少し離れた侍共を睥睨している。此処は狭路で一本道である。否応なく、両者はぶつかってしまう。

 日陰は陰森とし、右は密生した松の傾斜、左にも鬱蒼と木々が生い茂っており、昼間であるというのに、旅慣れた者にも薄気味悪い暗緑な木下闇である。

 茜達が固唾を呑み、物々しい様相で籠の周りを固めていると、ルカの方から、耳を劈くような大音声で、


「ジパングの面々、暫く待たれい! 申し入れたい議があって、此処でお待ち受けいたしており申したっ」


 躍然と列の前に立ち塞がって叫ぶ彼を見、天堂佐助が刀のつかに手を掛けて、ルカの姿を睨み付け、


「我々をジパングの者と知っての狼藉、言語道断であるっ。いつぞやの魚料理屋での無礼といい、今度という今度は許さんぞっ」

「私は貴方がたに遺恨はありませぬっ。私の友人であるユフと、知り合いのご母堂が故なくして、捕えられたと聞いて、お下げ渡しを願いに参り申したっ」

「ならぬ! 酔狂な狼藉者めっ」


 粗暴な佐助が怒りだし、俄に抜いて斬り掛かる。ルカは咄嗟に身を沈め、右手めての鉄笛振るわせて、ビシリと相手の小手を打つ。と佐助が驚く隙も無く、彼の刀はもぎ取られて時遅し、ルカが奪った白刃は、名刀の如き冴えを増し、眼にも止まらぬ縦斬り一閃! ズーンと佐助を斬り斃す。

 血煙が濛と立ち、そのまま彼の死骸は、脇の傾斜に消えていく。此方に立っていた茜は、佐助の醜態に歯噛みして、来国俊らいくにとし左手ゆんでに下げ、じりじりルカに詰め寄っていく。

 その間に柔弱者の一角は、人数の半分以上を連れて、ヒルデの籠一つを固めながら、脱兎の如く麓へ奔ってしまった。その後に怖れる者は、茜だけである。残りの木っ端侍十人などは物の数ではない。ルカは、臍下丹田に気合いを込めて、刀を金剛の構えに取り直した。


 やっ、と一人の侍が、平青眼から斬り込んだ。ルカはと手元に引き、颯と刃を横一文字、見事に敵を斬り捨てる。また一人が飛び込むが、彼より早く、ルカの刀が袈裟を斬る。横から踏み込んだ侍は、戛と刀を弾かれて、驚く間もなく真っ二つ。

 苦も無く間も無く三人が、一太刀の下斬られたので、侍共は怖れを為し、ギラギラと車の輪のように、空しく刀を煌めかせ、ルカの周りを取り巻いた。斬っても斬ってもルカは澄ましたもの、すぐに鉄壁の構えを取り直す。

 後ろに回った侍が、柄も届けと突き込んだ――が、ルカに殺気を気取られて、間一髪で躱される。のめり込んだ侍は、苦も無く首を飛ばされた。と彼岸花のような血が舞って、濡れ手拭いをはたくような音がする。


 無駄に頭数が減っていくばかりである。茜以外の者達は、もう既にやや逃げ腰だ。(なんて皆様頼りない。姉上さえいらっしゃれば……)と、茜は頼り甲斐の無い助太刀に、内心舌打ちしていた。

 まためくらな侍が、大上段から斬り込んだ。発止とルカはそれを止め、カラリと刃を外すや否、敵の肋まで斬り下げた。それを見た侍共は、わっと蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


 茜以外は全員斬られるか逃げるかした。彼女の足元には、物言わぬ骸が転がり、凄惨な光景である。だが、流石に茜の胆は座っている。柳腰に力を漲らせ、霞の構えでルカを睨む。北辰流、夕雲せきうん流、冨田流、理心流……様々な流派で、免許皆伝を受けている、男勝りの剣と気性は、確かにルカにも解るらしい。

 ルカも五体に力を込め、いつでも来たれと八相構え、茜も敢えて斬り込まず、両者の間に蕭々と、静かな風が流れるのみ。やや暫く睨み合っていたが、茜の方から大声で、


『参ります!』


 と素早く斬り掛かる。戛然と刃が交わって、火華が散るのとほぼ同時、二太刀ふたたち目が風を切る。ルカはそれも外してみせ、今度は彼から斬り込んだ。くっ、と茜は眉間の前で止め、弾くと同時に身を引いて、地面を蹴って突き掛かる。

 ルカも咄嗟に身を開き、茜の肩目掛けて刃を下ろす。しかし彼女も必死である、斬り辷った身をうねらせ、戛とルカの刃を受け止める。そのままルカは踏み込んで、茜も体勢立て直し、丁々発止と斬り合った。

 ルカと茜の両雄が、龍虎の如く戦っているところへ、軽燕の如く山道を駆けて来た者がいる。人影は二人を見つけるや否、腰の双剣をと抜き、茜目掛けて斬り掛かる。きゃっ、と茜は咄嗟に躱し、また構えを取ったが、三筋みすじの刃をあしらいかねて、一も二も無く逃げ出した。

 

「ルカさん、大丈夫でしたかっ」

「ああハンス。有難う。すぐに籠を見なくては」


 ルカは置き捨てられた唐丸籠に駆け寄って、入り口を切り解くと、ユフの身体が力無く横倒れになった。先程、多少の手当ては加えられているので、気は付いていたが、気息奄々として虫の息である。

 ハンスはそれを見るや否、母親ではなかったので、母さん、と叫び、半狂乱で麓目指して駆け出した。ルカは、ユフの頭を膝に乗せ、二度三度、彼の名前を呼んだ。


「る、ルカ様……お助けなすってくださったのですね……」

「ああ、俺とハンスが君を助けた。ジパングの侍共はいないぞ、もう安心してくれ」

「折角ですが、ルカ様……それもこれも無駄でした……」

「え? 無駄、無駄とはどういうわけだ?」


 ルカは思わず急き込んだ。然もあろう、命を尽くして助け出した者から、こんな情けない言葉を聞こうとは夢にも思わなかったのである。

 静かに鵯が啼いている。鬱蒼とした森の中、こらえてはいるが、ユフの息遣いだけがひどく目立っている。深瘡で余程疲弊しているとみえ、眼の縁には蒼黒い影が隈取っており、声は所々きれぎれである。


「わけというのは、このユフが、あなた様にすっかり愛想を尽かしているからです……。ルカ・ウェールズ様は、腕は優れておいでですが、血も涙もない男だと……」

「……お前は飽くまでも、ミーナの事を言っているんだな。言うな、その事だけは言わないでくれっ」

「いいえ! この事だけは言わなくてはいけませんっ」


 ユフは、ルカの手首を固く握りしめ、怖ろしい力の震えを見せた。彼の双眸にはあらん限りの訴えが燃焼し、烈々の侠血が五体に溢れかえってみえる。


「この間も、諄く言いましたが、帝都へ帰ってミーナ様をお助けしてください……このユフ、最後のお願いです……」

「……無理だ。この身に家門が、帝国直参騎士の嫡男という身分のある限り……」

「……解りました」


 そう言うや否、ユフは前のめりに倒れ込んだ。ルカが驚いて助け起こしてみると、いつの間にか、彼が置いていた刀を取って、切っ先鋭く深々と、自分の脾腹を刺し貫いていたのである。

 滔々と流れ出てくる血潮、断末の朱に悶え苦しむユフを、ルカは何も言わずに抱き留めた。しかしユフには、もう生きている理由は無かった。弟のグレゴールが茜に殺された事、ヒルデが敵の手に落ちたこと、ジパング潜入の計画は全て破綻したのである。

 彼の人生に心残りがあるとすれば二つ――遂に一歩もジパングの土を踏まなかった事、ルカの心を動かし得なかった事であろう。滂沱の涙を流しながら、ユフは二度と醒めない眠りに着いた。


 石のようになって睫に涙を溜めていたルカは、眼がしらの露を払い、まだそこらを漂っているかも解らぬ、ユフの魂にも聞こえよと大声で曰く、


「ユフ! お前の最後に手向けがあるっ。今日までは、帝国直参騎士の家名を汚すまいと思い、恋も騎士の身分も捨て、血も涙もない懦夫となっていたが、今俺は、自分の行く道を明らかに思い出したぞっ。今際の時によく聞いていけ! お前の頼みは確かに俺が引き受けた! 必ずミーナを、骨身にかけてでも救う。またティーレ家も支えてみせるっ。この身の武運が尽きぬ以上、ジパングに入り込んで、ヨーデル殿の末路を見届け、ミナモト家の内秘を必ず突き止めてみせる。聞こえたか、ユフ! ルカ・ウェールズの誓い、これを黄泉路の餞別として受け取ってくれ!」


 ――それから小一時間後、ユフの亡骸は山道に埋められ、哀寂たる山の花と卒塔婆代わりの石が置かれた。啾々と寂しげな風が吹き、墓の前で瞑目している、ルカの頬を撫でた。そこは峠の中腹辺りで、晴れた日には彼方に湖も望まれ、風に鳴る古松に囲まれている。

 日没を知らせる鴉が啼く頃、ルカが麓まで降りて、暫く歩いていくと、ハンスが膝を抱いて、木陰に蹲っていた。ルカが彼に声を掛けると、泣き腫らした顔で、


「ルカさん……母さんには、母さんには追いつけなかったよ……」

「すまなかった……」


 ルカは沈痛な面持ちで項垂れた。黄昏時の陽差しも相まって、二人の姿はひどく悄然としている。

 やがてルカは、言い辛そうに、


「ハンス。君は一足先に帝都に行って、ミーナに会ってくれないか? そしてユフとグレゴールの計画は失敗したと伝えて欲しい。いずれ、俺も帝都に行くだろうとも」

「えっ? 僕がですか?」

「ああ。俺はその間に、リカード殿と会って、事態急変を知らせてくる。それに、近いうちにジパング王のヨリツネ・ミナモトが帰国するらしい。それまでに領事館に忍び込んで、色々と探っておきたい」


 ハンスは眼を丸くして、ルカの顔を見ていた。密偵の自分ですら、領事館の壁の節穴すら見つけられなかったのに、そんなことが出来るのかと、内心、彼を訝しんでいる。

 しかし今となっては、彼を信ずるより他に無い。


「解りました。でも、気を付けて下さいね」

「危なくなったら引き下がるまでだ。あわよくば、君のお母様も救い出せるかもしれない」

「母さん……」


 ハンスは、また暗然と泣き出しそうになったが、今度は気丈に堪えて、お願いします、と力強く言った。

 ルカも彼の態度に勇気づけられる気がし、しっかりとした目付きで頷いた。


「そうと決まったら、僕は行きますね」

「待て、ハンス君。ユフへの手向けに一曲吹きたい。君も別れに聞いていってくれ」

「曲、ですか。まあ少しなら」


 ハンスが座り直すと、ルカは静かに瞑目したまま、鉄笛を咥え、死者を哀れみ慰める、穏やかな曲を奏で始めた。

 喨々と鳴る音色は、沈んでゆく西陽、暗くなってゆく空の中を、静かに流れていく。星々は明滅し、流れ星が一筋、キラリと闇夜を切って飛んでいった。

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