結核女と侍と

 麗らかな夏の太陽が港街の喧騒を照らす。海の方では、青玉の水面を滑るように交易船が、帝国中の産物は勿論、異国からの輸入品などを積んで入出港する。漁船が軽快に海を駆け巡り、それを操る漁師共、その日の成果を報告し合う。十日ほど前に、近辺で起こった災いなど、嘘のように平和である。

 そんな港の街外れ、侘しい家が一つある。庭先に植えられた紫陽花が、そよ風受けて雫をこぼす。庭の木から漏れる夏の陽が、古床に明るく差していた。辺りは貧しい下町で、少年少女が公営の学問所に行っているので、昼間は殊に静かである。

 そしてこの荒ら家は、どうやら学者の家らしく、ジパングのものと帝国のものと区別なく、書物が雑多に溢れかえっている。そうかと思えば、薬草を刻む薬研があるし、机の上には下手なジパング語が書いてある。


 その家の主は以前、リカードらと共に、悪船乗共の船宿を襲撃して、ハンスを救い出したオスカーであった。彼はふと、走らせていた筆を置いて、おもむろに庭の夏色を見回した。そして彼は、妙な眼光走らせて、庭の垣を横目で見た。

 (また嫌な奴がいるみたいだな……)垣の向こうで怪しい人影が、中庭を伺う素振りを見せている。オスカーは敢えて気付かぬ振りをして、煙管に一服つめてみた。触らぬ神に祟りなし、といった具合である。

 普段吸わない煙管を吹かせた彼は、旨くないので放り出し、今度は薬研を引き寄せた。手さえ動かしていれば、勝手に薬が切れていく。空想するには良い仕事。


 (俺は医者だよ。天下が誰のものになろうが、関係無い。もういい加減にしてくれないと、心煩にでもなりそうだ。リカードさんと一緒にいたから睨まれたんだな)と、手だけ動かして考えている。

 オスカーは悪船乗共の船宿で、リカードと共に、ジパング潜入の謀議を凝らす仲間となっていた。しかし何処からそれが漏れたのか、お堂でユフ達が襲撃される前、彼らの元にもジパングの捕手がきた。二人は侍共を相手に遮二無二斬り合って、何とか血路を開いたリカードは、小舟に乗って海へ逃げ、オスカー自身は、何と棺桶に潜り込んで難を逃れた。どうにか命は拾ったが、それ以来、人影が怖くて仕方ない。

 薬研の音が面白い。小鳥の声も朗らかだ。それらを聞いて、オスカー先生、自分の物好き振り返る。反省心を抱きつつ、


「いくら友人でも、何も好んでリカードさんと一緒にいる必要はなかった……。大人しくこの空家に居着いて、下町の連中の病気を診て小遣いを貰いながら、ジパングの言葉を学んでいれば良かったんだ……。だが、リカードさんはどうしたんだろうな? 無事でいてくれると良いのだが」


 その時、庭の垣根の向こうから、喨々と鉄笛の音色が静かに流れてきた。妙な旋律は絶え間なく、いつまでも門前を去らない。

 オスカーは煩くなったのか、薬研の手も止めないまま、どうぞ、とすげなく言い放つ。すると、鉄笛はピタリと鳴り止んだ。間諜まわしものではないらしい、オスカーはと胸を撫で下ろし、垣の門から入ってきた楽士を出迎えた。

 楽士は外套頭巾を被ったまま、


「こちらにお住まいの、オスカーさんと申される医師にお会いしたいのです。いらっしゃいますか?」

「如何にも、私が医師のオスカーですが……」

「オオ、良かった。ようやく捜し当てました。私は薬餌を求めにきたのではありません。申し遅れました、私はルカ・ウェールズと言います」


 ウェールズという姓を聞き、オスカーは俄に驚いて、


「ほう……ウェールズ家といえば、帝国直参旗本の御一家ではありませんか。その一家に属する方が、私に何の用ですかな? だいぶお尋ね廻ったご様子ですが」

「実は……」


 部屋に招かれて、席に着き、出された紅茶に口を付けながら、徐々にルカは話し出した。


 ――お堂の峠から、ハンスを先に帝都へ発たせ、自分はハーフンに戻って来たルカは、ハンスから聞かされていた船宿まで向かった。しかし彼は、そこで思わぬ失望を味わった。船宿の塀は殆ど引き倒され、刃傷沙汰の後のように所々、乾いた血や人間の指が落ちていた。そしてリカードもオスカーも、既にそこにはいなかった。

 近所の者に聞いてみると、三日ほど前の夜に、人間の叫びや刃交はまぜの音がしたらしい。そこでルカも、リカード達が、ジパングの者達の襲撃に遭った事を悟った。それでその後一週間、方々捜し回って聞き回り、ようやくオスカーが、この荒ら家に住み着いていると突き止めた。


 ――かいつまんだ話を聞いたオスカーは、そうですか、と言った後であべこべに、


「それで、リカードさんの居場所は解らないのですか?」

「皆目見当もつきません。私はオスカーさんと共にいるか、若しくは貴方がリカードさんの居場所をご存知だろうと思ったので、こうしてお邪魔しているのです」

「確かに、一緒にいた私が知らない筈は無い、と思うのも無理はありませんな。しかしルカ君、連中が襲ってきたのは真夜中で、リカードさんが小舟に飛び乗っていくのは見ましたが、それから先は全く便りもなく……。最も、私は一緒にいただけなのですが」


 オスカーが変なところで、断りを付け加えた時である。ごめんください、と優しい声が訪れた。オスカーが眼を向けたその先に、紫陽花の葉の間から、白い顔が覗かれる。弟らしい少年と共に佇みつつ、細かい葉の間から、嫋やかな姿を見せている。

 オスカーは彼女を見るや否、優しい医師の顔になり、お入り、と診察室の方に招き入れた。慎ましやかに入って来た者は、恐らく病家の者であろう。ちょっと失敬、とオスカーはルカに断って、診察室に自分も入った。彼が此処で医者をやっているのは、食い扶持稼ぎの内職に過ぎないのだが、医業にかけても腕が良く、少ない金で患者を診るので、評判はむしろ上々である。

 ルカは少し遠くから、診察の手際を眺めていたのだが、女の後ろ姿が、悲しいまでに痩せている。ルカはそれに眼を瞠り、何処かで聞いたような弱い声、千住菊のような金の髪、結核という病名に、おや? という面持ちである。


「先生、有難うございました」


 と、女が言って振り向いた。ルカの姿を見たその時、彼女の顔に紅みが差した。蝋のような冷たい面に、ぽっと紅い血が走る。


「まあっ。ルカ君っ。どうして此処に」

「おや、クララさん。先日はどうも有難うございます」

「えっ。ああ……はい……うん」


 クララは言葉の辻褄を失い、陶酔したように上の空、初めてルカに会った日や、首を括ろうとしていた思い出が、一度に頭を逡巡しているのだ。細々した指を綾に組み、俯き加減にルカを見る。と情炎滾る流し眼を、ルカの白皙に注いでいる。

 魚料理屋の娘に、それほど想われているとは、夢にも知らないルカは、その素振りも気に留めず、慇懃に頭を下げ、


「此処でお目に掛かったのを幸いに、何よりはお世話になったお礼を申し上げます。色々とご迷惑をしてしまい、お詫びの言葉もありません」

「ぜ、全然。あの後ハンス君が帝都に行く途中で、叔父さんの家に寄ってくれたらしいの。それで、ルカ君がハーフンに一度戻るって聞いたから、心の中では、もう一度会えるんじゃないかって、思っていたらこうやって……」

「そうですか。ところでクララさん、その後、お身体の調子はいかがですか? 」


 そう聞かれたクララの言葉が詰まった。表情をふと暗くして、心に溢れる悲哀や怯みが、眼くぼの周りに、隠し難い病の影となる。ああ、結核さえなければ、とクララは心で考える。

 情血を渦に巻かせ、(結核さえなければ、私はルカ君を自分のものに出来るのに!)と熱に浮かされたような妄想果てしない。病さえ無ければ、クララの性格はもっと男に強くぶつかっていくであろう。それを己も知る結核が邪魔する時、彼女は悪魔を飼う、自分の身と血を呪うのだ。

 薬の支度をしていたオスカーは、真鍮の匙に映ったクララを見、帰るように促した。


 オスカーの手前、長居も出来ぬ。クララは調薬を渡されて、会釈を残して去って行く。その後で、ルカとオスカーが話し出す。


「まだ二十四歳くらいだというのに、結核とは不憫な方ですね。治る見込みはあるのですか?」

「いや治りませんな。後五年も生きられれば良い方でしょう。殊にあの歳頃は、恋を頻繁にするものだというのに、可哀想な人ですよ」


 その時、門口でルカを呼ぶ声がする。出てみると、クララの弟ロイドである。彼は姉に付いて来たのだが、今また姉に頼まれて、手紙をルカへ渡しに来た。ルカがそれを受け取ると、返事も待たず、小走りに戻ってしまう。

 何気なくルカが読んでみると、そこらの茶店で筆紙を借り、走り書きしたのであろう。辞句も簡潔そそくさと、


 ー是非ルカ君とお話ししたい事があります。此処から少し離れたメル橋まで来てください。


 と、したためてある。ルカは訝しげにそれを見て、クララの意図を測りかねている。

 クララの方では、思わぬ好機を逃すまいと、メル橋の下に立ち、夏陽に縒れる銀波を、眩しそうに見て佇んでいた。そこへロイドが、小走りに帰って来る。


「それで、ルカ君は来てくれるって?」

「そこまでは解らないよ。だって、奥でオスカー先生が聞いていらっしゃるから」

「気が利かないねぇ。お医者様には関わりのない事じゃない」


 そう言われると、九歳の少年は、歳の離れた姉を見て、自分の恋のように顔を赤らめて、いと恥ずかしげに念を押し、


「でも姉ちゃん綺麗だから、ルカさんもきっと来るよ。やきもきしないでも、姉ちゃんみたいな人に言われて、心を動かさない人なら余程どうにかしてるよ」

「まあ随分と口がお上手なんだから」

「そう思ったら、今日俺が学問所を休んで姉ちゃんに付いて来たの、母さん達には内緒でね。後、茶店で何か食べたいな」

「はいはい」


 などと姉弟が、無駄口を叩いていると、不意に風が吹いて、緑の夏葉が舞って光る。川下へ行く屋形船、川上へのぼる渡し舟、十丹帆の影などが、ゆるゆると流れて行く合間に、向こう岸の森から白い鳥群とりむれが、紙吹雪のように飛んでいく。

 それを見ている姉弟から少し離れた塀の影、ピタリと草履の音が止まる。そこからじっと二人を睨む黒い影――ジパングの塚原一角つかはらいっかくである。脇には自分の中間ちゅうげんである吾助を連れている。


 ――やがて西陽が暮れていく。ルカは一向に来る気色もない。当然クララは思い惑い、ロイドの方を振り向いて、


「ルカ君、どうしたんだろうね。もしかして私の事が嫌いだから来ないんじゃ・・・。病のことも知っているから」

「それだったら俺が行って、呼んでくるよ。もう一回オスカーさんの家に行ってみる」


 と、元気なロイドが河縁から立って走って行く――と一緒に立った黒い影、ドンと彼にぶつかって、後ろからその細首に、閂のような腕を回した。

 何するんだっ、と彼は藻掻いたが、男に喉輪を締められて、ぐったりと気を失った。

 当然クララも驚いて、


「だ、誰かっ。弟が、弟がっ。助けてーっ」


 必死に人を呼ぶその口に、何者かが、大きな手で蓋をしてしまった。そして羽交い締めに抱き締める、両手の力はかなり強い。折りも悪く黄昏時、人通りは殆どない。

 藻掻くクララを後ろから抱き締める、腕の主が声を殺して静かに曰く、


「おいクララ……騒ぐな。腕を離してやるから騒ぐな」

「そ、その声は、つ、ツカハラ様……」

「離してやるから、逃げたり騒いだりするんじゃない。吾助、すまぬが土手の方で見張っていてくれ」


 合点、と答えた吾助は一目散、土手の上に登って人通りを見張り始めた。クララは苦しげに、自分の胸を押さえつける一角の手を振りほどこうと、苦心惨憺している。

 苦しい、とか細い声を聞いた一角は、慌てて両手を離し、倒れ込む彼女を抱き留めた。


「すまなかった。そなたの病根は肺腑にあったな。さだめし胸が苦しかったであろう、許してくれい。だが、これも一心にそなたを想う煩悩盲目、悪い心でしたのではない」

「で、ですが、いきなり弟を気絶させるなんてあんまりですよ……。まだ九歳ですよ。その上、こんな乱暴狼藉をなさるなんて」

「そう怨むのはもっともだが、いよいよジパングへの帰国も近いというのに、いつぞやの返事も無いではないか。もう待ってはいられん! 是が非でも、そなたを連れて帰国するっ。丁度、殿も密偵が周囲を嗅ぎ回っているのを知り、数日後に開陽丸で船出なさると決断された。どう工夫してでも、そなたを連れ帰る!」


 それを聞いたクララは、途端に顔色真っ蒼に、震え上がって言葉も出ない。哀れに痩せた、病苦の胸を上下させ、肺臓を切なく喘がせる。

 一角はそれを見ていたが、すぐに返事が無いのを焦れったく思い、俄にクララの襟を掴み、その蒼白とは対照に、満面を紅潮に昂ぶらせ、耳を劈く大声で、


「嫌だと言うのか! ええ⁉ どうなんだ!」

「……」

「ええいっ。否も応もない、拙者は御船手組頭おふなてくみがしら、如何様にもなるっ。吾助、手を貸せいっ」


 絹を裂くような悲鳴、クララは忽ち押さえられ、荒縄で簀巻きにされてしまった。その時、ロイドがふいと眼を覚まし、姉の危急を見るや否、止めろ、と一角に飛びついた。

 しかし一角の狂恋は、邪魔する者を許しはしない。彼は、足に絡んだロイドを蹴飛ばして、


『邪魔をするなっ』


 叫ぶと同時に太刀を抜き、肩から腰まで一息に、何の容赦もなく斬り下げた。その上、騒がれては面倒と、血刀を逆手に持ち、ロイドの喉に止刀とどめを刺した。

 弟の死を間近で見て、クララはわっと泣き出すが、猿轡さるぐつわを噛まされて、哀れ悶絶、そのまま気を失った。

 いつしか月は雲に消え、深い宵闇が辺りを包んだ。川中の三角州や川原に生えた蘆叢が、葬歌を奏でるように蕭々と、薄ら寒い川風に揺れている。一角は、ロイドの死骸を川に蹴り込んで、小脇にクララを引っ抱え、疾風はやての如く駆け出した。


 川沿いを暫く走っていると、一艘の高瀬舟が繋がれている。一角と吾助はそれに飛び乗って、二人で蒼惶と漕ぎだした。

 流れに任せて川を下っていると、楼台、天守、櫓、多門、石垣からなるジパングの領事館――というよりは城が望まれる。吾助は、広大な城の甍を見ながら、


『旦那、何処から入りますか?』

『水門に着けろ、水門へ』

『ですが、今夜も不寝ねずの番がいますぜ。女一人のために御家お取り潰しなんて、割に合いませんよ』

『だが意地だっ。何処かに着けろ』


 吾助は、あくまで譲らず諦めない、頑固な主人の顔を見て、少し考えていたが、やがて頭を掻きながら、


『白状しますが……実は、あっしら中間や下っ端のお侍が、こっそり夜遊びに出る抜け道が近くにあるんです』

『何と……まあ良い。そこへ行くぞっ』

『合点ですっ』


 意気込んだ二人は、三角州を右に見て、力の限り櫓を撓めた。

 

 拉致されていくクララを見て、ここまで尾けてきた男が一人いる。それはルカであった。彼はしばし、芦の洲に半身を隠して、じっと行手を見定めていたが、何思ったか、俄かに芦を掻き分けて走りだした。

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