恋に恋する女掏摸

 二、三カ所に落雷があってから、嵐の空は嘘のように晴れて、闇の空に浮かぶ半月が、湖水の銀波を照らし出していた。湖の畔にある松原も、彼方此方に根こそぎにされた痛ましい松の幹が見える。

 その中に幾軒か、猟師の泊まる掘っ立て小屋が散在していた。流石に人は住んでいないので、小屋の影は見えても灯影ほかげは無い。しかしその中の一軒から、


「ああ酷かった……」


 と呟く声がする。見ると、小屋の軒下に佇んで、しとどに濡れた衣服の裾を絞りながら、月明かりに眼を吸われている銀髪の少女がいる。カーラ・サイツである。

 静かな月光に照らされて、浮き立つ紅唇や蘭瞼の美貌が際立っている。髪も濡れているらしく、時折雫が滴り落ちる。カーラは、ハンスから貰っていた手拭いで頭を拭きながら、困ったなぁ、としきりに呟いている。

 そして心の内で、(こんな目に遭うのは、あのジンナイの所為だ。あんな奴こそ、さっきの雷にでも打たれてしまえば良いのに)などと呪詛にも似た愚痴を吐いている。加えて独り言を漏らして曰く、


「あの子……ハンスだっけ、大丈夫かな?」


 その時カーラは、そこから少し離れた軒下にも、誰か雨宿りの人影が立っているのを見つけたので、思わずとした。執念深い高坂陣内こうさかじんないが追って来たのかと思ったのである。

 眼を凝らしていると、向こうも気が付いたらしく、チラリとカーラを見て会釈したが、別に気に留める様子もない。しかしカーラの方は、今の胸騒ぎも消えない内に、慌ただしい動悸を覚えた。それは不愉快な驚きではなく、余りに不意な喜びの狼狽であった。

 人違いではないかと、動悸ときめく胸を何度も落ち着かせて見直したが、やはり錯覚ではない。あの時の楽士である。鉄笛の旋律の主である。見紛う筈もない玲瓏の美貌、手に持っている鉄笛が何よりの証である。


 (どうしてあの人も此処にいるのかしら?)とカーラは不思議に感じたが、鉄笛を携えているのを見て、きっとそぞろ歩きに出て、自分と同じように雨宿りをしているんだろうと推量した。

 深沈と更けた夜半ではあるが、ルカ・ウェールズの悩みを知らないカーラは、ひどく寂寞とした場所にいるにも関わらず、意外な人に会えた嬉しさに、胸の裡をいっぱいにしていた。

 何とかして会話したい、と心ばかりわくわく騒ぎ立つが、黙然として空を見上げる人は、中々機会を掴ませない。じっと月を見上げる振りをして、カーラは横目でチラチラとルカを見、しどろに思い乱れている。胸の辺りで情血が滾っている。声を掛けようにも、それは心の奥にかすれてしまう。


 またとない機会であるとは知りながら、恋に意気地の無い自分を、カーラはどうしようもなかった。平常、男を男とも思わず、神業のように銭袋を掏るカーラの胸には、少女らしい情炎が嵐のように渦巻いている。

 女らしい苦しみを、カーラもこの歳になって初めて知った。変則的な生い立ちに、今日まで隠れていたものが、悪土の中で芽を吹いたのだ。性格、本能、全てが伸びに伸びて、悪の花を咲かせてしまった十五の娘。しかしたった一つ、純な芽生えを忘れてしまっていた者がある――それは恋の心である。

 世間に擦れていて恋には初心うぶ――カーラも今度こそ、その恋の試練に掛けられなければならないのである。


「良い按配……明日もこのまま晴れてくれると嬉しいけれど……」


 やっとの思いでカーラは言ったが、それはルカに話し掛けたのではない。呟いたのを緒口にして、向こうから話し掛けてくれないかな、という淡い期待の溜息なのである。

 小屋の軒下で氷漬けになってしまったかのように、カーラはじっと動かなかった。凄い雷でしたね、などと話し掛けてくるのを、今か今かと待ち侘びている、決まりの悪い胸騒ぎ。

 (あたしったらなんて初心なんだろう……)カーラは急に自分が情けなく思えてきた。自分でも形容し難い気持ちに、なだらかな双丘を上下させる彼女の素振りには、世間に擦れた非行少女の様相は微塵もなく、只管に純粋な、はにかましさだけが溢れている。


 カランカランと彼方の教会が鐘を鳴らした。丑三つ時である。湖水の波音に混じって、鐘の余韻が遠ざかっていく。それを良いしおに、ルカは立ち上がって、歩き出していった。

 ルカにはルカの懊悩がある。行くに行かれぬ帝都を偲び、逢うに逢われぬミーナの境遇を憐れんで、帰る事も夜更けたことも忘れていたが、鐘の音を聞いて気が付いたのであろう。

 ルカの姿が、松並木に消えていこうとするのを見たカーラは、蒼惶と駆け寄っていき、あの、と我を忘れて呼び止めた。


「なんでございますか」


 ルカは、先程まで同じ軒下で雨宿りをしていた女であると知っているので、別に意外な様子もなく、静かにも無い返事で振り返った。

 カーラの唇はいつにもなく震えて、しどろもどろに何とか後の言葉を紡いで曰く、


「あの……あなたはもしや、あのお堂で笛を奏でていた楽士さんですか?」

「おや……聞いておられたのですか。到底人に聞かせられるものではありませんので、お恥ずかしい限り」


 ルカは、月に隈取られた美貌をニコリとさせて答えた。カーラは早口に、しかし自分でも気が付かない内に滔々と、


「いえいえ、本当に見事な旋律で、惚れ惚れするくらいでした。あの時、ハーフンの魚料理屋で聞いて以来、ずっとその音色を心に刻んでいました」

「ほう……では、あの夜、酒に酔ったジパングの侍が、無礼にも私に金を投げつけた後で、お呼びになった女客というのは?」

「はい……あたしです」

「ジパングの侍というのは血気盛んな者が多いと聞きます。御身を危険に晒すような真似はお辞めなさい」


 注意されてカーラは俯いたが、それは叱られたからではない。ルカと会話出来た嬉しさに、眼のやり場に困り、っとした顔で俯いているのである。

 ルカもまた、初めて彼女の身なりを観察した。どうみてもこの辺りの者ではなく、帝都の下町で暮らす者に見慣れた服装である。ルカの涼しい眼差しは、早くもそれを見抜いている。

 カーラが話を途切らすと、ルカも取りつきにくく無口でいた。ザブザブと湖畔に寄せ返す打ち波も、冴えすぎて冬に似る月の寒さも、恋に意気地の無いカーラの心を縮ませるのみである。反対にルカの方は、虫の知らせか、ユフ達のいるお堂に帰りたがっている様子。


 ともすればルカが立ち去ろうとしているので、カーラは慌てて話し掛けた。


「お言葉の様子では、あなたも帝都の生まれですか? あたしは帝都の下町生まれで、カーラ・サイツって言うんです。気まぐれに一人旅に来たんですが、本業は酒場娘です。もし帝都に来たら寄っていってください。店の名前はログって言います」

「確かに私も帝都の出身ではありますが、仔細あって暫くは帰らぬつもりです。申し遅れました。私はルカ・ウェールズと言います」

「どうしてですか。帝都は良い所ですよ。下町の一見汚く見える町並みも、捨てたものじゃありません。国中の産物が商店に並んで、朝の膳にはジパングの米、夜には北国から来た脂の乗った鹿の肉。毎夜屋台が水飴や木工細工を売って、縁日も頻繁。月夜の晩には、窓を開けて皇帝陛下のお城を眺めて太平楽を唄う。宵越しの銭は持たない、気儘な暮らしは嫌いですか」


 ルカは、滔々と喋り続けるカーラを見て微笑んでいた。彼女自身には魅惑も何も感じないのだが、帝都訛りの言葉で、帝都の風物を語られるのは、さして悪い気はしないので、そのまま喋らせている。

 カーラはもう止まらない。思うに任せて言葉を紡ぐ。


「貴族様や騎士様にしてみても、帝都は羽振りの良い土地です。同じ外套を羽織るにしても争えぬ気品があって、何となく頼もしいですよ。そうだ、もし何なら帝都までの道中、ご一緒しませんか?」


 カーラは勢いに任せて、ポンと手を叩いてこう言ったが、もしルカが承知したらどうしよう、道中も洒々として歩けはしない、何だったら夜に……などと彼女は他愛もない、取り越し苦労を頭の中で逡巡させる。

 ルカは彼女の言葉に苦笑していた……そして不意に闇の一角を睨んだ。見ると、月の光にチラチラ照らされつつ、松林の間を縫ってくる一人の影、ルカの姿を見掛けると、彼の側に飛んできて、息を弾ませながら、


「あ、やっと見つけたっ。ルカさん、大変ですっ。すぐにお堂へ戻ってくださいっ。ユフさんが、母さんがっ」

「大変だとっ。君は誰だ」

「僕はハンスですっ。とにかく、とにかく大変なんです。母さんが、母さんがっ。うう……僕の所為で、僕の所為でっ」

「落ち着きなさい。すぐに帰るから、まずは何があったのか聞かせてくれ」


 ルカがこういったのは、自分よりもこの緑髪の少年を落ち着かせるためであった。少年はやや落ち着いたが、それでもなお声を震わせながら、


「ルカさん、驚かないでください。ジパングの奴らが、亜麻色髪の女侍に率いられてきた連中がお堂を襲ったんですっ。それで母さんとユフさんは捕まって、僕はどうにか逃げ出してきたんです。少ししてから戻ってみたら、二人ともいなくなっていて、グレゴールさんは殺されていたんです」

「ジパングの侍共が? しまった……油断していたっ」

「それで、侍共は群れ鴉みたいに駕籠を引っ担いで二人を連れて行ったんですっ。多分裏道を通って行きましたっ」


 ルカは愕然として立ち竦んだ。ジパングの侍共がユフとグレゴールを尾け廻っている事は知っていたので、一緒にいて守ってやっていたのだが、今日に限って外出したのが第一の失策。無念の臍を噛んだが、今更及びもつかない。

 しかし及ばぬといっても、ここで空しく手をこまねいているわけにはいかない。襲った侍共は魚料理屋で見た武田茜たけだあかね、その他の者達である。必ずや駕籠の中には、ユフが押し込まれているに違いない。

 そう直覚したルカは、声まで凜として、眼差しを厳しくし、


「解った。ハンス君も、そこの人を表街道まで送って、後で来いっ。君のお母様もユフも助け出す!」

「はい!」


 常に寡黙で沈鬱に見えていたルカは、今まるで別人のように、物凄まじい血相で闇の中に駆けていった。

 カーラとハンスだけが、一段と更け込んだ夜の静寂しじまにポツリと残された。銀色の月明かりに照らされ、螺鈿細工のような白波が湖に立ち、寂寞とした大気の中、透き通るような舞躍の声を上げている。

 カーラは悄然とした面持ちで、溜息と共にしゃがみ込んだ。月影の中に月より遠く去っていくルカの後ろ姿を、いつまでもいつまでもそこから見ている内に、辺りの月光は茫と霞んで、松葉の露のような紅涙が、カーラの両の睫毛に小さな玉を浮かべていた。


「やっぱり縁が無いのかなぁ……」


 ルカからすれば、行路の中で会った一人の少女に過ぎないであろうが、カーラにしてみれば、手中の珠を奪われたよりも、もっと空虚な絶望が胸を満たしているのだ。

 誰もいない湖畔、聞く人のいない猟師小屋……しゃがみ込んだままカーラは、生まれて初めて、心の底から悲しくなって、誰に気遣いもなく、啜り泣きを漏らし始めた。

 ハンスはどうして良いか解らず、取り敢えず横に座り込んでいた。やがて、


「あ、あのカーラさん……。その……僕、ちょっとあっちで待ってるね。一人で泣きたい時もあるだろうから。落ち着いたら知らせてよ」

「うん……」


 カーラは両手で顔を覆ったまま、見向きもせずに答えた。ハンスは足早にそこを去った。やがて、カンカンと半鐘の音がけたたましく鳴る。夜明けを告げる鐘の音である。

 (帝都へお帰り、帝都へお帰りよカーラさん。諦めて帰らないと、思わぬ災難に遭いますよ)とまるでカーラを宥め促すような鐘の音は、仄かな有明の空と白み始めた東雲に向かって鳴っていた。

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