嵐の夜と乱刃と
自分のことを呼ぶ声がするので、ユフは訝りながらも、声がした方に向かって、誰だ、と誰何の声を掛けた。部屋の中に置いていた剣に手を伸ばしながら、壁の影にいるであろう声の主に向かって、彼はもう一度呼び掛ける。
壁の影では
如何にも困り切った
「申し訳ありません……。私は旅の者なのですが、ちょっと月のものが来てしまって……到底歩けそうにないので、一晩逗留させて頂きたいのです……」
それを聞いたユフは不憫に思い、降り注ぐ雨にも関わらず、庭先に出て、声がした方に近付きながら、覗き込みもせずに布を渡した。そして、ふと思いついたかの如く、
「そう言えば、十八歳くらいの楽士さんを、今夜辺り見ませんでしたか? 何だかこう、キリッとしていて惚れ惚れするような顔なんですよ。ルカ・ウェールズ様って言うんですけど」
「……存じております」
「ああ良かった。この雨ですから、傘を持っていてあげたいんですけど、何処にいたのか教えてもらえると」
そう言いながら、何の気なしに、ユフが振り向きかけたその刹那、柄手にぐっと力を込め、待ちかねていた茜が立ち上がり、
「えぇい!」
と、鋭い居合いで斬り上げた。鞘を脱する
くそっ、とユフは辛くも躱して身構える――それを許さぬ
茜の太刀は過たず、ユフの脚を捉えたが、彼が咄嗟に引いたので、刃は骨まで届いていない。歯噛みをしながらユフは藻掻く。蹌踉めきながらも立ち上がり、一心に剣をぎらと抜き、茜に斬り掛かろうとするものらしい。
茜はそれを見て冷ややかに、血刀片手に引っ提げて、
「大人しく拙者達に付いて来てください。その
「ち、ちくしょうっ」
と、ユフが地を蹴り剣を振る。茜はすかさず打ち返し、忽ちしどろに斬り込んだ。
また太刀瘡負わされて、ユフは遮二無二、何の工夫もなしに斬り込んだ。茜は十分に引きつけて、さっと素早く、柳のように身を開き、刀の峰を返すや否、彼の
ユフは再び倒れ伏し、雨と血と泥にまみれて雨の中、無惨な藻掻きを見せるのみ。茜はそれを見て、白皙に酷烈な表情を浮かべたまま、周りに伏せていた侍達に、片手を振って合図した。わっと飛び出る黒い影、バシャバシャ飛沫を上げながら、猟犬のように走ってくる。
サーッと地を払ってゆく雨の雫が、濛々と霧のように白く立ち込める。先程ユフが出た窓からは、中に向かって大粒の水玉が入り込み、半ば開け放されている中の灯は、消えんばかりに揺らいでいる。
「何て卑怯な奴ら……グレゴール、グレゴール……」
降りしきる豪雨の中、ユフの叫びが切れ切れに聞こえていたが、叫ぼうとする息も、起きようとする懸命も、沛然たる雨の力に圧倒されて、紫陽花のように気崩れてしまう。須臾にして、侍共は彼に縄を打って、高手小手に縛り上げてしまった。
茜の太刀風も、侍共の襲撃も、あまりに一瞬であったので、奥の寝室にいたハンスもヒルデも、全くそれを知らず、ただ、屋根を走る疾風に雨音に眼を覚ましたヒルデが、眠っている息子の得物の手入れをしていたのである。
だが、何かを察したらしいグレゴールは、不自由そうな身をよじって起き上がり、兄さん、と何度か暗闇に向かって呼び掛けた。しかし当然返事はなく、雨戸も開け放たれている。そこから見える、外の晦冥たる凄色が、悪魔の口のようである。吹き荒ぶ狂風と吠え猛る雨音の中に、真っ青な稲光が明滅している。
「一体どうしたんだ、兄さんっ。兄さんっ」
と、グレゴールは、泣き出しそうな不安を満面に浮かべ、悲痛な声で叫びながら、一歩二歩、蹌踉めきながら外へ向かう。
侍共は彼の声を聞き、五名がそれぞれ刀を引っ提げて、お堂の方に向かっていった。
――ヒルデは、誰かがしきりに大声を出しているのを聞き、耳を澄ましていたが、やがてハンスも起き出して、声の主を、母子一緒になって考えていた。
少し後、ハンスが、
「もしかすると、グレゴールさんかもっ。さっきから妙な胸騒ぎがしてたんだ。ことによれば、もうジパングの連中が、ユフさん達に目星を付けたのかも」
その言葉の終わらぬ内に、いよいよはっきりした声が、物狂わしく響いてきた。母子が足早にグレゴール達がいた部屋まで戻ってみると、吹き込んだ雨に床はすっかり濡れて、今にも消えそうな
彼はハンス達を見つけると、
「兄さんが……兄さんがいないんです。いつの間にかいなくなっていたんです」
「なんですって……まさか」
「母さんっ。外に何かっ」
と、ハンスが指差した先、霧のような飛沫の立つ庭先に、真っ黒な影が蝟集している。その中にユフが縄目のまま蹴倒され、瘡口から流れる血潮に、辺りを真っ赤に染めて悶絶している。
それを見たグレゴールの顔は蒼白、まるで死人。反対にハンスとヒルデは、何の躊躇いもなく庭先に飛び出して、降りしきる雨を受けながら得物を取った。黒装束の侍共も、手に手に刀を引っ提げて、横殴りの雨に濡れている。
細く白い刃の影も、人に添って、彼方此方に閃々と動き、早くも切っ先を低く泳がせて、狙い寄ってくる覆面もある。
「ハンス、油断しないでね。見た感じ二十人くらい」
「うん。やっぱり、さっき見たのもこいつらだ。母さんこそ気を付けて」
輪を為してきた人影が、魔刃のそよぎを詰めた時、人垣の向こうから、待って下さい、と銀鈴のように澄んだ声。立ち竦みに身構えていた二人が、ふと眼を向けると、さっと開いた人垣を通ってきた、亜麻色髪の女武士。いうまでもなく武田茜である。
彼女だけは覆面をせずに、野袴の高腿立ち。
「そこにおられるお二方、無駄な抵抗は止めて、両手を後ろに回してください! もう察していらっしゃるでしょうが、拙者達は
「黙りなさい!」
と、ヒルデが彼女の言葉を遮って、厳しくこう言い返した。
「此処はジパングでなく、帝国の天領じゃないっ。いくら大領の領主でも、こんな狼藉を、何も罪を犯していない私達に加えて良いと思っているのっ。お嬢さん、何か勘違いしているんじゃないのっ」
「白々しいことを仰らないでください! ジパングの頼経公は名君におわしますっ。理由なら貴殿達の方に覚えがありましょうっ。ジパングの国禁を破って、秘密を覗こうとする大罪、申し開きがあるのなら、領事館のお白洲でなさってくださいっ」
「ご禁制はジパングのことであって、天下の御定法には無いのよっ。ここは天領、すなわち帝国の御支配地、一領主に過ぎないジパング王に、掟呼ばわりを咎められるいわれは無いっ。それに、そんな風に疑心暗鬼になって、世間の耳目を怖れるくらい、ジパングでは怪しいことをしてるっていうことねっ」
痛いところを罵るヒルデの弁舌は、齢三十五の現役教師というだけあって、流石に練れている。理の明晰と語気の鋭さが一言一句に輝いて、彼女の半分程度しか生きていない、茜を圧倒している。
如何にもジパングの国禁を、ジパングの外で振り翳すのは無碍なる暴である。しかし相手は、主君への忠義を以て碌を食み、忠義を第一の誇りとする武田茜である。そんな条理に耳を貸すはずがない。
問答無用です、と彼女は、刀の切っ先を二人に向けて、
『各々方っ。この
おうっ、と答える黒装束、忽ち一度に蠢いて、八方から一気に喚いてかかる。何をっ、と叫んだのはハンスであろう。寄ったる一人を斬り伏せて、横の一人を突き斃す。それ見た侍が背後に回り、力を溜めて躍り込む。
さっとハンスは身を窄め、転がり込んだ敵の喉を刺す。また一人が平青眼で斬り込むが、
ヒルデもまた懐剣を振るい、侍共を寄せ付けない。脾腹を刺される者、首筋を斬られる者、油断していた侍も、悽愴の気を漲らせる。声と声とが乱れ合い、刃と刃が打ち合って、金属の音が辺りを包み、光の襷が描かれる。
雨が少し小止みになって、真っ黒に渦巻いた乱雲が、チラリと月光を覗かせた。一瞬指した月明かりに、目覚ましい
互いに相手はよく見えない。ハンスは暫く戦っていたが、彼を見ていた茜が飛び掛かり、
「貴殿のお相手は拙者ですっ」
と、叫んで斬り掛かる。発止とハンスは双剣を、交差させて刀を受け止めたが、ジーンと両手に奇怪な痺れ、思わずうっと声を出す。すかさず茜は刃を外し、下段構えから斬り上げる。眼にも止まらぬ斬り上げを、ハンスは辛くも躱したが、胸を僅かに擦られて、さっと血が噴き出した。
構え直したハンスを見て、茜も素早く霞の構え、何処から見ても隙が無い。片やただの少年と、片や北辰流の達人だ。どう贔屓目に見ても、実力差は明らかだ。ハンスの眼には、茜の凜々しい美貌も、恐ろしく峻厳に見える。
しばし両者は睨み合っていたが、やがて茜から、
『参ります!』
と、電光石火に突き込んだ。ハンスは身をよじって躱したが、それこそ茜の読み通り、狙い澄ました刀の峰が、ハンスの肩をビシリと打つ。あっと彼は倒れ込む。彼が見上げたその先には、柳眉を逆立てる茜が立っていた。
息子の危急を見たヒルデは、侍共を捨て置いて、茜の後ろから斬り込んだ。しかし彼女に油断はなく、振り向きざまに身を開き、柄頭でヒルデを打つ。それでも息子を思う母親は、一念の力を漲らせ、さっと茜の脚を掴み、そのまま彼女を転ばせた。
「ハンス、逃げなさいっ。私に構わず、はやくっ」
「か、母さんっ」
「ルカ君を呼ぶのっ。良いから行きなさいっ」
ハンスは一瞬迷ったが、遮二無二駆け出した。茜は起き上がりながら、
『各々方、追い掛けましょうっ。逃がしてはなりませんっ』
群がっていた侍共は二手に分かれ、一方はハンスを追い、もう一方はヒルデに覆い重なって縄を掛けた。ハンスは垣を破って逃げ出した――とその時、凄まじい大音響が、一同の鼓膜を劈いた。
あっと思った一同の眼先へ落ちる、大落雷! 一条の朱電が火を噴き上げ、庭先の大欅を焼いてしまった。刹那、バリバリッと大木は大地に倒れ、ハンスを追う侍共の行く手を塞いでしまった。人の暴を越えた自然の暴。
虚空に大欅は幹を白く見せてダラリと裂け、呆気に取られた人間共を嘲るように、
『逃しましたか』
と、茜は溜息をついたが、縛り上げたヒルデとユフを睥睨し、お堂の方に眼を向けると、瘡が裂けてしまったらしいグレゴールが、気息奄々として血にまみれて倒れている。
茜は彼に近寄って容態を見たが、もう助かりそうにない。彼女は刀を逆手に持ち、グサッと彼の喉に
『もう用は済みました。領事館に参りましょうっ』
と、一声、侍共に下知をした。
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