楽士の迷う恋の道
リカード・ヴァイカートは、悪船乗共の船小屋にハンスを救いに行って、そこにいた五人を鏖殺し、そのままそこを密議の場所と定めた。その後、オスカーやハンスの母親ヒルデを相手に、様々な謀議を凝らした末、取り敢えずティーレ家令嬢のミーナと連絡を取るため、ヒルデとハンスの母子を帝都へ出立させる事にした。
ジパングに潜入する前に、一応はミーナ様に会って事情を聞いておき、もし何か自分達が掴んでいない情報があれば、教えて貰おうという考えである。
港街ハーフンから暫く歩いてきた二人は、何か聞きたい事があったので今朝早くに、携えてきたリカードの伝書鳩を放し、今か今かと待ち侘びているのだ。もうそろそろ帰って来ても良い頃合いであるが、未だ見えぬので、ハンスは心配と焦燥に駆られつつ、木の上に登りなどして、しきりに空ばかり眺めている。
「まだかな、まだ来ないね」
「さっきから何回言っているの。もう遅いんだから寝なさい。私が起きて見ていてあげるから」
しかしハンスは、先程から彼方の雲間に白い稲光が見え、遅れて轟音が耳に飛び込んでくる。夜が更けていくと共に、嵐の前触れらしい怪しい風が吹いてきて、草も戦いできたので、気が気では無い。
先頃までは腰の双剣の刃毀れを改めてみたり忙しなく歩いてみたりしていたが、結局今こうして木に登り、小手を翳しているのだ。もしかして何処かで方向を見失ったのかも、などと心配しきりのハンスを見、ヒルデは、
「大丈夫よ。今度連れてきた鳩はリカードさん選りすぐりなんだから。何処に飛ばしても必ず帰ってくるって言ってたんだから。あなたは心配せずに」
寝なさい、と言おうとしたところで、ハンスが俄に天の一角を指し示し、躍り上がるようにして、木から飛び降り、
「母さん、来たよっ。鳩だっ」
彼方の闇から白羽の矢の如く真っ直ぐ飛び込んで来た鳩は、狂喜する少年の指先に止まった。ヒルデから眉から憂愁の影を払って、ハタハタという羽音さえも嬉しく思い、空飛ぶ密使の足に結んである羊皮紙を解いた。
ハンスが鳩をぱっと放すと、今宵のねぐらを探すのか、木陰の中へ飛び去っていった。それを見届けてから、ヒルデは丁寧に降り畳んである羊皮紙を開いて、ハンスは手頃な枝を集め、持っていた燧石を打ち合わせて小さな炎を起こした。
燃えついた灯りに寄って、ヒルデは手紙に眼を通す。それは、かねてよりジパングの源家に住まわせてあるリカードの妹、テオドラからのものであった。
ーお問い合わせのヨリツネ様のご帰領の日にちですが、九月上旬と決まりました。お屋敷も引き揚げの用意に掛かっております。渡海の御用船、
読み終わるとヒルデは、ハンスに
「九月上旬……まだ後三ヶ月もあるね。これならリカードさんの用意だって済むだろうし、帝都から行って帰って来ても一ヶ月は余るよ」
「なるべく、ヨリツネが入領する混雑に乗じて、その隙に、関を破って密境へ入りこむのが上策だってリカード先生が言ってたからね。明日はこのことを、先生のほうへも知らせておこうよ……しっ」
不意にハンスは何思ったか、足元にある小さな火を滅茶苦茶に踏み消してしまった。ヒルデは訝しんだが、息子の見つめる先を見、彼女もぎょっとした。
僅か
ハンス達が黙りこくっていると、侍達もただ黙り抜いている。ただ鋭い眸と眸が火華を散らしているのみであった。
(あいつら何者だ?)とハンスは相手の目的を探りかねていた。ジパングの侍が此処にいること自体が異様ではあるが、向こう側はあくまで黙ったまま威圧するようにこちらを凝視しているのだ。
せめてあちらの風貌さえ見えれば、と母子は思うが、全く漆壺のような天地の中、時折煌めく雷光で、侍共が覆面黒装束であると認識するのがやっとであった。
「変な奴らめ。刀なんか抜いたら僕が斬り捨ててやる」
と、ハンスは双剣の柄に手を掛け、暫く気を張っていたが、両者抜く気配も無く、依然として異様な睨み合いが続いた。その内にハンスは莫迦らしくなり、神経も衝かれてきたので、母親の袖を引きながら、
「母さん、母さん。雨が降ると困るからもう行こうよ。ほら……僕、さっき挫いた脚も治ったし、お腹空いたよ」
「そ、そうね。早く麓の宿にでも行かないと。あなたはそそっかしいから」
火を焚いていた言い訳でもするようにそう言って、ハンスはヒルデの背中を押すようにして、麓へ下っていく。追い掛けてくるか、と思っていたが、バタバタという足音も呼び止める大声も聞こえない。
ハンスは中腹辺りまできたところで、大きく溜息をつき、
「何だぁっ。余計な心配しちゃったよ。それにしてもあいつら何だったんだろう? ジパングの奴らだけど何であそこにいたんだろう」
「私もびっくりしたよ。てっきり、ジパングの事を話していたのを聞き咎められたのかと思って、胆を冷やしていたけど何にもしてこなかったら、何だったんだろうね」
「案外道に迷っていただけかもよ。ははは」
ヒルデも苦笑しながら息子と談笑しつつ、分かれ道に差し掛かった。右に灯りがあるので、二人がそちらに向かおうとすると、勘の鋭いハンスが、急ぎ足にこちらへ向かってくる足音を聞きつけた。
母子がさっと杉の木の裏に身を隠し、様子を窺っていると、油断の無い気配りをしながら、一人の男が走ってきた。今二人が歩いてきた道とは反対に、丘の上へと登っていくものらしい。
ハンスは訝しみの面持ちを浮かべながら、生来の好奇心から疑念が疑念を呼んで止まないのである。
「うーん。どう考えてもおかしいや。この山全体に、何て言うか、妖気か魔気か邪気か悪気が漲っている感じがするよ。ねえ、母さんはどう思う?」
「それはねハンス。さっきの侍達が怖かったからよ。あなたは昔から怖がりな所があるからね。そう言えば、八歳くらいの頃にも」
「い、今は関係無いだろっ。それに怖がりじゃなくて僕の勘だよ勘。父さんから受け継いだ勘で、自然と頭にこいつは怪しい、って浮かんでくるんだよ」
「はいはい」
二人が降りて来た道は、風の騒がしい雑木林をうねって、頭上では真っ暗な林が轟々と不気味な音を立てている。靴の裏から柔らかな落ち葉の湿っぽさが伝わってくる。辺りの夜露はいつしか霞のようになり、その中から淡い光が差し込んできた。
ハンスが眼を凝らしてみると、林のすぐ向こうに一宇のお堂がある。そこから淡い火光が漏れ出しているのだ。
彼が道を尋ねようとお堂に近付いてみると、庭先に何処かで見た人がいる。何ぞ測らん、ハーフンで会ったグレゴールであった。
グレゴールを見掛けたハンスは、思わず瞠目したが、そこでは声を殺して何も言わず、急ぎ足で母親の所まで戻り、お堂の方を指差して、
「母さん……あそこにいる人、前に僕が言っていたグレゴールさんだよ。大怪我してる人だよ」
「あなたが拾った手紙の持ち主? とすると、一緒にいて身体を拭いてあげているのはお兄さんのユフ君ね」
ヒルデはハンスから、事の
まさかこんな所にいるなんて、と意外な現実にぼんやり辺りを見回している。それに反してヒルデの頭脳は、恐るべき緻密さと鋭敏さで、この奇遇にどう対処するか考え始めた。
(あの二人もジパングの密境を越えようとしている、そして私達も久しくジパングに入り込もうと腐心している。偶然の一致なんだから話し合ってみれば、案外双方にとって利益があるかもしれない。それに、もし違ったとしても手紙と引き換えに、ティーレ家の内情を聞き出せるかも)と、考えてハンスを連れ、お堂に近付いていった。
母子は彼らを驚かさぬように、庭先の柴木戸を押し、ごめんください、とヒルデから話し掛けた。お堂の庭先ではユフが、グレゴールの瘡口に薬を塗ってやっているところであった。
ユフは驚いて誰何の声を掛けるが、ヒルデとハンスはつかつかと彼らの前に歩み寄り、ヒルデから、
「不意のお尋ねではありますが、貴方はユフさん、という人ですか?」
「えっ。まさか二人はジパングの」
「違いますよ。ほら、グレゴールさん。前にハーフンでお会いした僕ですよ。ほら」
「ああ、あの時、俺に密偵の証を見せた」
「そうです。この人は僕の母さんで、ヒルデと言います。こんな怪しい
と、ハンスは自分の双剣を解いて、庭先に放り出した。ユフは地面に落ちた二本の剣と母子の顔とを交互に見ていたが、やがて度胸を決めたのだろう、心の落ち着きを取り戻して、
「どういう御用かは解りませんが、ひとまずお上がりになってください」
と、二人を中に招き入れ、自分の剣の隣にピタリと座った。
(これは巧く話し合えそう)と、ヒルデが内心喜んでいると、お堂の別口から一人の青年が、静謐そのものの如く出て行った。初夏ではあるが、雨気を含んだ夜更けの風は冷ややかである。秋に吹く木枯しのような涼風は蕭々と物悲しく木の葉を揺らしている。
今出て行った青年は、痩身長躯の輪郭と、鉄笛を携えているところから察するに、それは同宿の楽士、ルカ・ウェールズである。
ルカはお堂から離れ、裏の街道を抜け湖水の畔まで至っていた。今宵は嵐の前触れか、水面には底浪が騒いでいて、普段は見える木から木の間の宿屋の灯りも無く、涼を入れる窓も無い。
ルカは、それを却って心安らかそうに見、携えてきた鉄笛を静かに吹きながら木陰に座った。瞑目し、いとも心穏やかに
(ミーナも今頃はどうしているのか……)と、吾と吾が懊悩の無明に一人で沈思黙考しているのだ。先日も、ユフが熱い涙を流しながら訴えてくれた。
「倒れかかっているティーレ家、この世に頼るべき人のいないミーナ様、これらを支えるのはルカ様、あなたしかいません」
(その時の俺ときたら・・・何て情けない非情漢だ)と、自分の態度を自嘲しているのであった。恋人の不幸な境遇をも捨てて顧みないルカ・ウェールズは冷血だ、と罵られても反論出来ないとさえ思っているのだ。そのくせ、かつての恋人ミーナの名前を片時も忘れた事はない。
ああ、と溜息交じりの声を出し、いつしか笛を吹くのも止めたルカは、額を膝頭に伏せている。抱えている鉄笛は元々ミーナの物で、帝都からの旅立ちに際し彼女から貰ったのだが、それがいつまでも彼女そのものように感じられ、彼女の住む帝都の屋敷や、懐かしい街の風景までもが如法の闇の中に浮かんでくる。
帰るに帰れぬ帝都の空、折に触れては思い出し、時が経っても忘れはせぬ。家を棄て、恋人を捨てて早くも二年、思慕の悩み、恋慕の苦痛を送る鉄笛は、彼が描くミーナの夢である。しかしユフはそれを知らなかった。いや、ユフのみでなく、多情多感な青年ルカの心に秘めている、人間苦のせつなさを知る人はないのである。
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