縄の唸りは辻斬りへ

 今にも梢に縄を掛け、幽寂の林の中で首を括ろうとする女。カーラは彼女を見て、何か考える前に地面を蹴って駆け出していた。蔓草や小枝に足を取られ、幾度か転びそうになったが何とか間に合い、一も二もなく剣を抜き、足場に登って首吊り縄を横に斬った。カーラは、倒れかかる女の身体を抱き留めたまま、


「滅多な事するんじゃないよっ。滅多な事をっ」


 と、声を絞りながら二歩三歩後退りし、よろよろと草叢の中に座り込んだ。途端に、引き倒された女は声を上げて泣き伏した。林の静寂を破る慟哭は暫く続き、声が枯れると、背中を小刻みに震わせながら苦しげに嗚咽し出した。

 カーラはひとまずとして、しげしげと女の姿を見つめ直し、


「ああ危なかった。まだ歳もお若いらしいのにどうしたんですか。話せる事なら話してくださいよ。あたしはまだ十五で、成人もしてませんけど、若い内から黄泉路に行くなんて、つまらないですよ」

「有難う…。でも……言いたくない……。このまま……泣かせておいて……」


 と、女はかすれがすれの声を絞り出し、そのまま背中を波打たせる。普段、人から金銭を掏り盗るカーラではあるが、この時はすっかり、この女を不憫に思う少女となっていた。

 (こう言ってるし、根掘り葉掘り聞くのも悪いよね)と思ったカーラが、敢えて明るく宥めたり励ましたりと色々と手を焼いたのもあって、女はようやく面を上げた。彼女の泣き腫らした顔を見、カーラは初めて驚いた。魚料理屋が板長の娘、クララであったのだ。

 思わぬ知り合いに、カーラが若干言葉に詰まっていると、どやどやと松明を持った十余人、陰森とした空気を破って殺到してきた。クララの父が板長をやっている、魚料理屋の者達である。


 クララの父は梢に垂れる縄の切れ端を見、娘が何をしようとしていたのか悟った様子。腹立たしそうに二人の前に来て、


「莫迦っ。まさか括ろうとしていたなんて……。旅の方、有難うございました。実は家の娘は以前から結核を患っていまして、鬱々と焦れきって、日がな一日呆然としていたのです。それで今日、姿が見えなかったので、こうして捜しに来たわけです。何ともはや、お礼の言葉もありません」

「い、いえ。あたしはただ夢中だっただけで」


 クララの父はカーラに何度も礼を言い、泣きじゃくるクララを宥めすかしして連れて行った。狐火のような松明の火光が徐々に遠ざかっていくのを見送りながら、カーラは哀れそうに呟いた。


「あんな縹緻なのにどうしてだろう……病を苦にするだけじゃなく、あの人ももしかして月夜の風邪を引いたのかな?」


 その時、鵯の啼く声に似たような、哀れで寂しい笛の音、林の静寂しじまに低く鳴り、何処からともなく聞こえてきた。

 (良い音……)とカーラが聞き惚れていると、音色は紛れもあらぬ夕べの旋律である。カーラの恋慕、クララの吐く血、二人の女の魂が、細い旋律に絡み合う。


 ――カーラが宿を抜け出してから二、三時間も経った時分、ズキンと錐で刺されたような頭痛を覚え、高坂陣内こうさかじんないはふいと眼を醒まし、宿酔ふつかよいの頭を押さえながら牀の上で、天井板を見つめた。

 窓からは茜色の西陽が差し込み、部屋の中は薄暗い。漂いだした黄昏の色をぼんやりと見つめ、陣内は俄に身を起こした。両手を後ろについたまま、濁り頭で昨夜の事を思い出していた。


 彼は夕べ、宿の風呂上がり、カーラの酌で二、三杯干した後、如何にしてカーラを口説き落としてやろうかと思案していた。彼女の初心な笑顔を見ながら、その警戒心の薄さに内心舌舐めずりをしていた。わざと酔い潰れた振りをして、彼女に支えられながら牀に向かう。(このまま少し無理矢理にでも・・・)などと考えながら陣内は、牀に腰掛け、灯火に照らされるカーラの白皙を見た。

 ここまでは陣内も覚えている。しかしその後が渾沌である。それから後は真っ暗な底なし沼に落ちたよう、全く仮死の眠りであった。どういう事か、と彼は腕組みしていたが、不意に何か思い出し、隣の部屋に躍り込んだ。


『カーラがいない! あの女、何処に行った!』


 部屋はもぬけの殻であった。カーラの物は櫛一本残っていない。それが却って陣内の瞋恚を沸き立たせる。その時、彼は顳顬こめかみをぐっと押さえ、クラクラとする視界の中で、胃からこみ上げてくる吐き気を堪えた。口に湧いて溜まる唾、そして歯茎から染み出して、彼の神経を衝いたのは眠り薬の臭いであった。

 (睡眠薬だ。睡眠薬をカーラに飲ませられた!)と思い当たった陣内が、再び顔を上げると、深い佞想の怒りが蒼白く漲っている。よくもこの高坂陣内を侮ってくれたな、とただ一途にどう復讐してやろうか考えている。

 こういうとき陣内は、肚の底に焦熱地獄の猛火の如き怒りを燃やしながらも、飽くまで面には出さず、眉間にジイと皺を寄せるのが性分である。ハーフンで斬るべきハンスを斬らずに縛り上げたのも、船小屋の庭で彼を同田貫どうだぬきの切っ先で苛んだのも、皆この男の悪悦楽を満たすためで、刀を構えるにも女を手籠めにするにも人に報いるにも、彼のやり方は怖ろしく陰険である。


 やがて気分が癒った陣内は黙然と立って、頭巾の紐を締め直した。この陣内、今日まで他人へ、宗十郎頭巾を脱いだ姿を見せた事が無い。余程気を張っているらしく、食事の時は口元だけずらし、酒に酩酊し熟睡している時にも外さない。如何なる時でも頭巾に他人の手が掛かると、と眼を開くのである。

 陣内は階下に降り、受付嬢にカーラの行方を尋ねた。嬢から彼女が街外れのお堂に向かったと聞くと、


「そうか。では真っ直ぐ帝都に帰ったわけでは無いのだな。世話になったなっ」


 と、宿代を受付嬢に渡し、宿の外に出た。空には紫雲が漂い、彼方の山々の間から半分だけ顔を出した夕陽が見えるが、東の空から夜闇が姿を見せ始め、街はもう夜の支度を始めている。今日の仕事を終えた者達が、いそいそ家路に着いている。

 陣内は宿の受付嬢から教えられた道筋通り、街外れの林に辿り着いた。満天の星と珠玉の月の下、小山の頂へ続く登り道の中腹まで行くと、檜林の影に獣道が見えた。誰か通って行ったのか、草の寝ている跡がある。

 (さては……)と陣内は薄暗い林の中、草を踏み分けて行く。豁然、視界が開け、目の前に悠大な自然が臨まれた。そこは崖際だったので、彼は、


『あ、行き止まりか』


 と呟いて何気なく、下を覗き込んだ。そこには古跡の裏街道、峨々たる岩の根に沿って、林の海が続いている。此処にはいない、そう思った陣内が、振り向きかけると、崖際に沿って少し向こうに捜すべき人の姿が見えた。


『畜生! あの女、あんな所にっ』


 陣内は草叢に身を屈め、蟷螂の如くソロソロと草を掻き分け、崖際を進み出した。

 カーラは後ろから陣内が近付いて来るとも知らず、白詰草に囲まれ、白い絨毯のような花畑で寝転んでいた。心地良い夜の風に銀髪を靡かせ、至極穏やかな顔で眼を閉じ、微笑みすら浮かべている。それだけ見れば、十五の佳人、誰の女の掏摸と見えよう。

 此処から見下ろせる林の中から、鉄笛の旋律が長い尾を引いて聞こえてくる。月夜の晩に引いた風邪、彼女はそれに聞き惚れている。しかし陣内の瞋恚は、そんな笛音になど耳も貸さない。息を殺して草叢から立ち、カーラの後ろに姿を現わす。


『……』


 カーラは気が付かない。陣内の口が吽形像のように噛み締まった。右手めては同田貫の柄に掛かり、双眸に殺気を漲らせ、彼女の銀髪と細首を睨み付ける。

 彼の刀に気合いが掛かれば、示現流の一閃で、カーラの胴も細首も真っ二つに違いない。常の彼女ならば、草の戦ぎにすら気を敏くしていた筈だが、今は全く鉄笛の音に聞き惚れ、心は、笛を奏でているであろうあの人――月夜の晩に見た、あの楽士に凭れている。

 うっとりと陶酔しているので、カーラの雰囲気は、もうすっかり歳相応の無垢な少女である。襟足より少し下の高さで靡く銀髪、肩から足に掛けて描かれる身体の線、なだらかに隆起するその胸――それら全てが陣内の鬱憤を掻き立たせた。斬り殺すだけでは飽き足らない悪念へと変わった。その躊躇いの間に、彼の殺念は盛んな獣心へと変わった。


 陣内は眸をカーラの体躯に焼き付かせながら、(男の怖ろしい所を見せてやる。その無垢を俺で汚してやる。こいつも十五、出来る事なら俺の胤で、もう嫁にもいけない境遇にしてやる。それが夕べの仕返しだ)などと悍ましい事を考えながら、身体の方は、夜叉の如く彼女に躍り掛かって、


「カーラッ」


 きゃっ、とカーラは吾にもあらぬ声を出したが、口は陣内の手に塞がれ、身体の方は彼が覆い被さっている。それを跳ね返そうと、彼女は遮二無二藻掻いたが、草の葉が散り、土くれが飛び、白詰草の白が舞う。

 カーラは上の服を破られた辺りで陣内の小指へ、力任せに噛み付いた。その痛さに彼が驚いたところで、カーラはドンと彼を突き飛ばし、脱兎の如く後ろへ跳んだ。肩を震わせながら、と柳眉を逆立て、


「ジンナイ、何をするのっ」


 と、裂帛の声を上げる。その必死な顔と、ズタズタに裂かれた服から覗く、二つの小さな乳房とその先端が、却って陣内の盲目な獣心を煽り立てる。彼は二歩、三歩とカーラに近付いて、彼女も当然後ずさる。

 ニヤリと不気味な笑みを浮かべ、陣内は、


「おい、逃げる気か。逃げられるものなら逃げてみろ。もっとも、逃げるなら崖に飛び込むしか無いがな」

「あ……あたしをどうするの……。近付かないで……」

「ほう……こうやって追い詰められた時は、やっぱりお前も小娘だな。夕べの眠り薬、あれのお返しをしてやるんだよ。港町奉行のお膝元でも人を斬った同田貫はここにある。それを抜かない拙者の肚の底を知っているか」

「知らないよっ。良いから近付かないでっ。誰があんたの事なんか、この痩浪人めっ。辻斬り稼ぎで卑劣で、何の優しさも無い人なんて大嫌い!」


 煩え、とばかりに陣内は、豹のように獲物へ飛び付いていく。とカーラは剣を抜き、陣内目掛けて斬りつける。しかし、カーラの剣技など陣内からして見れば、児戯以下である。彼は咄嗟に身を窄め、風を切った刃の光、空しくキラリと流れるのみ。

 陣内はカーラの利き腕をじ上げ、左手ゆんでで彼女をドンと押す。カーラが起き上がろうとすると、彼女は、陣内が真っ黒な悪鬼のように自分を見下ろしているのを見た。その影がのし掛かっていこうとした時である。


 ひゅっと唸って飛んできた投げ縄! 先は輪になっている。陣内の首を絡め、


「カーラさん!」


 という声と共に、陣内が引かれた瞬間、彼女は跳ね起きた。陣内は身体を弓形ゆみなりにし、喉の捕り縄を掴みながら後ろへ引かれていく。左の拇で何とか踏み堪えながら、倒れないようにするのがやっとである。喉筋に縄は食い込んでいき、眸は充血して、見る間に見る間に朱を注ぐ。

 うむっ、という気当の声と共に、彼は何とか刀を抜き、踵を土にめり込ませたまま、渾身の一閃を後ろへ見舞った。同田貫の刃光ひかりと共に、縄の切れ端が宙を舞う。同時に縄の主も飛び込んで、双剣舞わせて斬り込んだ。慌てた陣内と跳び、相手の顔見て驚いた。


「お、お前はあの時の小僧っ」

「そうだっ。神妙にしろっ」


 緑髪で双剣使いの少年、陣内を奇襲したのは密偵のハンスであった。普段の陣内なら脅威でも何でも無い相手だが、喉の筋は蚯蚓のように腫れ、脳の酸素が足りず眩暈がする。しかも林の中からもう一人やって来る様子なので、彼は縄の残りを身体に絡ませたまま、一も二もなく逃げ出した。

 ハンスは追い掛けようとしたが、ふと蹲っているカーラを見、


「カーラさん、大丈夫? 怪我は無い?」


 と、慌てて彼女の前に膝を付く。カーラは呆然としていたが、そこへ息を弾ませながらハンスの母、ヒルデがやって来た。親子揃って、旅ごしらえの軽装である。

 ヒルデは、


「いきなり走って行くからどうしたのかと思ったよ。鳩が来たの?」

「鳩を待っている内に、女の人の声が聞こえてきたからだよ。そしたらカーラさんが襲われてるんだもん」

「あら、お友達?」

「前に船小屋でジンナイに斬られそうになった時、この人に助けてもらったんだ。昨日返した剣の持ち主だよ。間に合って良かった」


 そこまで言うと、ハンスは少し調子に乗って、網中の大鵬を逃したかの如く、さも残念そうに、


「それにしても惜しかったなぁ。後少しでジンナイを捕まえて近くの衛兵にでも引き渡してやれたのに。あいつ、最近ハーフンで起こっている辻斬りの犯人なんだぜ。船小屋で盗み聞きしたんだ」

「……ハンス。そうやってあなた、この間も死にかけたじゃない。今回はカーラさんを助けられたから良いけど、リカードさんやオスカー先生がジパング入りの支度をしながら、待っているのを忘れないで。それに、あなたに死なれたら私は……」


 と、厳しい口調から声を震わせ始めた母親を見、ハンスは慌てて謝りながら、


「ご、ごめんよ母さん。つい目の前に捕物がぶら下がっていたから手が出ちゃったんだ。今は天下の大事だって僕も解っているよ」

「解っているなら良いけど、あなたは無鉄砲だからね。この前も」


 母親の叱言が始まりそうなのを察し、ハンスは俄にカーラの方に向き直り、手を貸して立ち上がらせた。

 カーラは、


「あ、有難う。助かったよ」

「この間の恩返しだよ……と、とにかく無事で良かった。と、取り敢えず、こ、これを羽織りなよ」


 見まじき物を見たハンスは、慌てて自分の外套を脱ぎ、紅を注いだ顔を背けながらカーラに手渡した。カーラがそれを羽織ると、彼は荷物から自分の替えの衣服を取り出し、あげるよ、と彼女に手渡した。

 カーラはとにかく瞬きだけしながら、それを受け取った。自分を助けたのに何の見返りも要求せず、かつ二組しかない衣服から一組を渡してきたハンスの笑顔を不思議そうに見つめていた。

 じゃあね、とハンスはヒルデと共に去っていった。遠ざかっていく二つの背中の内、小さな方を見送りながら、カーラは小さく、だが感謝とは別に不思議な感情を抱きつつ、


「ハンス……か」


 と、小さな声で呟いた。

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