刃の照らす月夜の風邪
(この方、ただの楽士ではない)
茜も北辰流の達人で、自分の腕に自信はある。しかし今、只者ならぬこの青年を見、正眼の構えを崩さずに、一方にチラリと眼をやった。生洲から上がった
『参ります!』
茜は高い声と共に肚を決めた。こんな少し強そうな楽士なんて一太刀で、と殺念を眼に漲らせ、振りかぶりたるは、月に煌めく
はっ、と相手も気を含む。ピューッと鉄笛が音を出し、茜の刀を受け払い、二太刀目も鮮やかに受け流す。茜の方は苛立って、隙を見せない霞の構え、青年目掛けて踏み込んだ。手元に引いた青年は、茜の小手をビシリと打つ。
痛っ、と彼女は声を出し、慌ててツツツと後退り。咄嗟に踏み込み青年は、彼女の眉間に打撃を見舞う。途端、一枚の小皿が円盤のように、闇を切って飛んできた。茜が躱すとその先に、もう一枚が飛んで来る。柄で防いだ茜は、砕けた皿の粉に眼を潰されたか、
『お二方、今日は引き揚げましょうっ』
と、片手で顔を押さえながら裏門から一番に逃げ出した。ジパングでも有数の剣客である茜が、何故か真っ先に逃げ出したので、佐助も一角も脱兎の如く、空しく一目散に逃げ出した。
剣を引っ提げたユフが追い掛けようとしたが、青年は彼の後ろから、
「ユフ、ユフ。追い掛けるな、お前では歯が立たない」
不意に名を呼ばれた訝しさに、思わずユフは振り返る。彼は、銀色の月光に照らし出された青年の顔を見、眼を皿のようにして、久闊の声懐かしげに擦り寄った。青年は、彼の肩を軽く叩いて微笑んだ。
「久し振りだなユフ。俺だよ。お前には色々と世話を焼かせたな」
「オオ、貴方様はルカ様、ルカ・ウェールズ様だ!」
ユフは嬉しいのか驚いたのか、とにかく昂奮した様子で、飽かずルカの面を見つめていた。
ルカ・ウェールズは齢十八と歳若い。恋にも理想にも功績にも、とかく燃えやすい年代である。何処の流派で習ったか、今見せた腕の冴えといい、夜闇に流れる笛音の風流といい、ゆかしくもあるが美男な色楽士。琅玕の面を包む外套は、恐らく仇を避ける為ではない。旅から旅への渡り鳥、道中での思わぬ女難除けである。
その時、母屋の二階にいた少女、煙管を吹かせながら欄干に寄り、うっとりと陶酔の表情を浮かべて曰く、
「へぇ……良い月……」
今宵、ジパング侍達の隣室にいて、向こうで断った楽士を呼べと言ったり、茜に小皿を投げたりしたお嬢様、それはカーラであった。
彼女のいう月とは天に浮かぶ方か、それとも今視界の下にいるルカであろうか。欄干に身を凭せ掛けるカーラの翠眼は、現のような惚気に染まり、ルカの姿に吸い寄せられているのであった。ここに一人、月夜の風邪、恋の病に取り憑かれた人間が生まれた。
魚料理屋で斬り合い騒動があった翌朝、明け方にこっそりとボロ馬車が出て行った。怪我人のグレゴールも兄のユフも、その夜泊まった、ルカの姿もいなくなった。
――それから早三日が過ぎた。板長の娘クララは最近どうかしている。昨日も今日も茫然と、自室の漆箪笥に寄りかかり、物怪にでも憑かれたように、祈るような悲しい双眸を、天井の隅に向けている。
彼女の心には一人の男、昨日離れに泊まったルカが浮かんでいる。たった一夜、それも僅かな雑談しかしていない男の顔が、この女を強烈な恋の渦に巻き込んでいる。一度も嫁いでこそいないが、分別があり、これまで幾人かと付き合って、男の苦労も一通りは舐めているクララが今、津波のように押し寄せる、情血の滾りを肌で感じている。
そんな吾から囚われていく危ない恋路に、彼女の胸はもういっぱいである。ルカが去った後の家は、今の彼女にとっては、伽藍或いは墓場のようである。
クララは軽い咳を二つ三つした。小さな身体で箪笥の環が揺さぶられる。思いの外しつこい咳に、彼女は手拭いを取り出して口を押さえた。
少ししてから離してみると、手拭いには点々と、彼岸花のような血の跡がある。人に忌み嫌われる結核の喀血である。だが、彼女にはそれが自分に滾る恋の血が、形となって現れたように見えた。
(どうせあたしは永くない……)とクララは思って蹌踉と立ち上がり、鏡台に向かった。しかし、ふと彼女は迷いもした。昨夜の事情を知った家の者が、ルカ達を心配し、人目に付かぬよう手配しているのだ。町外れにある、もう使われていないお堂を彼らに貸し与えている。自分が出入りすれば、ジパングの侍に嗅ぎつけられるかもしれない。
しかし、ルカに会いたいという一心は、彼女を相当狂わせているとみえる。見えぬ糸で魂を操られた人形のように、
「もう焦れったい……どうとでもなってしまえっ」
と、言うや否、鏡台の前に座って髪を梳いたり、脂粉をはたいたり、他所行き支度を始めだした。もう恋というより他になく、彼女の心にはルカの姿しかない。
それにしても罪作りなのはルカである。美男の魅力は女に取って、何にも勝るものらしく、あの夜の月下の争破を良い
そこへ温かみのある声と共に、一人の女が入って来た。彼女はクララの母親で、夫と共に店を切り盛りしている女将である。手に粉薬を包んだ紙を持っている。
「クララ……また飲まなかったんだね。飲まないと治らないよ」
「……煩いな。勝手に部屋に入らないでよ」
クララは鏡から振り向こうともせず、
そんな事言わずに、と母親は近付いて、鏡台の上に薬をそっと置いた。それは結核に効くというので、彼女が定期的に取り寄せている薬である。クララは母親の気も知らないで、否、知っていてわざと、
「今日は飲みたくない」
「そんな事言わないでよ、駄々っ子みたいに。自分の命が大切じゃないの? 」
「何だかどうでも良くなってきちゃった。それより今から出掛けたいんだけど、どいてくれる? 」
「莫迦っ。人の気も知らないで……」
そういう母の眼には涙が浮かぶ、クララは少し悪く思ったが、それを横目に出掛けようとした時である。
何も知らない彼女の弟が、ひょいっと部屋に入ってきて、
「姉ちゃんに会いたいって、ツカハラ様が二階で待ってるよ」
と伝えて来た。
香しい異薫が流れ、部屋は良い香りで満たされた。二階の個室で待っていた塚原一角ははっと振り返った。ようこそ、とクララが恭しく入って来た。
彼女に言わせれば、こんな男に構っている暇はないのだが、ジパングの侍仲間を連れて来てくれる大事なお得意様なので、渋々ながらも顔を出した。反対に、待ち侘びていた一角は、手招きして彼女を呼んだ。
クララは隣に座り、
「いつぞやはとんだ粗相をしまして、申し訳ありません」
それを聞いて一角は、素性も知れない楽士に、思わぬ膺懲を受けたところを見られていたのかと思い、しどろもどろに言い訳をした後、腋の下に冷や汗など浮かべながら、照れ隠しに笑いつつ、
「ははは。何、気にする必要は無い。今日はいつにも増してめかし込んでいるではないか。何ぞ、恋人の所にでも行くのか?」
「いいえ、ですが外せない急用がありまして……。それでツカハラ様、私に用事とは?」
「うむ。他でもないが、この間、離れにいた帝都から来た二人とあの夜の楽士、もう此処にはいないようだが、もしかすると他所に匿ったりしてはいないかと、茜が煩くてな。拙者も役目の手前、一応糺しに来たのだ」
クララはすぐに否定したが、これからその隠れ家に行こうと燃えている恋の胸、ぎくりと一本釘を刺されたような動揺を見せる。
一角は優しく砕けた口調で、俄に話題をすり替えた。雑談している内に、こう切り出した。
「そう言えば……もう一つ相談があるのだ。クララ、拙者と一緒にジパングに行かないか。ジパングは良いぞ。十重二十重の荒海に囲まれて、こことは違う美しい風土建築がある。季節は四つあって、峰や山には年中違う鳥が唄い、草花が茂っている。そなたが見た事がない、風流な寺もある」
囁きながら、一角はクララの肩に手を回し、じっと心を
しかし今、彼女の心は海の向こうではなく、町外れにいるルカに飛んでいる。イッカクはそんな事はつゆ知らず、
「どうだクララ。拙者と一緒にジパングに来てくれ。拙者がそなたを思うところ、言うまでもあるまい。桜の咲く川岸、静かな山川の中、そなたの望むところに屋敷を建ててやろう。拙者は仮にも侍だ、武士に二言はない」
「ですが、ツカハラ様。ジパングは今殆ど鎖国状態。帝国の者は余程の御用でもない限りは入れないと厳しい掟ではありませんか」
「元よりそれに相違無いが、拙者は
一角は滔々と一心不乱、クララをあの手この手で説き伏せようとするが、それは最早、彼女の心を惹くものではない。やがて一角は、腕に力を加え、彼女をぐっと引き寄せた。
そして耳元で一言二言何か言ったかと思うと、彼女の乳房に触れた。
「な、何をするんですかっ」
「恐らくそなた、結核の病の所為でまだなのであろう。そんなに決意が付かないのであれば、拙者がそなたを女にしてやる。そうすれば、そなたの考えも変わるやもしれん」
一角は藻掻くクララを押さえ、そのまま手籠めにせんと押し倒した。クララは、やめてください、と言うが、一角は、ニヤリと笑い、
「そなたも心の奥では、このように男の力が欲しいのであろう」
「あ……誰かきますっ。ツカハラ様、息が詰まります。離してくださいっ」
クララは落ちた髪飾りも拾わずに、ビシリと一角の頬を平手打ちし、腕を振りほどいて、蒼惶と個室から出て行った。
外に出るや否、辻に見えた人力車を呼び止めて、
「お兄さん。急いで、フェローの宿場までお願いします。お金はすぐに払いますから」
「ほい解りましたっ。乗っておくんなさいっ」
クララは人力車に登って、黒い幕を落としてしまった。ガタッと人力車が動き出し、彼女は揺れる車の中で、フラフラと眩暈を覚え、身体に残る男の匂いが、ひどく鼻を刺しているような気がしていた。
(ああ焦れったいな人力車。早く、早く着かないかな)と内心毒づきながら、頭の中ではルカの玲瓏の如き面、凜とした気勢の象徴である姿を見、もう彼女の心は上の空、陶酔の面でうっとり妄想に耽っている。
そんな調子なのでクララは、目聡くそれを見つけた、武田茜の
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