恋する女に露時雨

 旧帝都のハープシュタットと、港町ハーフンの別れ辻、帝都へ続く道へは振り出しの宿場街。旅籠や民家が居並ぶ街並みは薄暗く、黄昏空の下、チラチラと狐火のような、灯火の光を窓から漏らしている。辻馬車や人力車、徒歩の旅人や飛脚の影は絶え、夕闇にこんもりとした街並みだけがひっそりとしている。

 仕立屋、武具屋、雑貨屋、その隣には魚屋に肉屋……いずれもすっかり店じまい。今日の仕事を終えて、店主達は居酒屋にでも行っている様子。その軒並みの中に一際眼を引く横看板、優美な絵を以て立っている門は、油絵師ミケラの店である。

 こんばんは、と軒先からか細い女の声。蝋燭で工房を明々と照らし、絵を描いていたミケラが出て行ってみると、藤を持たない藤娘のような女がいた。彼女を見、ミケラは驚いて鼈甲縁の眼鏡をあげた。


「……何だ、クララじゃないか。どうした、一人で来たのか」

「ええ……叔父さん。その、あの人達が此処にいるのが、ジパングの侍達に悟られていないかと心配で」


 クララは人力車に長く乗って来た疲れからか、壁に身を凭せ掛けるようにして言った。薄暗い工房の中、朧気な火光に照らされて、彼女は昼間とは違う妖艶さを醸し出している。

 そんなことか、とミケラは笑って線描きの手を進めながら、


「あの人達なら、此処から近くにあるお堂に匿ってあるよ。家は街道筋にあって目立ちやすいからね。グレゴール君の瘡は外科医を呼んだり、塗り薬を取り寄せたりしたんで、だいぶ良くなったらしいよ」

「そうですか……叔父さん、あの若い楽士さん、ルカ君も一緒ですか? いるのなら、私、行ってみようかしら」

「いるにはいるが、明日にしなさい。もう暗いから」

 

 しかしクララは、道は知っているから、と邪慳に柳眉を顰めて、叔父に礼を早口で述べた後、あらかた閉ざされた商店通りを、蒼惶と一心に駆けていった。

 暫く走ると、彼女は宿場街の一角にあるお堂の石段に至った。杉木立が真っ黒に林立し、一颯の強風が吹けばガサガサと揺れだす。常人から見れば、魔魅でも出て来そうな不気味さであるが、今のクララは身体の疲労も怖気も感じないのだ。

 夜気冷ややかに雑木林は茂っている。無数の星が黒絹の夜空に瞬き、その中に一際大きな宝珠のような銀色の月がある。クララが戛々と靴で石段を鳴らしながら登っていくと、水の声でも枝葉の戦ぎでもない、長い尾を引く鉄笛の音……お堂の中から漏れてくる。


 その一曲は吹く人の稽古でも、聞く者の興のためでもなく、怪我人の苦しみを和らげ、安眠に導くためであったらしい。やがて吹き終わると、


「ユフ、やっとグレゴールは寝たらしい」


 クララの胸を沸き返す、ルカその人の声がする。はい、と答えるのは兄のユフである。細かい木々の葉隠れに、お堂の中が覗かれた。そこではルカとユフが向かい合って、縁の端に座っていた。

 峰の影が星空にうねりを描いている。地上は何処までも真っ暗である。これを見ると、ルカは旅の寂しさを感じずにはいられない。

 彼は傍らにいる少年に、


「ユフ、お前が帝都を発ったのはいつだ?」

「はい。もう一ヶ月前になります。ですが、何処をどう間違ったのか、ジパングの海を越えるどころか、グレゴールは大怪我するし路銀は掏られてしまうし……思わぬ大厄に遭いました。それでなのですがルカ様……」


 不意にユフは真剣になって、そこで語調を改めた。外ではクララが恋しさに駆られて清姫のように矢も楯もたまらず、ハーフンから来ておきながら、いざルカの姿を遠くに見ると迷いと羞恥に包まれて、茂みの影にしゃがみ込んで声も掛けられずにいた。

 その内、二人が密談を始めたので、尚更そこに割り込む勇気がくじけ、恋の血が滾るのを胸で押さえながら、じっと聞き耳を立てていた。密かに、だが力強くユフがルカに語りかける。


「こんなドジを踏みましたが、此処でルカ様に会えたのも何かのご縁でしょう。実際今度のジパング潜入も、俺達には荷の過ぎた大役です。ルカ様の力も貸してください。倒れかかっているティーレ家を支えるのはあなた以外にはいません」

「……」

「とりわけお気の毒なのは、ミーナ様です。この世に頼る人もなく、今も独り身でいらっしゃいます。ルカ様、あなたは不憫だとは思わないんですか」


 ルカは無言である。その眼を閉じて沈思黙考、何を考えているのであろうか。心に痛みでも生じているのか、僅かに唇が震えている。

 彼は、ティーレ家の令嬢ミーナと深い恋情の間柄であった。しかし帝国の隠密組頭の家は、結婚相手を指定された家以外から見つけてはいけないという御定法である。対してルカは、帝国直参旗本のウェールズ家の一人息子であった。

 この許されざる二人の恋が世間へ知れるや否、彼は家を捨て、恋を捨ててさすらう楽士となった。


 ユフとグレゴールは、ミーナの乳母の息子である。なんという薄情な男だ、と仲を取り持ったユフは、ルカを内心怨んでいた。

 彼はルカに詰め寄るが如く、その薄情さを責めながら、


「俺やおっ母さんが悔しがるのはまだしも、一人で捨て残されたミーナ様がお気の毒で……」


 ルカは槍然と固く口を結んだまま、俯いている。その横顔は氷のよう、月明かりに白皙の美貌だけがいたずらに輝く。

 (ミーナ様? ミーナ様って誰?)ルカとユフが話しているのを遠くの茂みから聞き耳立てていたクララは、ユフがミーナの名前を口にする度、匕首に胸を抉られるような気がした。六つも下の男に対し、一途に描いてきた彼女の恋の幻に、怪しい影が忍び寄る。


 ルカの態度が冷静に、すげなくなっていくにつれ、ユフの声音はいよいよ熱を増し、声量も上がっていく。


「そればかりではありません。今ミーナ様は、そのお美しさとティーレ家の財産と地位を狙う不届き者に付き纏われているのです。ルカ様もご存知のあの男、粘り強い奸佞邪智のヴェイス・フリードです。あの男、あなたがいなくなったのを幸いにして、陰に陽にミーナ様を苦しめているのです」


 ヴェイス・フリード、その名前を聞いたルカは、初めて瞑目を開いた。涼やかな瞳には強い記憶のようなものが蘇っていた。


「では、まだ諦めていないのか。確かにあの男なら恐ろしい事をやりそうだ」

「そうです。俺はとてもあの男には敵わないですが、ミーナ様の懊悩を見てはいられません。それでジパングに潜入して、ヨーデル様を捜し出し、お助けしようと思って帝都を飛びだしてきたんです」

「そうか。お前はずっと正義感が強かったな。意気地無く帝都から逃げ出した、俺なんかは面目ない」

「そう思うのならルカ様、俺達が発った後、是非帝都に帰ってミーナ様に一目会ってください。どうかあの方のお力になってください」


 二歳下で弟のようなユフの、これほど真摯な声もルカの心を衝つには足りないらしい。依然として彼は、冷たい白皙を動かさず、諾の一言を漏らさない。

 一方、強く心を衝たれたのは関係の無い、暗闇に隠れていたクララである。ガーンと鉄槌で打たれたように頭がくらくらし、特に何かしたわけでもないのに、眩暈がする。

 (ルカ君には恋人がいた! ミーナ様という深い深い恋仲の人が……)そう思うや否、クララは、恋の炎へ失恋の水を掛けられたような感覚になった。深い闇に突き落とされた彼女は、ふらふら蹌踉めいた後、側にあった木に縋った。


 支えになった木はドンと揺れ、枝葉からバラバラと瑠璃の雨、クララへ無惨な露時雨……。その時、一人の男が茂みからむっくり身を起こし、闇から闇へ蒼惶と駆け去った。根よく此処まで追って来た、武田茜たけだあかね中間ちゅうげんであった。


 暫くして、クララはふいと気が付いた。筵の上に寝かされて、目の前には松明が林立している。その中には叔父のミケラもいるし、宿場の者もいる。ミケラとルカが何か言葉を交わしているのが見える。

 やがてクララは担架に寝かされた。松明が先に立ち、お堂の灯り、失恋の灯火は遠く遠く小さくなっていく。


「あ……私はあそこで血を吐いたんだ……」


 クララはぽつりと呟いた。彼女は赤く染まった胸元を見、指先に冷たく濡れるものを感じながら、変わらずに輝く星空をぽっかりと見つめていた。

 (ルカ君には恋人がいる。そうでなくとも、結核の事を知られてしまった……)頭だけは澄み切りながら、視界の星々は涙に滲んでいた。


 ――ガヤガヤと煩く人集りが行き交う街道に、五十人ばかりの絢爛な行列が今、ハーフンからやってきた。桃色の日傘、絵柄の日傘、色とりどりに陽へ翳す麗人の行列。派手模様の衣服や朱履など、風にそそられて初夏の太陽の下で交錯し、無機質な地面に艶やかな彩りを加えている。その行列の真ん中の贅沢な馬車に、一人の佳人が乗っている。

 何処かの陽気なお内儀様かと見間違えそうな行列だが、共連れを見ると、歩きながら喋っていたり小唄を口ずさんだりと、憚りもなく、さんざめかしていく様子である。どうもこの人々は貴族のように、やんごとなき連中ではないらしい。

 だがすれ違う旅人や飛脚、荷受宅配御者などは、その絢爛さと洒然さに眼を奪われ、一々呆気に取られている。しかも馬車に乗っているのは、大尽でもなくお内儀様でもなく、歳若い少女であるというので、様々な風評が其処彼処で起こった。


 その噂が、一層この行列を楽しませ、程もなくハープシュタットとハーフンの別れ辻、宿場街に差し掛かると、一同はと蝶の群れが崩れるように居酒屋に入っていった。

 ガチャリと馬車の戸を開けて出て来た一人の銀髪少女、行列を率いてきたのは彼女である。旧都にある歓楽街で遊興の限りを尽くした彼女の帰り道に、女達は太客の見送りに来たのである。一人の者がささと履を、彼女の目の前に揃えてやる。少女が一軒の店に入るまでにも、下へも置かない歓待振りである。

 少女は奥の座敷に通され、そこでも綺麗な芸者達が洋扇で彼女に風を送ったり、手拭を冷やしたりと、とにかく凄いもてなしである。隣にいた者が、


「名残惜しいですが、お見送りは此処までですね。出来る事なら帝都までお見送りしたいのですが、それではお嬢様がお困りでしょう」

「本当だね。皆お人形なら良いけど、小麦を食べる虫だから。ほら、此処まで見送ってくれたお駄賃だよ、拾っていきなっ」


 と、少女は銭袋から取り出した金貨銀貨を座敷中に振り撒いてやる。笛吹き楽士や踊り子達は、キラキラと振り撒かれる銭の雨に色めき立った。成る程これなら女でも、確かにに違いない。

 だがこの少女、悪意があってこれをしているわけではないらしい。ただこういった賑やかな場所、色彩の雰囲気に包まれているのが好きなのである。この銀髪少女、お嬢様と呼ばれているのは、女掏摸のカーラ・サイツであった。

 ハーフンで掏り盗ったり船宿での札博打で勝ち取ったりした金、金貨にして一千枚余りをハープシュタットの歓楽街で使いまくり、僅かに残った百枚ほどを、今こうしてばらまいて帰ろうというのである。路銀などカーラの眼から見れば、これからの道中いくらでも歩いている。


 それで金に大様で粋な金持ちの娘、という様子になりすまし、美食の後で、餞別の酒をグビグビ飲んでいる。

 そして夕方頃、カーラは煙管を吹かせつつ、


「じゃああたしは勝手に支度をして帰るから、あなた達も帰って良いですよ」

「ではお嬢様、またいつでも遊びに来て下さいね」「道中お気を付けて」「お元気で」

 

 などと芸者達は代わる代わる送り言葉を述べ、ハープシュタットに向けて、来た道を引き返していった。

 一人になったカーラは、奥に入って身支度を調えようと思い、煙管の火を消そうとした。その時丁度、街道の向こうから、ジパングの侍が三十人ばかりでやってくるのが見えた。いずれも野袴草鞋わらじの二本差し、いそいそと脇目も振らずに急ぎ足。

 カーラが壁の影からじっと見ていると、先頭にいる亜麻色髪の女が眼に入った。


「あれは確かこの間、魚料理屋であたしが皿を投げた人……物々しい身支度で何処へいくんだろう?」


 と、横目で見送っていると、武田茜が鋭く振り向いたので、カーラはすっと奥へ隠れてしまった。

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