五章 虫

第13話

 マンションの二階の角部屋。表札には『渡部 旭・虹』の文字。黒い呼び鈴を押すと、まだ奥で呼び出しを知らせる音が聞こえているのにもかかわらず、一人の男が玄関の扉を開けた。彼が開けた玄関の奥からは、ふわりと鼻をくすぐるお香の香りが風にのってやってくる。

「はい。どちら様ですか?」

 丸い眼鏡の男は、腕まくりを直しながら玄関の前にいる客人に問いかける。

 服に飛び散った水しぶきにを見るに、恐らく彼は皿洗いをしていたのだろう。

「渡部様のお宅でしょうか?」

「あ、はい」

 おそらく、この家には彼以外の住人はいない。妻がいたら皿荒いを旦那がしているのがおかしい。なんて、時代錯誤な考えはないけども、もし彼以外の人間がいたら彼は今も皿を洗い続けているだろうし、リビングのドアを開けっぱなしにして玄関をあけないだろう。

「よかった。私、△×高校から来ました三芝と申します。三日前にご連絡させていただきましたが、ご返信がないもので直接伺いにこさせていただきました。奥様はご在宅でしょか?」

 人生、嘘くさい方がいい時もある。

 

 

 

「渡部?」

『そう。今の虹華ちゃんの名字』

 日曜の朝四時。誰もが寝静まっているからこの時間、真智はお堂の掃除をしていた。

 朝は神聖な時間。一日の始まり、人生の始まりを繰り返す時間の息吹。集中する力、とかのためでもなんでもなく。

「え? 親離婚でもしてんの? あ、待って。スイちゃんが止まったわ。助けに行くから」

 真智のペットである自動掃除機の通称スイちゃん(絶対どんなことがあってもゴミだけは『スイ』とる子になって欲しいという願いを込めて)ががお堂の敷居に止まってしまったため助けに走る。

 そう、何故こんな朝早くから掃除をするか。それは、誰も見たいないから楽がし放題なのである。

 流石に掃除をしないとバレて兄の蓮華にゴミはお前かと袋に詰められる事態になってしまうが、自動掃除機や雑巾をわざわざしゃがんでかけなくても済むように長い持ち手が用意それている主婦におなじみにあれこれを使えば実に短時間で、少労働でこのただっぴろいお堂のお掃除が終わってしまうのだ。

 基本、頭の固い真智の両親がみたいら気を抜かすし最悪父親は彼を追い出すかもしれない。だが、こんな時間にさっさと終わらせれば掃除方法など誰も気にもとめない。

 そのため、毎朝早くに真智は掃除をしているのだが、今日はどうやら掃除だけではなさそうだ。

「ごめん。で、えっと、なんだっけ?」

 今日は掃除に加え、福太郎との電話も行っており忙しない。

『虹華ちゃん。離婚じゃなくて、結婚な』

「えっ。結婚してんの?」

『そう。しかも生きてる。珍しいでしょ?』

 今のところあの写真の彼女たちは五分の二が亡くなっており、今回新たに五分の一が生存していることがわかった。確かに、生きてる方が少数派なのであ。

「普通の生活にレア度を出すなよ。で、結婚してるってことは実家には流石に住んでないよな?」

『そうだね。でも、実家から今住んでいるマンションは近いみたいだよ』

「はあ? 何でそんなことわかんの?」

『今、携帯のアプリで地図見ているから。なに? 真智は見方知らないの?』

「朝からうざ……。きつ……。人のゴミ……」

『急に自己紹介はじめないでくれる? それ持ちネタかなんだか知らないけど、お前の自虐マジでそのままだから笑えないんだよね、本当センスなっ!』

「それはお前の話だボケ。こっちは、なんでお前が夏目虹華の住所なんて知ってるのかって話をしてんの」

 いつの間に、探偵にジョブチェンジしたんだろうか。

『うちの隣の居酒屋のバイトに、虹華ちゃんの同級生がいたんだよ。それ伝いでね。住所知ってる子までたどり着いたらこんな時間ってわけ。結構たどり着くまで色々あったんだよ。これでも』

 しかし、昨日の連絡からはまだ二十四時間すらも経っていない。

「もう自転車屋やめて探偵でもやれば?」

『はは、冗談。自分でやりたいことやりたくないこと決められないなら、興味ないことを仕事にした方が断然楽』

 人には人の楽がある。

 福太郎にとっての楽は、自分の好みの選択を行えること、だそうだ。それが出来ないのなら、好きでもない仕事でなにも選択してもどうせ好きじゃないしで終わってくれた方が楽だということらしい。

「あっ、そ。で、住所は?」

『昔ボーリング場だった電機屋あるじゃん。そことコンビニの間の道駅側に進んでくと、内科と靴屋があるだろ?その十字路を内科側に曲がたぐらいの三階建ての茶色いレンガみたいなマンション』

「あー。なんとなくわかるわ」

『そこの二階角部屋。どっちかは右か左かはわかんないけど、そこら辺はお前の悪運で乗り切って』

「いいよ。そこまでわかればこっちで後はやる。で、なにが大変だったんだ?」

『おや、労ってくれるのかい? それとも、報酬がアップされるとか?』

「はは。お前の冗談、つまんね。本当、センスないわー」

『……あっそ。なにが大変だったって、その住所にたどり着くまでに決まってるだろ? 最初同じ大学に行った子に連絡取ったら、もう大学を辞めたってところから始まったの』

「大学を?」

『うん。他県の私大に入ったらしいんだけど、なんかやめちゃったらしいよ』

 聞けば、夏目虹華は成績優秀、学問、武芸にも秀、高校最後の夏は陸上部の一員としてインターハイに出場していたらしい。

『大学を辞めたと聞いた時は生徒会長もやってたまじめな子なのにねって、隣のバイト君も言ってたよ』

「ああ、そうだな」

 垣原からアルバムの中にいる夏目虹華は、あの学校でリーダー的な存在だっのだろう。生徒会長も勤め、陸上部では部長を、クラスでもクラス委員を長らくしていたアルバムの彼女が映る写真のほとんどが、彼女を中心にしたものだった。

 優等生の優等生。

 かと言って、堅苦しいタイプの優等生ではない。場に馴染めて、周りの人間を見る限りではどんなタイプでも受け入れ仲良く出来る器用さを持ち合わせているのだろう。

 そんなタイプが大学をやめるだなんて、誰でも驚く。何かあったのだろうか。やめなければ、ならないことが。

 優等生が過ぎるためか何かに心折れた可能いは捨てきれないが。

『なんか学校の先生になりたいとか言ってらしいんだけどね。で、地元で虹華ちゃんに連絡取れそうな子をあたってもらったんだけど、ほぼほぼ全滅。最後の一人でようやく、住所を教えてもらえたってわけ』

「こんな知らんおっさんに、よく友達の住所教えれんな」

 警戒がガバガバ過ぎて他人事ながら心配になってくるレベルじゃないか。

『お前と違ってまだ僕はお兄さんたけどね。ま、聞いたのは僕じゃなくてバイト君ってのも大きいかな。けど、いい気持で住所教えてもらったわけじゃないからね』

 一体、どういうことだ?

「いい気持じゃないって?」

『そう。僕だって、直接住所聞いてもどうしようもないから、連絡の仲介をその住所を教えてくれた子、あ、女の子ね。その子に頼もうとしたのさ。そしたらだよ? 連絡なんて絶対取りたくないから、住所を教えるから二度とその虹華の名前を自分の前で出すなって怒り出しちゃってね。なんかあったんじゃない? こっちに戻ってきてから、さ』

 確かに、住所を知っているということは、こちらに戻ってきた後までは交流があったことの証拠だろう。

 女同士、何かがあったのか、どうなのか。男である福太郎や真智にはどれだけ考えても想像も着かないこともあるだろうに。

「ま、住所が一番助かるし、そこら辺はいいわ」

『ならよかった。好きに使ってちょうだいよ。僕は今から寝るけど、今日の昼過ぎにはお前の家いくと思うから、いい茶菓子ぐらい用意しとけよ。僕、和菓子も嫌いじゃないからね』

「そうかそれはよかった。砂糖と小豆が丁度あるんだ。そのまま出すらよくはですりつぶして一緒に食ってくれ。あんこの味はずだから」

『このや』

 ろうと続ける前に、真智は通話を切った。

 悪いな福太郎と思いつつ、真智は使い捨て雑巾をゴミ箱に入れ、ダミーの薄汚れた雑巾を雑巾かけにかけながら鼻で笑うのだ。

 朝の神聖な本堂を掃除している時に、汚れた願望は相応しくないのだから、仕方がない。

 



「えっ、すみません。ボク、妻からなにも聞いていないんですよ。今、妻は買い物に出かけてるんですが、もうすぐ戻ると思うので中で待っていただけますか?」

「よろしいのですか? すみません、助かります」

「いえいえ。あ、お茶をお出ししますね。コーヒーの方がいいですか?」

「いえ、こちらも突然お邪魔させていただいのにお気遣いまで受け取れませんよ」

「それでもお客様ですから。コーヒーが飲めるのなら是非コービーを。最近自分で淹れるにはまっていて他の人にも振舞いたくて仕方がないので、そ口実につかわせていただけたら嬉しいです」

 人懐っこく笑う旦那に、それじゃあと真智も頷く。この手のタイプはこれ以上断るとめんどくさくなるのは真智のよく知るところだ。

 なんと言うか、押しつけがましいというか、頑固と言うか。チラリと横目で真智がキッチンを見れば、最近はまったのにも関わらず彼の持つものはどれも年季が入っているではないか。なんだったんだ、先ほどの言葉は。そう思いたくもなる人だっているだろう。

 しかし、他の人にも振舞いたくても振舞えないの箇所だけは嘘ではなさそうだ。

「……お子さんがいるんですか?」

 お香の優しい匂いに囲まれた、部屋の片隅に置かれたベビーベッドをはじめとしたベビーグッズを見ながら真智が口を開いた。これなら、確かに妻にコーヒーを振舞えないだろう。

 そんな情報は初耳だ。

 もしかしたら、これが大学中退の原因なのかもしれない。

「あ、その赤ちゃんのおもちゃですか? 封を開けて消毒は全てしたんですけど、まだ全部新品なんですよ」

 新品。

「あ、てことは……」

「ええ。実は来週に第一子が出産予定なんです」

 そうとても幸せそうに、旦那が笑う。

「お」

 おおっ? まさかの出産前!? そんな時期に一人で買い物とか大丈夫なのか? ネットで度々炎上しているやつじゃないのか? 夫は二十四時間妻の近くにいなくていいのかっ!?

 出産経験が身近になかった真智にとっては、唯一ネットの中だけが情報源だ。

 思わず素で驚いている真智に旦那は気を使って大丈夫ですよと声をかけた。

「じっとしているよりも、散歩など動いた方がいいらしいですよ。ボクが着いていくのはやんわり断られました。携帯があるし、近場だから大丈夫たら家で掃除しててって言われちゃって。ボクも初めての出産で三芝さんみたいに最初は慌てて過保護になりすぎてしまったようで、今は妻がうんざりた顔をしてくるんですよね」

「……はあ。そんなもの、なんですね。お恥ずかしながら、この年になっても結婚もしておらず周りにもそんな連中ばかりでしたので、出産と言われるとテレビや人の又聞きの知識しかなくて」

「ボクも同じですよ。三芝さんはおいつなんですかは?」

「私ですか? 今年で二十八になります。よく老けていて、三十以上に見られることが多いんですけどね」

 実際は三十三で、疲れ切った顔と無精ひげでそれより上に見られることが多い、が正解である。

「二十八だんて。ボクとあまり年が変わらないんですね」

「そうなんですか?」

「はい。ボク、二十六なんですよ。こう見えても」

 落ち着いた雰囲気から、それよりも上だと思っていた真智は驚いた。

 ただ、肌を見れば真智より十分若いのはよくわかる。自分の肌と比べるのがおこがましいぐらい彼の肌は水々しいのだから。

「二個違いなんですね」

 実際は七つぐらい違う。小学校すら被っていない。

 そちらの方が随分とおこがましい。

「三芝さんは、虹華と同じ高校のご出身で?」

「あ、いえ。私は隣町の高校に通っていたので。今回の仕事は市役所からの紹介でさせてもらってるんですよ」

「そうなんですか? てっきり卒業生かと」

「はは、あんな頭の良い学校いけないですよ。旦那さんはどちらの高校に?」

「ああ、私は神奈川なんでここら辺じゃいんですよ」

「え、まさかご結婚にあわせてこちらに?」

 こんなど田舎に?

「いえいえ、違いますよ。ボクが高校の途中辺りから、祖父母の調子が悪くなって一人っ子の母が介護のためにこちらに戻っていたんです。だから、ボクも高校を卒業後ここで一緒に暮らしてたんです。丁度、大学受験も失敗して浪人をするかどうか悩んでいたので」

「ああ、お母さまのご実家が近いんですね」

「ええ。まあ、その母も祖父母を見送ると後を追うように癌で亡くなったんですけどね。一人知らない街に残されようで心細かったんですが、その時知り合ってボクを支えてくれたのが妻なんです」

「素敵な夫婦の形ですね。旦那さんにとって、奥様ってどんな方なんですか? みなさん、奥様はすごい人だったと口を揃えて仰っていて、確かに文武両道で素晴らしい方なのですが旦那さんの前でもです?」

「そうですね。彼女の方が年下なのに、ボクよりもしっかりした考えを持っていて、日々頭の良さって言うか、なんだろ。回転の速さ? ですかね。それに驚かされていますね。でも、凄く優しい子なんです。誰にでも困った人には寄り添えて、自分のことのように考えて味方になってくれるんです。ボクはそんな彼女を尊敬してるんですよ。だから、彼女と付き合えた時は信じられない気持ちでいっぱいでしたね」

「はは。奥さん、美人ですしね。引く手あまただったことでしょうに」

「ええ。ボクもそう思います」

「どこで知り合ったんですか? 是非、参考までに教えて欲しいです」

「どこにでもあるあり触れた出会いですよ。運命を感じたとかないですし。友達の紹介って奴ですね。ボク、聖協病院の事務で働いてるんですけど……、あ。聖協病院わかりますか?」

「ええ。この街にいるとね。知らない方が難しいですね」

「確かに。大きな病院ですからね」

 虹華の旦那は元カレの実家の事務員、ということか。

 正直、真智にはこの感覚がわからない。何故こんなにも狭い場所で人生のサイクル回そうしているのか。実に理解に苦しむ。

「そこの看護師が妻の友達で紹介してもらったんです。この街に来て長いんですけど、ボク仕事以外は家族の世話などで家にいた時間の方が長くて、仕事以外に知り合いなんていなかったので……。でもその時はまさか、本当にボクと付き合ってくれるだなんて思ってもいなかったですけどね」

「十分ロマンティックな話だと私は思いますよ」

「はは。そう言ってもらえるのは嬉しいな。彼女はボクが悲しんでいる時、支えてくれたんです。きっと、彼女はそんなつもりはなかったと言うんでしょうけど、ボクにとっては生きてる希望みたいになっていたんですよ。だから、今は彼女に呆れるぐらい過保護になっちゃっているんでしょうけどね。特に今はぼくら二人しかいないですし」

「失礼ですが、ご両親は?」

「私の両親は母は先ほど話しましたけど、父も既に他界しているんです。彼女の両親は健在なですが、仕事の都合で去年から二年間地方で住んでいて里帰りは難しいんです」

「なるほど、それは大変ですね」

「ええ。二人とも初めてですしね。今、不安しかいなですよ。あ、コーヒーです。どうぞ」

「どうも」

 そう美味くもなく不味くもない市販のコーヒーと何が違うのかわからないコーヒーを真智が啜っていると、玄関の鍵が開く音が聞こえてきた。「あ、帰って来た。虹華、お客さん来ているよ」

 旦那はパタパタとスリッパの音を立てて玄関に行く。

 なにか二人で話しているがこちらまでは聞こえない。おそらく、三芝についての説明だろう。


 △×高校から来ました三芝と申します。三日前にご連絡させていただきましたが、ご返信がないもので直接伺いにこさせていただきました。


 真智が玄関の扉を開けた最初に旦那にした挨拶だ。

 この文の中には最後の直接伺いに来たしか正解はない。後は全て嘘である。

 そのままの紹介を虹華にしていも、ただただ彼女は困惑するだけで終わってしまう。けど、それでいいのだ。構わない。

 少し経つと、こちらを窺うように大きな腹をした若い女性が入って来る。

 卒業アルバムから約五年。随分と赤抜けてしまったが、まだあの面影は顔のない写真よりはある方だ。

「はじめまして。渡部虹華さんですね。私、△×高校から来ました三芝と申します。三日前にメールにてご連絡させていただきましたが、読んでいただけましたでしょうかね?」

「メールですか? ごめんなさい。私、知らなくて」

「おや。そうなんですか。おかしいな、メールが届いてないんですかね。すみません、こちらの手違いで突然お邪魔す形になってしまって」

「いえ、それはいいんですが、私になにか……?」

「はい。今すぐと言う話ではないんですが再来年度から△×高校が半私立化するのはご存じですか? 経営が県が法人に依頼する形に変わるんです」

「はあ」

「それに伴い、学校側も広くアピールする必要が出てきまして、卒業生で著名な方や虹華さんみたいに特に優秀な方にこの学校を選んでよかった、またはこの学校に入ったことで得られたものなどをインタビューを行い、入学志願者用のパンフレットに掲載させて頂きたいのです。勿論、断って頂いても構いませんよ。他の方も数人、断っておられる方もみえますから」

 たまに、よくそこまでポンポンと嘘が言えるなと福太郎に真智は感心される。

 勿論、良くない方の感心のされ方であるのは知っているが、真智としては福太郎の言葉の方が信じられない。

 なにを言っているんだ。だって、本当のことを言わないだけじゃないか。

 逆に聞きたい。本当のことばかり言える方が、おかしいんじゃないか?

「あ、そういう話なんですね。すみません、本当に私の方にメールきてないみたいで。でも、そんな話なら大丈夫ですよ。けど、私、そんなに優秀じゃないのにいいんですか?」

「ありがとうごさます。二期連続で生徒会長を務めたのは前代未聞だと皆さん仰っていましたよ。特に貴女を推薦した方は」

「えー。私を推薦してくれた人誰だろ?」

「その方が私の代わりに虹華さんにメールを送ったんですけどね。電話とかもありませんでしたか? 箱壷さんという方なんですけど」

 虹華の顔つきが、一瞬にして変わる。

「彼が貴女のことを私や先生方に推薦してくれたんです」

 虹華が固まり、目だけが泳いでいるなんて中々見ない動揺の仕方である。

 流石に元カレの名前を旦那の隣で出して気まずい? いやいや、それにしてはこの顔の変わりよう。どこかおかしくないだろうか。

 しかも、だ。

「箱壷って……、ああ、そうか。そう言えば、虹華は院長先生の次男君と同じ学校だったけ。確か、和樹、君でしたっけ?」

 旦那はどうやら箱壷と面識があるみたいだ。

「ええ。よくご存じですね。あ、お勤め先が彼のご実家、でしたっけ?」

「はい。顔も何回か合わせたことがありますよ。よく、食事会やら院長が開かれると次男君も顔を出されているんですよ」

「ご実家ですもんね」

 真智が横目で虹華を追うが、もそもぞと居心地が悪そうに動くだけで会話に入って来る気配はない。

 気まずいから。

 そんな理由は確かにあるとは思うが、それだけで?

「あの、虹華さん。今直接お聞きしてもよろしいですか? 折角伺わせていただいたので生の声を聞きたいんです」

「え、ああ、はい。大丈夫ですよ」

「ではます、在学中はなにに力を入れられてました?」

「そうですね。やはり、部活動でしょうか。私は陸上部に……」

 次に、学校で叶ったこことは? 次に、卒業後してあの学校でよかったなと思うことは?

 形式的な質問に、模範解答のような虹華の答えが並ぶ。

 これと言って面白味も彼女の自身の確信に触れるものもない。

 彼女はあきらにこの事件の、特に貝津善旭の自殺においては中心人物と言っていい。

 彼女が被害にあったことにより、彼氏である箱壷和樹による脅迫が行われたからだ。

 それを彼女か知っているか、知らないのか。

 最後の質問を真智は口にする。

「一番思い出に残ってる先生は?」

 彼女の顔色がまた変わった。

 顔のない写真においても現状、彼女だけが生き延びていると言ってもいい。

 何故、顔のない写真に彼女は選ばれたのか。そして、彼女を選んだのは、誰なのか。

 彼女は、なにをどこまで知っているのか。

「先生は、あの……、ごめんなさい。ちっょと前過ぎて、覚えてないかも……」

 彼女の目が随分と泳いでいる。

「そうですか? 箱壷君は一年の時の担任の先生って言ってましたよ。あ、虹華さんも同じクラス……」

「そんなの、絶対に嘘っ!!」

 真智の言葉を遮るように彼女は叫びながら立ち上がった。

 これは、ビンゴだろ。この反応、間違いなく虹華は貝津善旭の死の原因を知っているっ。

「……虹華?」

 一人だけ、なにも知らないはずの旦那が心配そうな声をあげた。

 その声にはっとしたのか、虹華はお腹が張って来て苦しいから休むと、足早に寝室へ向かって行く。

 収穫としては十分だ。

「あの、ごめんなさい。虹華は、高校生の時に先生とうまくいかずに嫌がらせのようなことをされていたみたいで、思い出したくないんだと思います」

「それって、先ほど私があげた一年の先生ですかね?」

「恐らくは。彼女の担任の方、飛び降り自殺したのは知ってますか?」

「えっ。初耳です。そうなんですか?」

 勿論、大嘘である。

「知らずとは言え、無神経でしたね。私は」

「そんな、知らなかったなら仕方がないですよ。同じ学校でもないわけですし。少し前に彼女、うっかり誰かの自殺動画を見てから随分と落ち込んでましたし、何年経ってもやはり心の傷になっているんでしょうね。可哀そうに」

「その時、奥さん何か言ってましたか?」

 例えば、懺悔のようなことを。

「ええ。すこしですけど、その時も思い出したくないって……」

「そうですか。素敵な先生でも合わない時はありますからね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る