四章 貝津善旭という男

第11話

「本日はお時間を作っていただきありがとうこざいます。私、三つの芝とかいて、三芝と申します」

 何年か前に取引先との付き合いで作ったオーダースーツに真面目なネクタイに眼鏡をかけた関柴真智が、そう名乗ってにっこりと微笑んだ。

 


 

 貝津善旭(かいづあきひろ)。それが、五年前に学校の屋上から飛び降りて自ら亡くなった先生の名前だった。

 貝津家は依頼者の箱壷和樹が通っていた市内の高校から車で十五分程の住宅地に文字通りひっそりと佇んでいた。

 オレンジの日に焼けた屋根に、雨風から家族を守ってきたクリーム色のなれの果てな外壁。どこにでもあり触れた家。それが、この家を見た真智の印象だった。

 箱壷から先生の情報を聞いた次の日、真智は貝津家へ電話を入れるがすぐに留守番電話になってしまった。今、家に電話がある人間は早々電話を取らないから覚悟しておいた方がいいと福太郎に茶化されたが、まさかあれが本当だったとは。

 檀家の老人たちはいつかけても出でくれるが、どうやら若い人たちはそうもいかないらしい。緊急の電話やら個人的な用事は全て携帯にかかってくるため、家の電話はそうつかわない。鳴っても、碌な電話じゃないのが殆どと言う。貝津家もそれに倣い二、三回しか鳴っていない呼び出し音の後に、すぐさま留守番電話になってしまった。

 はてさて、どうするか。

 留守番電話の案内中に真智は思考をめぐらせる。

 今回、電話にでた家族を適当にいい含み、家の中に入らずとも会えればそれでよかった。詐欺師まがいな真智にとっては、その条件クリアは特に難しい話ではない。今回はものを売りつけるわけでもない、金の話もなのだから。

 しかし、それは対人間への場合に限る。留守番電話とは詐欺師相性が悪い。

 詐欺でも歪んだ悪徳宗教でも、カモが真っ直ぐ歩いて門を自分で超えるまでは考える時間を与えたらいけないのだ。

 一種の洗脳というか、考える隙を与えず選択をさせつづけると、人間の脳みそは段々と自分の行いが正しいはずであると思い込もうとするものだ。だから畳みかける様に、詐欺も勧誘もべらぼうに話す。話し続ける。相手に考える隙を一切与えない。口が上手いやつが詐欺師だと言われる所以の一つだ。

 だが、留守番電話はそうはいかない。

 例えば詐欺師が壁に話しかけ続けていて、誰かひっかかってくれるかどうか。誰なら引っかかってくれる? 頭の悪い人? 好奇心が強い人? それとも、心の優しい人? 残念ながら、そんなことはない。救急車を呼んでくれる優しい人はいても、壁に懇切丁寧に話しかけた詐欺にかかってくれる愚か者はいないのだ。

 だって、自分に話されていないことは、誰でも冷静に聞けることの方が多いものである。

 一度電話を切って作戦を練り直すか? しかし、そうすると何度も電話をしないといけない。何故一回目で留守番電話を残さなかったか、疑問に思われれば終わりである。

 出来れば、不安要素は出来るだけ排除したい。今回は特に難解で複雑なのだ。まったくの第三者であり、故人とは何一つ交流も認識もないが、あくまで真智は故人の自殺した原因である箱壷側の立場の人間だ。もし、それがバレたらどうする。それで会ってくれるほどの善人なんてどこにいるものか。とりあえず、一回でも怪しまれて警戒されたら終わりなのだ。

 真智は息を吐き、出来るだけ自分の中で落ち着いた声をだした。

「貝津善旭先生のお宅でしょうか。私、先生の生徒であった佐藤先生から貝津先生のお話を聞きお電話しました。よろしければ、生徒への指導のことでご指導頂きたいことがありまして、もしお時間があればお手数ですが折り返しお電話をいただけますでしょうか。決して、時間は取らせませんので、なにとぞお願いします」

 そうなると、故人に向けた電話が一番折り返しの電話の効率が高い。

 留守番電話を聞かずにいてもらってもこれならに構わない。家を訪ねても故人がまだ生きていると思い、電話をした。知らずに申し訳ない。線香だけでもあげさせてくれと言えば、とスムーズに家まで入れる。そのために証拠の留守番電話を残したのだ。

 これで折り返しが本当に来たら万々歳だなと、思った瞬間だ。

 彼の携帯が鳴る。

 真智は一瞬驚き、少しだけ心臓が強く動く。

 それは真智の携帯に表示された番号が先ほど真智がかけた番号、つまり貝津家の電話番号だったのだ。

 このスピード。恐らく、留守番電話は再生されていないことだろう。

 となると、近くで留守番電話を聞いていたということだ。

 これは気が抜けない。

 それはつまり、とても高い警戒心の表れだ。少しでもこちらがボロを出せば全てが引っ込んでしまう。

 ゴクリと喉を鳴らし、いつになく緊張した面持ちで真智は携帯の通話ボタンを押した。

 相手は市内在住。

 もしかしたら、うちの寺の檀家である可能性もある。

「はい、三芝でございます」

 少しでも自分とわかる部分は消さなければ。

 この日から、貝津家の中で真智は関柴真智ではなく、三芝周作になったのだった。

 



「よくいらっしゃいました。ごめんなさいね、待たせてしまって。どうしても仕事の都合で今日しか開けられなくて……」

「いえ、構いません」

 漸くあの電話から五日後に尋ねれた貝津家で真智にお茶を出しているのは、貝津善旭の娘である。

 眼鏡をかけた彼女は、恐らく三十前後。真智たちとそう変わらない印象だ。

 地味な服に地味な髪。御世辞にも美人だとは思えないが、中々愛嬌のある顔をしている。

 顔は化粧っけもなく、爪に色はついてない。ついでに光る輪っかはどの指にもついていなかた。今どき結婚指輪一つで既婚未婚だと騒ぐつもりはないが、一つの目安としては有能である。

 数年前に亡くなった父の家に、住み続ける。恐らく結婚はしておらず、電話には一度留守番電話をかまてせから取る警戒心。だが、礼儀も正しく、話し方も品があり終始笑顔を絶やさない。

 ここまで行くと、自然に自分の意志でこれらを作り出すには無理がある。ご両親、特に電話を聞く限りでは父親の方に彼女は厳しく育てられたのではないだろうか。

 そうなると、真智が口にしていい父親の話題は誉めるのみだ。下手に彼の品格を下げるような話題になれば、彼女の口数が減っていくことだろう。良くも悪くも両親に品格を教え込まれた人間は警戒心が異様に高く、少しでも不愉快を含む危険を感知すると速やかに後退を始める。勿論物理的ではなく精神的なのだが、これが中々曲者でその後距離を詰め直すとなると、とてつもない月日が必要となるのだ。

 人によっては愚痴や悪口を混ぜた方が話が進みやすい人だって少なくないが、今回は悪手。言葉には最大の注意を払わなければならない。

「ボクの方が無理を言って申し訳ないです」

 しかし、真智も人間である。どれだけ気を払っていようがなんだろうか、些細な事でポカをする可能性は大いにあり得る。なので、ここで人間性という保障をつけることにした。「ボク」と名乗る、常識力があまりない無鉄砲な人間である演技をする。普通であれば、こんな人種悪手の悪手で関わりたくない人だって多いだろう。しかし、今回の場合は有効なのである。そんな人物が『故人を熱く尊敬している』というシチュエーションは大いに熱量がわかりやすく、窺えるの熱量に故人の家族仲間は喜びやすい。簡単に言えば、嬉しいから気が緩んでくれるのだ。

 それと、出来るだけ『三芝周作』と『関柴真智』の距離を取りたい。

 彼女の中では、目の前にいる三芝周作は故人を尊敬するあまり無鉄砲にも電話をしてきた新人教師またはそれに準ずるものという印象があるはずだ。あの折り返しの電話の相手は目の前にいる彼女だった。彼女は丁寧に真智に父は故人であることを説明してくれた。何も知らなくもう分けないことを謝罪した真智は、その言葉に乗じて嘘をおずおずと語りだす。

 先生が恩師だという人に出会い、いたく彼の熱いその教育方針に感動した。自分も教師とまではいかないが同じ子供たちに教える立場の人間として迷いが日々あった。しかし、先生の話にとても感銘をうけ、もう一度立ち上がる決意が出来た。お礼とはまた違うが、是非とも線香だけでも上げさせてくれないかと熱く語ると、電話の向こうの彼女は少し笑って快諾してくれた。

 その様子を見て、ますます真智は彼女に疑いの目向ける。

 どう見ても、その笑いは嬉しく誇らしい笑いだからだ。

 こでわかるのは、少なくとも彼女は父親の死を喜べる人間ではないということ。

「そんなことないですよ。父の話をしてくれる生徒さんがまだいるのは、とても嬉しいので……」

「素敵な先生だとお聞きしましたよ。そうだ、他の家族の方はまだ帰られてないのですか? これ、少ないかもしれないですがお供え物とご家族の方に」

 日持ちがする焼き菓子と、これまた日持ちのする洋菓子の箱を真智は差し出した。

「まあ、そんな気を使っていただかなくてもいいのに。この家、私しかいませんから」

 そう言って、彼女が笑う。

「え」

 一人で暮らすには広すぎるこの家に?

「実は、父は私が中学生の時に母と離婚していて、父のもとに残ったのは私だけなんです」

「あ、そんな、ボク、すみません……」

 初耳だ。真智の集めた貝津善旭の情報にはそんなものはなかった。誰も知らなかったのか、随分前だから浸透しすぎた情報だったのかはわからないが。

「いいですよ。知らなくて当然ですし、謝らないでください。私が勝手に話たことですし、もう随分と昔の話ですし。父もきっと忘れていたことでしょう。お菓子おいしく頂きますねっ。私、この店のお菓子大好きなんですよ」

 随分と健気な女だ。

 父一人、子一人。長い間二人だけでこの家で過ごして居のだろう。

 彼女一人になったのなら、こんな大きな家はいらないし、こんな田舎をさっさと抜け出し好きなところで生きればいいのに。けど、それが出来ない、それをしない理由が彼女にはあるのだろうか。

「本当に、すみません……。ボク、気が焦っちゃってて……。佐藤先生にも、今回の話をしたら怒られてしまいました。佐藤先生、ご存じですか?」

 まあ、そんな人間はいないが。

 佐藤先生とは、真智が作り出した架空の貝津善旭の元生徒の教員である。

 長い間教師をやっていたら、佐藤という名字の生徒で教師になった奴が一人ぐらいいるだろう。そんないい加減な発想で生み出されたキャラクターだ。

 それに、親の生徒の名前を全て把握している娘なんて早々いるはずがないと思っての行動である。

「すみません。ちょっと私では父の生徒さんたちの名前までは憶えていなくて……」

 ほら、ビンゴ。

「あ、そうですよねっ! 普通そうですよね! すみません、またボク何も考えずに……」

「いえいえ。気になさらないでください。あ、そうだ。線香でしたね。どうぞおあげください。生徒の皆さんも、墓参りだけで最近は私に配慮して仏間に顔も出さないものだから父もきっと喜んでいますよ。いつも私の顔だけで見飽きてるでしょうからね」

 おや。

 真智は彼女のこの発言に首を傾げた。

 父と娘は仲がいい。娘にとっては父は唯一の家族だった。父のことを誇りにも思っている。

 それだけ聞くなら、父を死に追いやった相手を憎むのは通りに適っている。

 きっと、彼女は父を亡くした時に激しい悲しみや虚無感に襲われたことだろう。

 それはいい。真智の本音を言うなら、どうでもいいし興味もない。同時の状況なんて重要ではないのだ。ことの発端は最長でも一年半前。たけど、先ほどの発言はなんだ? 死んだ父の気持ちを場面によって変えている。これはまだ大きく辛い悲しみを引きずっている人間には中々出来ないことだ。出来るとすれば、最愛の人の死を受け止め、その悲しみを超えた人。

 そんな人間が、呪いを?

「あ、はい……。ありがとうごさいます。あの、図々しいお願いをしてもいいですか?」

「はい、なんでしょう」

「もしよければ、貝津先生のお話を聞きたいんです。とても素敵な先生だっんですよね?」

 真智がそういうと、彼女は少し困った顔をした。

 戸惑っていて、それでいて、躊躇っている。そんな顔を。

「あ、無理にではないです。ボクったら本当に申し訳ないです」

「あ、いえ。違うんです。なんて言うか……三芝さんの言うように、父はそんなにいい先生だったのですかね?」

「はい?」

 その答えは真智にとってもとても意外な言葉だった。

「私に取っては良い父親かすらわからなかったです」

「え、でも、そんな……」

 さっきまで見せていた家族愛はどこにいった?

「多分、いい先生だっと思うんです。父は生徒たちをとても大切にしていました。子供の私がそう思うぐらいに。だって父は、いつでも生徒さんに付き合って夜遅く帰り、休みの日なてものも部活動で消えてしまって、いつでも私たち家族のことは最後でしたから。こういうことを家庭をおろそかにするって意味なんだと、子供ながらに思っていました」

 教師という仕事はとても大変だと、度々ネットの中でも外でも話題になるを見る。

 その時はだからなんだ。そんな辛いのならば辞めるべきだと思っていたが、きっと多くの子供たちが『大人』として成長していく過程で、中にはこの先生のように自分も自分の家族も犠牲にして投げ打ってくれる人は必要な子供たちがいるのだろう。これは決して美談ではない。歪な環境のまま成長してしまった間違った姿だと思う。このシステムを誰かが直さなければまた誰か未来の大人である子供たちの誰かが犠牲になってしまうことだろう。

 でも、今はそんな話をしている場合ではない。

 未来の教育システムに物申すのではなく、彼女の中にある貝津善旭の死について見定めなくては。

「父は家の中でも教師でした。私たち家族にも生徒であるように接してくれていました。その姿がいい先生か良くない先生か私には判断ができません。父は私にっては先生ではなく、たった一人の父親としか見れませんでしたから。父は厳格な人で特に長男である弟にはより厳しくしつけをしていました。それが母と離婚の原因です。弟は特に甘えたで、よく父に男なのにと怒られていました。今思えば男女差別の最たるものですけど、当時は確かにそれが普通でしたし、その要因となった母が父への反発でより弟をとても甘やかして育てていたので、私だってこの甘やかしが弟によくない結果をもたらすんじゃないかと思っていたぐらいです」

「弟さんは今?」

「母に着いていきました。まだ彼女と一緒に暮らしているんじゃないかな。私は、父の厳しさに理由を見いだせる年齢だったのと、母との折り合いが悪くて」

「厳しさの理由を見いだせるとは?」

「父は確かに、厳格で怖いですけど突然理解できない理不尽な怒りで私たちを叱ることは一度もなかったんです。勿論、このレベルで怒るのかと驚くこともありましたけど、大抵叱り方として何故自分が怒られたのか。何故これが怒らないといけないことだと父が思ったのか、必ず言ってくれるんです。まあ、こちらも怒られてますし子供ならそんなことも知らずにただただ怖くてなにも理解できませでしたけど、中学あたりからは怒られている最中でも父の言葉を聞くようになれて、私も父が何故怒っているか理解でるようになったんです。それよりも、私にとっては母の方が理不尽に感じたもので」

 それはそうだろう。彼女は母親が弟にだけ構う様を近くで見ていた。彼女の話し方だと、彼女が父親に叱られるとき母親は特別彼女を庇ったりはしなかったのだろう。そのため、父親の叱り方の方が理解出来てしまったのだ。正しいことなど、子供の前ではただの歪みでしかない。怒られた。怖い。悲しいという感覚と、それに付随したなにかが悪かったとあやふやな事実しか残らない。それでも言い続ける必要があるのは、いつの日か彼女のように『気付く』ためにだ。自分で気付いたことは、人間中々忘れられない。良い体験ならば、それは後に己の助けになるときだってある。親とは、いや。大人とは、子供にその日を迎えさせるために悪役にならねばならない生き物なのだ。と、昔どこかのじじいの説法で聞いたことを真智は思い出した。

 でも子供なら、助けて欲しいと思うだろうに。弟だけ助けた母を彼女はきっと許せなかったのだろう。

「だから、私……。本当は学校で父が尊敬されているだなんて、これっぽっちも思わなかったんです。子供のわたしから見ても、とてもじゃないけど時代にそぐわない人だから。けど、父の葬式に詰めかけた卒業生や生徒たちが代わる代わる涙をながしながら父の棺にむかって、ありがとうごいました、ありがとうごさいました。と、泣きながら口々に言う光景を見て、私も泣いてしまって。この人たちのせいで父は私に『父親』をくれなかったのにと、ずっと憎んでいたはずなのに。泣きながら崩れ落ちる人たちを見て、父は人を救って育てていたんだと気付いたんです。勿論、全部が全部許せれられるとか、過去の気持ちが清算出来るわけじゃないかったんですけどね。ただ、私はその時この人の娘で良かったなって。私の父は本当に立派な人だったんだ。こんなにも胸を張って誇れるぐらいと、その時初めて知ったんです」

 そう言って、彼女はうっすらと涙の膜をはった瞳を嬉しそうに曲げていた。

 死して初めて父親が一人の人間だったことを知る。それのいい例だとは実に珍しい。

 真智が改めて顔をあげれば、故人と生徒たちが取った写真が壁や棚に無数に飾ってあった。

「これは、貝津先生がご自身でかざられていたんですか?」

「あ、いえ。半分は父の部屋に飾ってあったものをここに私が移してきて、半分はアルバムから出して私か飾りました。いつでも目に入った方が、父も喜ぶかなって。変ですよね。父はもう亡くなっているのに、亡くなった後の方が私、父を喜ばせようと必死だなんて」

「……そうでもないんじゃないんですかね。お父様を正面から受け止めれたからこそ、では? そうでなければ、相手が何が喜ぶかなんて考えませんよ。死なんて生活の一部です。人としての循環の一過程に過ぎない。たとえお父様が亡くなられても貴女の中にいるお父様は人間そのものでしょ? 死体じゃない。正面から今お父様を受け止め貴女に、想像と実際のお父様の歪みもない。だからね、今、貴女がお父様が何を喜んでくれるか考えるのは普通な事なんじゃないですかね。それは人としてお父様と貴女の生活の一部なんだと思いますよ」

「そう、でしょうか……。そう言っていただけると、私もなんだか救われた気持ちになります。こんなの、ただ父を知ろうとしなかった私の独りよがりな罪滅ぼしだと思っていましたから……。ふふ。それにしてもなんだか三芝さんってお坊さんみたいですね。父にお経をあげていただいてる住職様も三芝さんみたいに……」

 まずい。

 それは多分、蓮華である。

 蓮華と真智の顔は似ていないが、声だけはやや似ていると両親や檀家の老人たちは言っていた。偽名まで使っていると言うのに、真智の正体に気付かれては元の子もない。

 真智は思わず飛び出した言葉を慌てて隠すように、違う話題を繋げる。

「はは、そうですか? 初めて言われました。あっ。そうだ。貝津先生は素晴らしい先生だったんですよね。生徒のために身を投げ打ってでも教育をされていたとか」

「ええ。十年ほど前の話ですけど、様々な原因が重なってしまってどうしても朝来られない男の子がいたそうで、父がその時担任でもないのに三年間毎日迎えに行って朝食を食べさせていたんです。私も何回か朝食のお弁当、と言ってもおにぎりと簡単なおかずを簡単に包んだものなんですけど、用意するのを手伝ったことがありました。父の葬儀の時、その男の子も来てくれて、泣きながらあの時のおにぎりの味は一生忘れられないですと言ってる姿を見たら、私も一緒に当時の思いでが蘇って号泣してしまって……。あ、その方、ちゃんと私にもお礼を言ってくださったんですよ。たまに登場する私の作る卵焼きは甘くて御馳走だと先生と言っていたって教えてくれて。私、その時はただ朝食すら父と一緒に食べれないのかと怒っていたんですけどね。人間って現金ですよね。嬉しすぎて、あの時の悲しい気持ちも寂しい気持ちも全部吹き飛んじゃったんです」

 文字通り、自分を犠牲にして生徒に尽くす昔の熱血教師、と言ったところだろうか。

 ここまで聞いた話をまとめると、どうしても依頼者である箱壷が語っていた先生像と随分食い違っている箇所が気にかかる。

 聞く限り、そして並んだ写真を見る限りでは生徒の私物を取り上げ売りさばくタイプには到底見れえない。

 その時、純粋に金が必要だったのか?

 数年前の出来事とはいえ、故人が写っている写真の服装はどれもセンスのかけらもないほど無頓着極まりない。つけているものもブランドには程遠いし、家の中、故人が生前愛用していたものを置く場所に置かれたものたちも、とてもじゃないが金がかかっているとはおもわなかった。しかし、娘が持っているお盆に真智に出した茶碗を見れば、やや時代を感じるが貧困やら貧乏だというわけでもなさそうである。

 そもそもここに飾ってある写真だけ、もしくはそれ以上に生徒の世話をしていたのなら自分のものに金を使うタイプではないだろう。逆に生徒のために金が要る? ならば朝食送迎をやっていたぐらいの人物なら、まず自分の私財を投げ打つだろうに。しかし、お盆、茶碗や家の中を見渡す限り金目の物を手放したりはしていなさそうだ。

 そもそも、たかが高校生が学校に持ってくる私物をネットオークションで売ったところでスズメの涙じゃないか。

 どう考えても採算も辻褄も合わない。

 貝津の元生徒であった箱壷と、貝津の娘である彼女の中の貝津善旭像の違い。立場の関係上、多少ズレが存在してもおかしくはないのたが、ここまで大きなズレは最早別人じゃないだろうかと疑うほどだ。

 恐らく、このまま聞き続けてもこの誤差は段々と開いて行く一方だろう。

 はてさて、このままでは埒が明かない。ここらで一度、踏み込まねばならないだろう。

「そんな方が自殺をしたなんて、信じられないですね……」

 まるで失言のように、真智は言葉を漏らした。

 彼女が箱壷の存在、または悪行を知っているかどうか。彼女がどこまで知っているか確認する必要がある。

 ここで異論を唱えれば、彼女はが呪いを行った可能性が高く、彼の悪行を知っていることになる。

 だが……。

「私も信じられなかったです。だって父は、決して自分で命を絶つ人ではなかったと当時は私も思っていましたから……。今でも、正直自殺については信じられないと言うか、信じたくないって気持ちがあります。常に全力で、人のためにどんな過酷な場所でも戦える人だったのに……。葬式の時も、多くの生徒たちから父と後日会う約束があったって方がいて。どんな時でも約束を守る人なのに、そんな人が約束を違えて自分で命を立つなんておかしいって」

 彼女は父親の死の自殺がなんの原因が知らないような言葉が並ぶ。

 本当か嘘か。知っていても真智相手に本当の話さないように警戒しているのか、ここまで赤裸々に自分と父親の関係を語っているのだ。本当に知らないのではないか、なのか。

 今すぐには判断が付きかねる。

「……それは、確かにおかしいですね。佐藤先生も貝津先生は人との約束を必ず守る義理堅い方だとお聞きしていました。あの、その。ま、まさかですけど、先生は殺されたと……、か?」

 とりあえず、直球を投げてみる。

 一瞬、彼女は動きを止めた後、笑いだすように口を開いた。

「そうです」

 そう言って、笑ったのだ。

 これは紛れもい肯定であり、それでいて箱壷を憎んでいる証拠である。

 と、言いだのだが。

「あの、ボク、真剣なんですけど……。なんでそんなに笑われるんですか」

 彼女の笑い方が、どうも普通の笑い方で狂気や憎しみが裏返った笑いとは程遠かった。

「ごめんなさい。三芝さんがあまりにも生徒さんたちと同じことを言ってくるものだから」

「不謹慎、だとかは思わないんですか?」

「そうですね。不謹慎とは思いませんよ。何度も言いますけど、私も当時は父が自殺をするなんて考えられなかったですし。最初は、生徒さんたちのあまりの迫力にたじろいで、本当に父は殺されたのではないかと疑心暗鬼になりそうでしたけど、この人たちは突然の父の死を受け止められないだけなんだと思ったらなんだか笑って『そんなことないですよ、父だって人間ですから』って返せるようになったんです。彼らの中では、父は自分を助けてくれた絶対的なヒーローで、弱さもない人だと思っていたいんだと思いたいんだなって、感じました。私も父が生きている間は生徒さんたちと同じ意見でしたけど、離婚した日。この家から母と弟が出て行った日、父が一人夜中に台所で泣いてる姿を見たのを思い出したんです。その時、父の手にはロープが握られていました。私は怖くなって、自分の部屋に逃げて必死に目を閉じました。次の日、朝台所に降りて行けば、父はいつも通り私の朝食を用意してくれていて、いつも通り仕事に行って、いつも通りに日々が過ぎて行って、あれは夢だったのかなと、ロープなんて家にはどれだけ探してもなかったし、私の見間違いだったのかなって。でも、違ったんです。遺品整理で片づけをしていた時、父の部屋からはあの日のロープが見つかりました。あの時、あの夜、父は本当に死のうとしていのです。多分、私が逃げる時に上げた悲鳴か物音に気付いてやめてしまっただけで、心の何処かではずっとあの日の変わりを探していたのかもしれない。だから、きっと、父はロープを捨てられなかったんでしょうね」

 一度自殺未遂があった。

 だが、それは少しこじ付けに似た何かを感じる。写真に載っている貝津善旭は、登山を多くの生徒たちとしていたようだ。その用具にロープのようなものも確認出来る。正直、両親の離婚で情緒が不安定になっていたのは彼女の方ではないだろうか。そこから来る彼女の思い込みの可能性の方が高い。

 けど、そんなことは今は確認しようがない。それよりも問題なのは、それを彼女は自分の父親の死の納得材料へと変えてしまっている。

 これは、まずい。

「貴女は?」

 このままでは、この唯一の容疑者である彼女が、容疑者から外れてしまう。そうなると、また一から調べると言う面倒くさいことをしなければなくなるじゃないかっ! と、真智の頭の中は非常に自分勝手な理由で慌てていたのだった。

「私は、ですか?」

「ええ」

 頷け。

 頷けっ!

 私もですって、頷けっ!

「私は……、そうですね。正直、殺されたとは思いたくないから考えないようにしていた節もあるますが、本当に殺されたとしても父ならきっと生徒の将来を守って死んだと思うので、父が命がけで守った生徒のことを追い詰めようとは今更思えませんね」

 しかし、真智の祈りは虚しく彼女は首を振った。

「すごいですね。ボクは貴女みたいになれないと思います。親が殺されてたら誰でも恨みたいし呪いたくなるものですもの」

 駄目押しで彼女を揺さぶるが……。

「はい。私も父の背中を見て育ち、教師をやっているので。父の気持ちはわからなくもないですから」

 これもダメ。

 彼女は最後に、こちらが逆に駄目押しをされるように誇らしい笑顔に強い心で、真智の自分勝手な疑いを追い払ってしまった。

 彼女が女優でここまでの話が全部嘘だったら話は別だが、恐らく彼女は件の呪いの犯人じゃない。犯人とし知ってる情報もなければ、呪いをかけるには彼女は随分となにごとにも捕らわれずに前向きであった。

 明らかに、彼女は故人の死を受け入れ、それを乗り越え過去にしてしまっている。失った日々に囚われるものなど彼女の中にはもうないのだろう。まだ貝津先生が自殺する原因を作った箱壷の方が囚われ続けているぐらいだ。

「そうですか。あ、そう言えば当時受け持ちされていたクラスの生徒さんたちは参列されましたか?」

「いいえ、あまりにもショックだったのか生徒さんはいらっしゃらずに先生方だけで……あ、でも、一人いましたね。名前は忘れてしまいましたが、制服の男の子が一人。背が高い子でした」

「背が高い男子生徒」

 なるほど、どうやら箱壷が葬儀にきていたらしい。

 クラス委員をやって言っていたし、クラスの代表として無理やり連れて来られたんだろう。なんなとくその光景が目に浮かぶようだ。

「そうなんですか。きっと、その生徒さんはいてもたってもいられなくなったんでしょうね。ボクが生徒でも同じことをしますよ」

 しかし、ここはれ何も知らないふりが定石だ。箱壷のことも下手に名前をだして危ない目に会うことはない。

 もう、他に聞ける話はないかと、真智は部屋を見渡すがこれと言ったものはなかった。

 ただ、男の子の赤ちゃんと女の子が着物を着ている写真が他の写真に隠れる様に飾られているのを彼は見つけてしまう。

 そうだ、家族が容疑者だとするなら、少なくともあと二人容疑者はいるではないか。

 が、離婚の限りを聞くとそもそも自殺した原因を憎むほど、父に気持ちがあるとは思えない。

 一応形だけでも聞いておくか。

「あの、お線香をあげさせてもらって、ありがとうございました。よかったらまた、訪ねて来ても良いですか? また先生のお話をぜひ伺いたくて」

「ええ。喜んで。木曜日と金曜日はいますので、いつでもいらしてくださいな」

「今度は、一人で食べきれるお菓子を持ってきますね。あ、でも、もし貝津先生の奥様たちが尋ねられた時は……」

「大丈夫ですよ。あの人たちはここに来ませんし、父が亡くなったのも知りませんから。父方の祖母は十年前、祖父は三年前に亡くなってもうつながるものもなにもないんです。私自身、離婚以降連絡を取ってませんから」

「そうなんですね。ごめんなさい、言いにくいことを言わせてしまって」

「気になされないでください。周りは離婚のことも知ってる人が多くて、色々な話題が腫物の様に避けられてしまうんです。だから、こうして久々に昔のことや家族のことを話せて私は楽しかったです」

 そう言って、彼女は笑った。元々可能性が低いことがわかっていただけに、元嫁と息子が無関係だと知っても真智には落胆がなかった。

「では、次は一人用のおかしいお菓子を持ってきますね」

「楽しみにしてますね」

 真智は帰り支度を終えると、もう一度仏壇にお辞儀をし部屋を出る。

 他の親族という可能性も捨てきれないが、飾っある写真を限り親戚つき合いがあるとは到底思えなかった。彼女の話を聞くかぎりだと、貝津善旭は仕事三昧だったのかだから無理はないか。

 ここに来ることはもうないだろうな。

 欲しい情報も、犯人もここにないなら必要はない。

 真智が家を出る前に改めで玄関を見ると、幼い姉妹と両親が写っている写真が目に入って来た。

 妹がいるのか? そう思って見ていると、彼女が笑いながら真智が見ていた写真を手に取る。

「これ、私の小さい時の写真で一緒に写っているのが弟なんです。よく女の子に間違えられるんですけど、男の子なんですよ。弟は父には似ずに母にそっくりなんです。この弟と私は二つちがいなんですけど、甘えたですぐ泣いちゃうのにこうと決めたらなにがあっても曲がらないぐらい頑固で。よく父になんでもやり遂げられる大人になると褒められてましたけど、それが嫌だったみたいなんです。よくそう言われた後は、弟は母の膝で泣いていました。私は羨ましかったけどな……」

 どうやら、貝津家には二女はいないらしい。

「あ、すみません。こんなことでお引止めして。久々に父のことを話せて楽しかったから、ついつい他の家族のことも話たくなっちゃって……。ごめんなさい」

 そう言った彼女は、寂しそうな顔を見せる。

 職場には沢山の大人と生徒がいるだろう。けど、彼女は一人では広すぎるこの家の中で自分がいない父の思い出たちに囲まれて一人ぼっちで生きている。

 なんだがその姿が、ひどく哀れに真智には見えた。

「弟さんとお母さまに連絡しないんですか?」

 もう会う必要はない相手とはいえ、随分とプライベートなことを言ってしまったと真智は思うが、それで彼女がもう一度温かい家に帰れるのなら今ここで頬を叩かれてもいいとも思った。

 でも、彼女はそんなことをしずに笑うだけだ。

「ええ。私の家族は父だけですから」

 はにかんだ笑顔の先に、なにがあっても曲がらないぐらいの頑固さを感じた。きっと彼女は生涯家族だった人たちに連絡はしないことをやり遂げるのだろうと安易に想像がつくぐらい。これが誉め言葉かどうかは中々意見が割れることろだろうに。

 この人は他人のせいにしない代わりに、他人に縋れる人でもないのだ。

 そして、どんな理由があれど呪う人には到底見えなかった。

「そうですか……。では、失礼します」

 いっそ自分の頬を叩いて失礼な奴だと罵倒してくれた方がよかったなと、真智は思う。

 彼女の崩れない笑顔をただ人として、これ以上見たくなかったから。

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