第3話

 寺の厨房はとにかく広かった。まだ真智が赤子の時は修行に来ている小坊主たちも多くおり、母の話では一食二十人分以上を作っていたとか。今では考えられない話だ。こんな広い厨房で、家族五人分。昼飯には姪っ子は給食だから四人分。随分と寂しい話だ。

「五本じゃん。これ、縁起いいのか悪いのか……」

 残っていた素麺の束は全部で五本。先ほども話題にあがったように、五は古来から魔術妖術と深い関係を持っている。これを吉と取るか凶と取るかは意見が分かれるところである。だが、凶と取っても吉と取っても、現実が配慮してくれることはない。

 真智はそのことを良く知っていた。

 彼は現実主義者だ。

 目の前に見えることしか信じない。極端な話、人の心というものも信じていない。だって目に見えないのだから。

 子供の頃、霊が見えると言っていた女の子がいた。

 霊がそこに立っている、霊が悪さをしようとする、霊が貴方に憑りつこうとしている。ほら、貴方は霊のせいでコケて怪我をしてしまった。

 そう喚く彼女に真智は首を傾げた。

『自然に転んで怪我をしたのと、見えない霊のせいで怪我をしたのは一体何が違うんだ?』

 彼女が本当に霊が見えていても、嘘で見えていなくても、関係ない。

 目に見えない霊がなにかをしようとして、何故見えない我々の原因が変わるのか。仮に、見えない奴らがなにかをしたとしよう。例えば、花瓶を落とす悪さをしようとしているとする。見えない霊は見えない手で花瓶を落とす。では逆に霊はおらず花瓶が落ちてしまった時。それは場所の悪さ、風の強さ、色々な要因が相まって、目には見えない様々なものが要因になって花瓶が落ちてしまう。この前者と後者は見えない人間にとって何が違うと言うのだろうか。

 結論だけ見れば、花瓶が落ちて割れたとどちらも同じ。

 これが霊が原因だというだけで怯えるのは些かおかしな話である。花瓶が落ちて怖いのならば、様々な原因を恐怖すべきだ。

 子供心にそう思っていた。そんな可愛げのない子供だった。

 ふと、そのことを思い出して真智は大きな鍋に映る自分を見て小さく笑った。

 あの時、親に何故違うのか聞き激怒され丸一日説教を喰らわなければ、こんな拗れた性格にはならなかっただろう。

 鍋に映った無精ひげが汚い自分の頬を撫ぜる。改めで見れば三十三歳にしては少々老け込んだ顔をしていた。この家が嫌で飛び出すように逃げた十数年前。あの日、駅まで三時間かけて歩いた自分の中には一ミリも『帰ってくる』の選択はなかった。常に兄と比べられ、陰口が表通りを闊歩する田舎に夢も希望もなかったからだ。ただあったのは、祭りで取ってきた赤い金魚みたいな息苦しさだけ。喉の上ので詰めた詰襟が纏わりついているみたいに、ただただ只管若さ故に鬱陶しい。学生服を脱げる大人に早くなりたかった。

 でも、詰襟が脱げても息苦しさはなくならない。そこで真智は気付いた。この息苦しさは自分が原因だったことを。

「真智、今日の飯なに?」

 トマトと雑念を切り落とす音と共に、兄の声が厨房に入って来る。

 ふと時計を見れば、いつも兄が朝の檀家回りから帰ってくるころ合いだった。

「……素麺」

 真智は振り返りもせず、また手すら止めず、ぶっきらぼうに麺の名前だけを口にした。

 出来れば、料理を作っている時に兄の顔は極力見たくない。何故なら、彼は三歳年上の兄、蓮華(れんげ)が大の苦手である。

 兄はここらのマダムたちから子供の頃、『あたりの方の息子』と呼ばれていた。今では、『住職』。それ以外に名称がないことを是非とも察して欲しい。

 兄が褒められ続けて上っていったこの寺の長い石階段。立派に住職として成功している兄の横で、弟なのに同じように登れなかった自分を一緒に登っていた兄には見て欲しくなかった。

 真智の料理の腕は悪くない。料理に対する思いに熱いものは欠片もないが、適当にあるものをパズルのように組み合わせて食べ物を作るという作業が嫌いではなかった。転職の中には勿論料理人の時代もあったし、短い間とはいえ皿洗いとして雇われた中、偶然仲良くなった有名なシェフに好意で教えて貰ったこともある。そこら辺の一般人より随分と腕は立つだろう。

 でも、兄と比べられるとそんなもの些事である。

 結局、食事が人より上手く作れても兄と比べればそれがなんだと言われる。それはそうだ。真智だって自分じゃなければ寺で生まれた子供で信頼に厚い地域に密着した住職とちょっと人より料理が上手い家事手伝いのどちらが偉いかと聞かれたら家事手伝いを拳で倒して唾を吐き、住職にゴマを擦るっていたことだろう。

 自分の一挙手一投足が、いや。自分の一分、一秒が兄と比べられて苦しい。

 今、ここではないどこかで。自分は常に兄と比べられているのだ。こんな息苦しいことはない。

「今日も素麺かよ。違うのないの?」

「ない。文句あるからその辺の草でも食ってろ」

 勿論苦手だが、なにも言葉を交わさない程、なんでも言葉を肯定する程苦手なわけじゃない。

 腐っても兄弟だ。家族に変な遠慮なんてする必要はないと真智は常々思っている。だからこそ、ここから逃げ出すのも遠慮なく早かったのだろう。

「冗談だよ。作ってもらっておいて文句はご法度だ。ほら、檀家さんから今日の貢物」

「お、ナスとゴーヤか」

 蓮華から渡されたビニール袋の中には、立派に育った艶々のナスに青々しいゴーヤがぎゅうぎゅうに入っていた。素麺の付け合わせに素揚げで出すのも悪くない面子である。

 出来ることならビールを一緒に頂きたいが、午後は午後で別の雑務が詰まっていた。

 今日無理にすることでもないのだが、あのカモ様がいつでも除霊をすると言い出しても困らないように予定は開けておきたい。

 詐欺ではないが、この仕事は客に正気に戻られた終わりである。

 一瞬でも『霊なんていない』と思ってしまうと、残念ながらシンデレラの魔法は溶けてしまう。だからこそ、相手が一番早く指定した時間を逃してならないのだ。

 今回の件は特に正気に戻る時間は過去で一番シビアなものになる。

 何故なら、依頼者は最初に写真を見つけた気味の悪さのインパクトだけで真智を頼ってきたからである。

 それを最近自分が体験した不思議なことに勝手に結び付けている状態だ。ここに何一つ関係性はないが、連想ゲームの発想で今はギリギリつながっている不安定な状態。この状態でふと正気に戻って助けた友達に話をしてみろ。二度と真智のDМに箱壷君からメッセージは届かないことだろう。

 今回はインパクトがデカいだけの一発屋。一発屋は続かない。周りも自分も正気に戻るのが早いからだ。

 だからこそ早期解決が望まれる。

 それとなく、催促のDМを送ってみようか。

 命の危機が迫っているとか、適当に。顔のない女の生霊が今、あなたの首に巻かれているのが見えます、とか。

 いや、顔がないからこそその顔を埋めるように貴方の顔を今にも剥ぎ取ろうとしている。の方が文面的に鬼気迫る怖さがあるだろうか。

 真智は兄が早々に厨房からで言ったことも気付かず黙々と考えながら黙々と作った料理を居間に運び、配膳をして下手に座る。

 催促に必要なのは、催促と思われない文面とやはり危機感、急いでことを起こさなければ大変なことになると相手に思い込ませることの他にない。しかしそれらとても難しい話だ。危機感を煽り過ぎれば、相手は誰かに相談をしてしまう緊迫性が生まれてしまう。そなれば、元も子もない。

 何度も言うがこの仕事は詐欺ではないが、第三者が挟むと高確率で依頼者は音信普通になっていく。中には全てを殴り捨てて縋ってくれる人間もいるが残念ながらそんなカモネギは一握りだ。

 真智は昼食の席でお茶の急須をただ只管回しながら、生霊の方面で脅すか? 誰にも見えないからこそ好き勝手言ってもいいんじゃないか? と考える。急須を回す姿に兄嫁が嫌悪の顔を向けていてもお構いなしだ。作法なんて知らんし、この方がお茶の葉がくるくる回っておいしそうだろうが。

 話が逸れてしまった。

 さてさて、どうすればいいか。

 どうすれば、危機感が発生するか。

 どうすれば、依頼者に霊が本当にいて呪いが存在していると思わせれるか。

 そう真智が考えていると……。

『ニュースをお伝えします。本日昼過ぎに都内で、路上に人が倒れていると通報があり、駆けつけた警察官がナイフが胸に刺さっている女性を発見。その後病院に運搬されましたが、死亡が確認されたとのことです』

 その時、お昼のニュースがテレビから流れてきた。

 いつもと違うチャンネルだったために、たまたま違和感を覚えて真智は振りむいた。いつもならニュースは愚かテレビすらまともに見ないくせに。

 だが、それが吉なのか凶なのかはわからない。

『被害者の名前は西木野蛍さんで背中から刃物を刺され、目撃者には突然男が西木野さんにぶつかったのを見たと言っている人もおり、無差別殺人ではないかと警察は……』

 聞きなれない、読み覚えがある文字のお陰で、真智の持つ急須が遠心力から解放される。

 東京から新幹線で二時間弱。こんな田舎に都会のニュースのなにが関係あると言うのか。

 普通なら、関係ない。

 けど、たった今日、真智には関係が出来てしまった。あのメッセージに張り付けてあった写真の下に書かれた名前と同じ名前。

 つまり、顔のない女が一人死んだということだ。

 これはまさか。

「……呪い」

 のせいだと言うのだろうか。

 思わずつぶやいた声に反応するかのように、新着メッセージの着信音が鳴るのだった。

 

 

 

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