35.『誰が為の親友』
ただ、暗闇が全身を包み込んでいる。
それが、私の世界の全てだった。
私はココロ・ローゼマリー。ルナニア帝国の下級貴族ローゼマリー家の一員。
私は、太陽というものを見たことがなかった。生まれた時から病弱な身体により生涯ベッドの上で過ごすことを義務付けられていた。
ローゼマリー家は下級貴族。祖先が勲功を立てたことによるおこぼれだ。両親は言ってしまえば何も立派なことなどしていないただの傲慢な人だった。
生活も、帝都の貴族と比べて貧しい。それにも関わらず、何も自分から動こうともしていない癖に、貴族の誇りとか礼儀とかにだけ厳しい両親。
母は毎日のように大量の金品や宝石細工を買い込んで、母の取り巻きたちに自慢していた。その取り巻きたちが、裏で母のことをただの金づるとしか思っていなくても、母は自らのプライドを捨てられなかった。
父は酒と賭博に溺れていた。普段は気弱だった父が酔っ払うと、怒鳴り声を響かせながら従者に殴る蹴るの暴行を繰り返すのだ。そのせいで家を掃除してくれる使用人たち、料理の上手いメイドは家を出て行ってしまった。小汚い家で毎日のように酒を飲んでいた父は、ある日家から出ていってしまった。
母の浪費と父の賭博。下級貴族だった私の家はもう貴族と名乗るのもおこがましいほどに落ちこぼれていた。
私はそんな家に生まれた哀れな赤子だった。
両親が私に期待していたのは、祖先のような勲功を立てて家を再興させること。……そんなのもはや不可能だというのに。
私の身体が病弱で、まともにベッドからも立ち上がれないということが分かると、両親は私を自室に閉じ込めて、徹底的に無視するようになった。
どんなに叫んでも、どんなにお腹が空いて泣いても、構ってくれなかった。使用人がいるうちは、ご飯も満足に食べられた。だが、使用人が出て行ってからはまともなご飯を口に入れられる日は、どんどんと少なくなっていった。
思い出したかのように部屋に投げ入れられる硬いパンと栄養剤。それが私の唯一の生命線だった。
そんな固く、絶望に閉ざされていた私に柔らかな月光が差し込んだのは、あの日。
轟音とともに私の屋敷が半壊し、空から一人の少女が降ってきたのだ。
その少女はふわりと降り立つと、帝都の方向に向かって盛大に吠えた。
「皇帝め……必ずブチ殺して味噌汁に入れる……この私をコケにしてくれたことを、忘れないからなっ!!」
意味が分からなかった。色々と。本当に。
その少女は、呆然と眺める私に気づいて、首を傾げる。
「何あんた。殺されたいの?」
「……私を殺したい、ですか……?」
「私、今めちゃくちゃイライラしているから。誰かに八つ当たりしたくてたまらない」
「……なら、私を殺してください。それで、少しでも人の役に立てるのなら……私が初めて人の役に立てるのなら……トマトジュースがおすすめですよ、あんまり痛くなさそうだし……」
「人がトマトジュースになれるわけないでしょ」
それが私と少女の初めての会話だった。
少女は言った。『皇帝に喧嘩を売ったら逆にボコボコにされてここまで吹き飛ばされた』と。意味が分からない。そもそもなぜ、ルナニア帝国の皇帝に喧嘩を売るような真似ができるのか。
私も身の上話をした。私がどんなに絶望的な家庭環境で、どんなに不公平な目にあったのかをその少女に力説した。
「で?」
「……ぇ、」
「それで?」
そして、気づいた。
私が今どんなに惨めであるのか。それに気付かされた。皇帝に喧嘩を売るような少女に、じめじめと湿っぽい話をして、同情を買おうとしている。強い人に這い寄る惨めな人、それが私であると。
何より、退屈そうにそっぽを向いている少女の顔が、耐えられなかった。
それから私は、何をしたのか良く覚えていない。
確かとりとめのない、城下街のパフェの話とかピクニックに持っていく理想のお弁当の話とか、好きな人のタイプとか……そういったことを話したような気がする。
少女は、皇帝に喧嘩を売るような感性の持ち主でもそういった話には興味を持ってくれた。私の湿っぽい話よりも、ずっと。笑顔を見せてくれるほどに。
いつの間にか、私も笑顔を浮かべていた。
屋敷が半壊したことにより、母は夜逃げ同然に失踪した。取り巻きたちに惨めな姿を見せないようにするためかもしれない。こんな時でも、母の心は変わらなかった。
屋敷を失い、財産も失った私は親戚の一般家庭に預けられた。だが、親戚一同、没落した貴族である私に向ける目は冷たかった。部屋にこもって、周囲の陰口から耳を塞ぐ日々。
そんな私の支えになってくれたのは、あの少女だった。
あの日以来、私は少女に連れられて街を回っていた。身体が弱い私を気遣ってか、肩を貸しての二人三脚のような不格好で遅い歩みだったけど、私と少女は一緒に笑って、城下街のパフェを食べに行ったり、公園で一緒にお弁当を食べたりもした。……魔物とのバトルロイヤルも、裏山でのサバイバルもさせられたけど。
幸せだった。太陽を見たことがない私にとって、この日々は眩しすぎた。……少女の破天荒な行動によって死にかけたことも(実際死んだ)たくさんあったけれど。
そんな幸せな日々は長く続かなかった。
私が倒れたのだ。
回復魔法の使い手である聖女に見てもらうと、どうやら私は神殿にある魂の欠片が不完全であるらしい。赤子のころに一度死んだことによって魂の欠片が不完全なままの状態で固定されて、今まではなんとか保っていたが、ついに砕けたというのだ。
私の身体が病弱なのは魂の欠片が不完全であるためだという。魂の欠片が砕けたということは、もう神殿で復活できないということ。
そして、欠けた魂は片割れが見つかるまで砕けていく──もう、私の命は長くないという宣告だった。
『……そう』
少女の呟きが聞こえた。いつの間にか少女の顔が上にあった。……私は、半日も倒れたまま意識がなかったという。
魂の欠けは、すでに深刻だった。
記憶が欠けていく。人の名前が覚えられない。時より息をするのも忘れそうになってしまう。
少女は、そんな私を見つめていた。
ある日、ルナニア帝国王城へ私は呼ばれた。遂に貴族の位を剥奪されるのか、と思った。
荘厳な玉座に金髪の女の子が腰掛けている。そして、その胸ぐらを掴んでいるのはあの少女。
周囲の従者たちは、みな血を撒き散らして虐殺されていた。
『何の用かしら、愚かな逆賊』
『私に殺されたくなかったら、一つの命を救って。ココロ・ローゼマリーをなんとかして』
なんということだ。少女は私の状態を知っていて、それを治すために皇帝に直談判しようというのか。
確かに皇帝は二百年も生きているすごい人だ。私の魂をなんとかする方法も、魔法も知っているかもしれない。
でも、こんなこと──
皇帝の傍には、テオラルド・ブラックデッドが首を無くして倒れていた。手前側にはソフィーヤ・アークラスが腹を突き破られている。
三大将軍を二人も相手にした少女は、すでに満身創痍だった。
血まみれだ。擦り傷、切り傷、裂傷、打撲──傷ついていないところはもはや存在しない。腕も片方は半分に斬られて、ぶら下がり、筋だけでくっついているように見える。
対して、皇帝は無傷だ。この状態で、三大将軍全てをまとめて相手取れるという皇帝に挑むのは無謀極まりない。
少女の血まみれの脅迫を受けて、皇帝は一つ問うた。
『余は、国益が大好きよ。その子を助けたら、あなたは帝国に何を捧げるのかしら?』
『全て。私の全てをあげるから』
信じられなかった。どうして私にそこまでしてくれるのか、と叫んだ。
すると、少女は振り返り、笑って。
『……言わせないでよ、恥ずかしいな……ココロが私の初めてできた友達だから、かな』
皇帝も笑った。そして、一つの条件を出して、それを賭けとした。少女と皇帝の間に一つの賭けが結ばれた。
少女はそれに頷いて。
そして、私と少女は繋がった。
魂の欠片を互いの魂で代用するというそれは、少女が生きている限り、私は神殿復活できるというもの。そして、その逆もしかり。私が生きている限り、少女の命も保証される。
互いを魂脈で結ぶ。遥かな昔の、婚姻の儀。
その術の対価として、少女の記憶は皇帝の賭けの内容にそって書き換えられた。力を封じられ、性格さえも反転された。
少女は今までの記憶を全て代償にして、私に命をくれたのだ。
術が終わった後、少女の髪色は漆黒から雪色に変わっていた。燃えるような紅色の瞳は深海のような群青色に変わっていた。先祖返りを起こして生えていた竜角が引っ込んだ。
少女は『最高傑作』から『失敗作』になった。
その少女の名は、リリアス・ブラックデッド。
私の英雄にして、私の魂のパートナー。
──私の親友だ。
◇
思い出した。思い出した。思い出した。
ココロの魔力がわたしの全ての傷を癒やしていく。出血、骨折といった目に見える傷から、恐怖や憎悪といった精神の傷まで。
そして、心の奥深くにかけられた『封印魔法』がココロの魔法によってほころんだ。それを──
なぜ忘れていたんだ。……そうだ、わたしは。
ブラックデッド家の『最高傑作』と称された殺戮者。歴代最高の魔力を持って生まれた、わたしは──
わたし──私は、リリアス・ブラックデッド。
──封印を、強引に踏み越えた。
アルファの闇に包まれた身体から、輝かしい一本の魂脈の糸が放たれる。それは迷うことなくココロ・ローゼマリーの身体に繋がり、そして。
「よくも、私の親友を殺すなんて妄言を口から吐けたね。……あなたたち……絶対、楽に死なせてあげないから」
包み込み、消化しようと蠢いていたアルファの黒い身体が粉々に吹き飛んだ。
現れるのは、黒髪。
血のように真っ赤な瞳が開く。
──竜の瞳が。
「さあ、答え合わせといこう」
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