34.『──せめて聖女足らんと』

 三姉妹の中でも特に足が遅かったわたし。

 だけど、常人よりはずっと速い。そのままイザベラに殴りかかろうと──


「我を忘れてもらっては困る」


 激痛がわたしの足を鈍らせて、頭から転んでしまう。見ると肩口から黒い触手が生えていた。アルファが触手を伸ばしてわたしを貫いたのだ。

 倒れ伏せたわたしの頭をイザベラはぐりぐりと踏みつける。


「准三大将軍になったと聞きましたよ。ええ、あなたのような後先も考えずに行動する人が、三大将軍……本当に、滑稽ですね」


 わたしの白い髪の毛が、土と泥で汚れていく。


「アンネもそろそろボケが始まった頃でしょうか。こんな考えなしを、ブラックデッドだからというだけで三大将軍の地位につけるなんて……こんなにもっ、弱いのにッ!」


「う、ぁアア……!」


 ぐりぐりと石畳に頭を擦り付けられる。まるでイザベラに平伏しているような格好だった。傷ができるが【持続回復】はできた傷を片っ端から治していく。……それが生み出したのは、治って、傷ついて、治って、傷ついての繰り返し。


 怖い。痛い怖い痛い怖い怖い──っっッ!


「どうですか、その地位は? どうですか? 家名のお陰で皇帝に気に入られた気分は? どうですか? 大した努力も無しに聖女になれた気分は?」


 痛みが思考を焼く。何も考えられない。ただ、恐怖だけが積み重なっていく。


「なんであなたのような人が存在できるのか、理解に苦しみますよ。分かりますか? あなたの席に座るために今までどれだけの人が自分の命をかけて努力をしてきたのか、どれほどの苦しみを味わってきたのか」


「そんなの、分からない……」


「ええ、そうでしょうとも。それは当事者しか分からないことですよ。その点の理解が及んでいることは褒めてあげます」


 ガンッ、と今度は腹を踏まれた。まるで太い杭を打ち付けられたような──


「────は、ッ──」


 息が止まり、肺の中身が一気に絞り出される。パニックを起こした身体は空気を取り込むという機能を忘れて、わたしは息ができずにのたうち回る。


「三十二回。この数字、あなたには何の数字か分かりますか? 私が聖女になるまでに死んだ回数ですよ。あなたが聖女になるのと、私が聖女になるの──どうしてこんなにも苦しみの差があるんでしょうねぇ」


「そんなの、仕方ないだろ……わたしには、どうしようもないんだから……!」


「まだそんなことを言っているんですか?」


 口が頭を踏まれることで塞がれる。顎を打った影響で、意識が朦朧とする。舌を噛んで千切れた肉から血がどくどくと溢れ出す。


 痛い、赤い……世界が、赤い。

 血の混じった息を吐き出すわたしに、イザベラは大聖女とは思えないような嗜虐の炎が宿った瞳で、嘲笑した。


「人間には脳みそがあるんですよ。あなたも人間を名乗るのならば考えてみてください。わたしは、考えて考え抜いて決めたんです。こんな世界狂っている。だから壊そうって」


「……神殿を……あぐっ! バッ、かはっ……!!」


 何回も、何回も、頭を踏みつけられ石畳に顔を叩きつけられる。……視界が赤黒く染まっている。


「ええ。神殿復活があるから、三十二回も死ぬ女の子がいるんです。他国に戦禍を撒き散らす帝国が存在するんです。ブラックデッドなる殺戮者しか生まない社会不適合者の一族が存在するんです。そんなのおかしいですよね? 間違っていますよね? だから、壊すんですよ。神殿を、帝国を──」


 何度も踏みつけられたことで、わたしの髪の毛は泥まみれになってしまった。千切れて傷んだ髪の毛は、泥を吸って鈍く薄汚い色に染まる。


「あなたは、大聖女になって何がしたいんですか? 数十年努力して手に入れた座を、子供の遊び感覚で奪われる気持ちがわかりますか?」


「……ちがう……わたしは、大聖女になって……世界を、平和に……もう誰も殺されることのないような……そんな世界に……!」


「ハッ! ブラックデッドがそれを言いますか! 寝起きにイライラしていたから人を殺していたあなたのようなブラックデッドが、それを言うんですか! 今まで殺してきた人数も覚えてないようなクソガキに──」


「六十六人、だよ」


「……は?」


「数えてみたんだ……わたしが、殺した人……その人たちには、ちゃんとあやまるから……」


「この、偽善者がッ! 十分過ぎるぐらい多いじゃないですか!!」


 イザベラがわたしを蹴飛ばす。


 いっそ、こんな苦しみを味わうのならば気を失ってしまったほうが良かったのかもしれない。【持続回復】の効能で傷はできた側から治っていく。


「世界平和? 何を寝言言ってるんですか。そんなの不可能ですよ! かつて十六あった国々も、滅ぼし合って、今ではたったの半分です! 亜人も魔族も、みんなが互いに敵視し合っています! そんな寝言を吐くぐらいなら、算数の勉強でもしたらどうですか?」


「うるさい……! そんなの、みんな仲良くすればいいだけじゃないか! 大きいプリンは用意したのかよ……!」


「それが不可能だから言っているんですよ! 歴史が証明しています!」


「ならその歴史が嘘をついているかもしれないでしょ……! それに、大きいプリンのレシピは昔母さんに──」


「ふざけてる!」


「ぐ、う……っ!?」


 イザベラが魔法で生み出した風の刃が、わたしの肌を切り裂いていく。


 わたしの服が裂け、下着すらもはだけて切り傷があちこちに刻まれる。瞬時に【持続回復】が治すが精神の傷は治らない。

 あんなに真面目で厳格だったイザベラが、わたしの頭を踏みつけて罵倒をしてくるというこの状況に耐えられるほど、わたしの心は強くない。


 ぽろぽろと涙があふれてくる。


「おや、泣いてるんですか? 良くもまあこんな状況で透き通った涙を流せますね。私がスラム街で生活していた時には、血の涙を流したものですよ。大した苦労もしたことのない箱入りお嬢様の涙は、それはもう透き通った涙でしょうね。……反吐が出ますよッ!!」


 髪を引っ張られて、無理やり立ち上がらされた。

 歪んだ視界の中で、イザベラが天に向かって哄笑している。

 髪を離されたと同時に、拳が飛んできた。鈍痛が頬に広がり、再び地面に倒れ伏す。鼻の骨がひび割れた、生暖かい液体が鼻から流れ落ちる感触がそれを伝える。


 知らぬ間に、吠えていた。


「それはもういい……そんなに嫌いなら、わたしのことは好きにすればいい……でも、ココロは関係ないだろ……ッ! ココロは、わたしとは違う……魔法もできて、いい子で、優しくて……そんな子なんだ!! おまえたちが傷つけちゃいけないんだ!!」


「ちっ……浅ましく、ブラックデッドが友情ごっこですか。本心では便利な道具としか思っていない癖に」


 イザベラは口を歪めた。


「……それで、どうなんですか? ココロ・ローゼマリーが与えてくれたものに対して、あなたはそれに見合うものを返せていますか? まさか、今助けに来たからそれでチャラ、なんておもっていませんよね?」


「っ」


 今までどのような罵倒、嘲笑、侮辱を受けてきても、心の何処かで受け流してきた。痛みも、恐怖も、結び付けられた理由が自分とは関係ないから。そんな風に流してきた。

 だからここまで耐えられた。


 だけど。

 イザベラの言葉は。

 さっきの言葉は、これまでのどんな暴力よりも的確にわたしの心を突いていた。


 ──瞬間、蓄積された痛みに意味が生まれる。


 受け流せない、当事者という烙印が刻まれる。

 決して元には戻せない。なぜなら、わたしがそれを心の何処かで認めてしまったから。


「あなたは自分からココロ・ローゼマリーを助けようとしたことが一度でもありますか?」


 やめろ、やめろ……!


 不格好に立ち上がって、素手のまま掴みかかる──当然、そんなものがイザベラに通じるはずもない。


 痛烈な打撃が、胸を打ち据えた。


 「カッ──」


 内臓が浮かび上がるような不快感。

 胃の内容物が逆流して、思いっきり吐瀉物を撒き散らす。胸を押さえて咳き込むわたしに、はるか高みからの言葉が浴びせられる。

 耳を、塞ぐことすら、出来やしない。


「自分では力が足りないから……とか、どうでもいい言い訳を自分自身に繰り返して、ガタガタ震えていただけじゃないですか? そうでしょう、そうでしょう! あなたの目を見れば簡単に分かりますよ!」


 もう生半可な理性すら、投げ捨てた。

 この老婆の口を塞がないといけない。そうしなければ、自分は、わたしは──自分自身に押し潰される。

 立ち上がる。ぬらりとした液体が視界を真っ赤に染める。痛みに砕けた奥歯の欠片を、血の混じった唾液と一緒に吐き捨てる。


「ぅ、うぅ! うぁああァァアアア!!!!」

 

 腕を振り回しながらの無様な特攻。

 姉であるドーラの言葉が、なぜか急に思い浮かんだ。


 ──もっと強くなくちゃ、守れない。


 わたしは、弱いんだ。 


「──」


 下腹を蹴り上げられ、浮かんだ身体──回し蹴りで首を蹴り飛ばされた。


 真っ白な火花が散った。

 ……身体を動かせない。不自然に傾いた視界が、わたしの痙攣する身体を他人行儀に映している。

 じんわりと生暖かい液体が下半身に広がっていく。血と泥塗れのワンピースを透明色の液体が侵食していく。


 わたしは、失禁していた。 


「アンネリースに言われたから仕方なく自分で来た……私たちを見つけた時にだって、義憤を持って取り返しに来たと思ったらコソコソ隠れているだけ……友情? 聞いて呆れますよ!」


「……あ、あぁ……」


 身体が動かせない。身体中の神経が燃えるように発熱している。

 ──怒り。自分に対する、どうしようもないほどの怒り。

 真っ赤に滾ったそれが、神経を繋ぐ。強制的に発火させる。


「なら、立ち上がってみなさいな! 地に這うトカゲのような生き様しかできないから、あなたは今こうしているんです! 私に言い返してみなさい! それができないからあなたは失敗作なんです!」


「……わたしは、ココロを……助ける……」


 立ち上がろうと、膝に力を入れる。ふらふらと立ち上がったところで、笑う膝に蹴りを入れられた。


「っ、!!!!」


 倒れ込む間際、イザベラも巻き込んでやろうと手が伸びる。それが怒りに燃えたわたしの抵抗だった。


「脆いですね」


 その手ががしりと掴まれる。万力の如く締め上げる手に、わたしの腕の血管が鬱血し、プチプチと嫌な音をたてる。


「あまりにも」


 ゴシャリ、と。あっけなく手首が粉砕される。

 痛みが爆発した。


「ああ、あああああああああああ!!!!」


 再び地に伏せるわたしに、頭上から嘲笑が突き刺さる。


「どうしたんですか? アンネのお気に入りがこんなものなんですか? ブラックデッドがこんな恥を晒していいんですか? 聖女になったものが、三大将軍になったものが、こんな無様な姿を晒していていいんですか?」


「……ひぐっ、うぅ……」


 胸ぐらを掴まれ、揺すられた。 

 膝が痛い。骨が折れた。だけど、【持続回復】はそんな甘えを許さない。

 微弱な治癒の魔力が、血を止める。痛みを抑える。

 事前にかけた自分を呪ってやりたい。意志の力が折れない限り、何度でも立ち上がれると考えていた自分を殴りたい。


 もはや、イザベラに言い返す気力も湧かない。立ち上がることすら痛みが全身に伝わっていて、筋肉が震えて動かない。

 ただ、ぽろぽろと涙を流すことしかわたしにはできない。無力な子供──それがわたし。


 聖女の自分なんて、もう砕けた。

 三大将軍なんて、元からなりたくなかった。


 腐った性根が染み付いたわたしは、もう勝てないだろう。勝てる未来が見えないんだから。わたしなんて、自堕落にただ部屋に引きこもっていれば、それで良かったんだ……。


「……詰まらない幕引きでしたね。本当に、詰まらない。アンネに選ばれた人間が、こんな弱虫で人間のクズだったとは。失望しましたよ、リリアス・ブラックデッド。そして、アンネリース」


 鼻を鳴らして、イザベラは手のひらをわたしに向ける。

【衝撃波】の魔法がわたしを吹き飛ばし、アルファのところまでわたしを転がした。その瞬間にも弱った肋骨が数本折れたのを感じたが、もはやどうでもいいことだった。

 もう痛いという感覚すら壊れた。痛覚が無いわたしは、ただの人形同然だ。


「あげますよ。消化するのも、凌辱するのも、好きになさい。私は儀式を再開します」


「同族にこのような仕打ちをするとは……人間というものがますます分からなくなってしまった」


「顔は悪くないのですし、あなたの新しい身体にしては? すぐに泣くその瞳と、戯言しか吐かないその口をあなたが抉り取ってはどうでしょうか?」


 ぷらぷらと手足を揺らしながら転がってきたわたしに、アルファはため息を吐く。


「ココロ・ローゼマリーのほうが好みなのだが」


「この魔法陣が消費するのは人間の魂ですし、首を飛ばした後であなたに差し上げますとも。ココロ・ローゼマリーは最後に死ぬんですから」


 ココロが、死ぬ?

 イザベラの手にかかって、死ぬ?


 ……死ぬととても痛いんだ。今のわたしとは比べ物にならないぐらい痛くて、苦しいんだ。


 それを、ココロが受ける?

 良い子のココロが、死ぬ?


 


 ガリッ、と石畳に爪を突き立てた。綺麗に整えられた爪が割れて、血が流れる。


「……ココロはわたしが守る……ココロを、わたしが助けるんだ……」


「ほう?」


「ココロに、手を出すな……! ココロを傷つけたら、わたしが許さないぞ……っ!!」


 そんなの許せない。わたしがココロを守るんだって、約束したじゃないか。ココロを助けるんだと約束したじゃないか。

 ふらふらと立ち上がる。何度でも、何度でも。


 立ち上がってみせる。


「──テメェ、誰に向かってものを言ってんだ?」


 冷たい声が聞こえると同時に、顔面に先端の尖った革靴での蹴りが叩き込まれた。

 凄まじい痛みと鼻骨が砕かれる感触に、わたしは声も出せずに吹き飛ばされる。


 イザベラの荒々しい靴音が近づく。


「アアン゙? テメェは何だよ? 何の権利があって私の前に立ち塞がる? おかしいだろうがよ、なぁ、オイッ!!」


 指に力を入れて立とうとするも、その指は全部踏み潰された。骨と筋肉がぐちゃぐちゃになる痛みに、わたしは絶叫する。


「テメェは、ゴミなんだよ! 親の七光りで、アンネリースに聖女にしてもらっただけの、何の能力も力もないゴミだろ? ゴミはゴミらしく隅っこに固まったまま大人しくしてればいいものを──それが、私の前に立ち塞がるだと!? ゴミの、癖にッ!!」


 脇腹に何度も何度も蹴りが入れられる。その度に身を切るような痛みが全身に駆け回って、みっともなく筋肉を跳ねさせることしか出来ない。


 だが。


 わたしは、爪を砕きながら、石畳にしがみつく。ゆっくりと顔を上げる。

 烈火のごとく、イザベラを睨みつけた。


「……なんだよ、その目は。テメェ、自分の立場分かって──」


「おまえを、ころしてやる」

 

 イザベラは一瞬だけ怯んだように、後ろに一歩下がった。やがて、そんな自分に気づいたのか憤怒の形相へと変わる。

 

「テメェ……ッ!!」


 荒々しく魔力を猛らせるイザベラの肩を、アルファが掴んだ。


「……イザベラ。もうその辺にしておけ」


「黙れアルファ。私は、こいつに……馬鹿にされたんだ。なんの力も持たずに、のこのこ私の前に立ち塞がってきやがって……ふざけてる! こいつを徹底的に叩き潰して、凌辱して、心を折らなきゃ、私の生きてる意味がねぇッ!!」


「イザベラッ! ……落ち着け」


「…………チッ!」


 イザベラは背を向けて手を振った。

 その隙を見逃さず、ゆっくりと……弱々しく立ち上がる。


 骨が砕けたからってなんだ。

 腱が切れたからってなんだ。

 内臓が悲鳴をあげているからって、なんなんだ。


 今ここで、このとき、この場所で。

 自分の二本足で立たなければ、許せない。


 ──自分が許せない。

 ──自分を、許せない。


「……ゆる、さない……おまえたちを、ぜったいに……ゆるすものか……」


「まだ立つのか。その意志の根源はどこにある?」


 アルファはそんなわたしを一斉に触手で貫いた。

 激痛。触手に貫かれたところが灼熱し、痙攣を起こした筋肉がわたしを跪かせる。


「……っああああああああッッツ!」


 が、まだだ。アルファの脚を倒れる拍子に腕を伸ばして掴む。爪を食い込ませて腕の力だけでアルファに取り付く。

 そして、わたしは。


「そこまでするのか」


 黒一色の身体に思いっきり噛みついた。


「ふぅううう、ふううっっつつつ!!!!」


 口の中が切れる。歯が痛い。触手に貫かれたところが焼けるように痛い。


 離すもんか、絶対にはなすもんか!

 ココロはわたしが守るんだ、守らなくちゃいけないんだっ!

 おまえらみたいな、そんな悪い人に傷つけられちゃいけないんだっ!


 体から血が止まらない。世界が冷えて、視界が薄暗くなってくる。回復魔法の効果はとっくに切れているらしい。これ以上は死ぬ──だから、どうしたっ!!

 聖女なんだろ、聖女になると誓っただろ! 友だちの命一つ守れずに、聖女を名乗るつもりかっ!

 こんな連中に、ココロを殺されるくらいならわたしは──!


「りあ、ちゃん……?」


 そのとき、鎖で縛られて気絶していたはずのココロと目があった。ぼろぼろの泥まみれで、イザベラに嬲られているわたしを信じられないような目で見つめてくる。


「なにしてるの……やめて、やめて……!」


 よかった。

 ちゃんと生きてたんだな。


 イザベラが荒々しい足取りで近づいてくる。


 恐怖で身体は震えている。殴られて、骨が折れたところは痙攣してまともに動かせない。顔はぼこぼこに腫れて、髪は薄汚れている。眼球の一つは内出血して、世界が半分真っ赤に染まっている。


 ごめんな、ココロ。

 きみを、助けられなくて、ごめん。


 頭皮に鋭い痛みが走る。無理やり頭を上げさせられた。イザベラが魔法陣を彫っていたナイフを、わたしの顔に突きつけている。


「無駄な足掻きですね。……そう、良いことを思いつきました。あの忌まわしいブラックデッド──どうすればその名誉を汚すことができるのか」


「なに、を……」


「【代行者たる我が名はイザベラ 繰糸よ 彼の者を自在に動かしめよ】──ほら、これをどうぞ」


 勝手にわたしの身体が起き上がる。力を込めようとしても、身体がだるくて力を込められない。でも、勝手に動く。

 わたしの手は、イザベラに差し出されたナイフを握った。


「ココロ・ローゼマリーを殺しなさい」


「……っ、そんな、こと……!」


 信じられないようなことをイザベラは口にした。そして、わたしの身体はまるで操られているかのようにイザベラの命令を実行しようとココロに向かって歩き始める。


「や、めろ……、やめろ、やめろッ──!」


「アッハハハハッ! 滑稽ですね! あなたにかけたのは上等魔法【繰糸】。かけた対象を自在に操ることができるのですが、しかし、この魔法には欠点もございまして」


 イザベラは、悪魔のような顔で嗤った。


「一度命令すると止まらないのですよ」


「やめろやめろ、やめて!!」


 わたしの足が一歩ずつ、ココロの倒れている場所まで向かう。抵抗しようにも痛みと脱力感が凄まじい勢いで襲ってきて、抵抗する意志を捻り潰す。


「──さあ、あなたが友と嘯いた彼女を、あなたの手で殺してあげなさい。目を閉じることは禁じます。しっかりと、まぶたの裏に刻みつけて、温かい血潮も、肉に潜り込む刃の感触も、愉しんでくださいねッ!」


「……リアちゃん?」


 首を傾げて、それでも微笑んでくれるココロ。

 その鎖で縛られている身体に馬乗りになって、わたしの手がナイフを胸に──


「やめろぉおおおおおおおおおおっ!!!!」


「大丈夫だよ、リアちゃん」


 ココロは自身を簀巻きにしている鎖を気にせず腕を伸ばし、振り下ろされたナイフごと、わたしを抱きしめる。

 関節が鎖に圧迫され、痛々しいほどに内出血を起こしているが、ココロの表情は凪のように穏やかだ。


「…………ぁ」


 ナイフは、わたしの願いも通じずにココロの胸元に深々と突き刺さっていた。


 ──心臓の場所に、正確だった。


「────ッッッ!!!!」


 鋭い刃先は、ココロの滑らかな皮膚を切り裂いて、肉に潜り込んで──血が溢れ出す。止まらない。震える指先。ナイフにも震えが伝わり、その度に血が溢れ出していく。


 わたしが、刺した?

 わたしが、ココロを殺した?


 目の前が暗い。イザベラに受けた暴力の痛みが冷たくなって、凍っていく。


 うそだ、そんなの、ココロ、ココロ、ココロ……ッ!


「ごめん、ごめんなさい……わたしは、そんな」


「あなたは、私に大きなものをくれた。それを忘れてしまっても、私の心が、魂が覚えているの。だから大丈夫。──リアちゃんは、私に人生をくれたんだ」


 喋る合間にも、ココロの身体からは血が流れていく。


「あなたにもらった人生。私は、あなたに報いるために今まで必死に、誰よりも頑張った。今度は、私があなたを助ける番だから」


 何を言っている? だって、わたしはココロとは初対面のはずで……貰ってばっかりで、そんなわたしがココロにあげたことなんて。


【代行者たる我が名はローゼマリー】


 詠唱が始まる。

 ココロの詠唱は穏やかだ。だが、その放出される魔力は圧倒的だった。


【太樹の蕾 流水の音 治癒の意志よ】

【彼の者は今も呼吸をしている】


「……まさか、精霊詠唱……?」


 イザベラは信じられないような目で血を流しながら囁く少女を見つめる。やがて、はっと気づいたようにアルファに向かって手を振り上げた。


「彼女の詠唱を止めなさいッ!」


【ソフィラナの玉座 門を叩きて 大地を染める】

【アイセアの瞳 開きて 軛を解かす鍵となる】


 瞬時に何十もの触手がアルファの影から伸びて、ココロに殺到する。


「ココロの、じゃまをするなぁあああああああああああああああああああああ!!!!」


「なっ、まだ動けるのか……!?」


 触手とココロの間に、身体をねじ込む。


 鈍く、水っぽい音が鳴った。──わたしの内臓がぶち撒けられる音だった。


 痛みが爆発し、意識が刈り取られる。

 倒れ伏す間際、確かにココロの声が聞こえた。


【彼の者を慈しむよう 星に祈ろう】


 ──限界魔法【暁を照らす意志】


 そっと。


 体重がかけられて、わたしの唇に驚くほど柔らかなものが重ねられた。

 家族以外からの初めて。


「……あ、」


 永遠の一瞬。

 銀色が、つぅと糸を引く。

 血に濡れたココロの顔は、どこまでも美しかった。


「──がんばれ、リアちゃん」


 辺り一帯が真っ白に染まった。































 まるで大波のように神殿全域を光り輝く白色の魔力で覆い、その全てがわたしに向かって流星のごとく降り注ぐ。

 【繰糸】による脱力感が消えた。骨が再生し、傷跡が再生して血が活発に流れ出す。ココロの魔力の全てがわたしの治癒に使われて──


 ──白色の魔力が収まった後は、ココロは静かに気を失った。

 わたしの身体は、傷一つ無くなっている。


「……ココロ」


「ローゼマリー家はここまで聖女の力を…………ですが──所詮、回復魔法の最上です。全快に状態異常解除。この場面ならば私たちに向けて攻撃魔法を撃ち込んだほうがいいでしょうに」


「まったくだ。死にゆく者に回復魔法をかけても無駄骨に過ぎない。では、一足先に頂くとしよう」


 アルファの身体から伸びた真っ黒な帳がわたしを包み込もうとする。


 あれに包み込まれてしまえば、岩すら消し去る力によってわたしの身体はバラバラに弾け飛んで、消化されてしまうだろう。

 それをわたしは、ただ見上げて──


「──やっと、思い出せたよ」


「さらばだ」


 真っ黒な闇が、わたしの全身を濁流のように包み込んだ。

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