第5話

 私ね、何もなければ幸せだと思っていたの。

 でも、荷物はいっぱいあって、置いていくことは許されなかった。

 けれどそれはただの幻想だったのかもしれない、私は今何一つ手の中に持ってなどいない。そこには、少しの解放感と、そしてただ漠然とした不安だけが、無機質に転がっている。

 

 七子が急いで支度をしている。

 私が巻き込んだのだ、あの男の家から盗んできた金塊、あの男、資産を近海にしておくのが好きで、そういう悪趣味な所が嫌いだった。

 普段は笑っていて優しいのに、心の奥底に潜んでいる厳しさ、そこだけが広がっている。悲しさのようにも感じられた。

 そうだ、私は悲しい人間が好きだったのだ、若い男の子にはそれが無かった、まだ、全然悲しくなど無かった。私の目には少なくとも、そう映っていた。

 「ごめん、七子。巻き込んじゃったね。」

 「何よ、今更。思い出して、これ計画したの、私でしょ?あんたは、だから悪くないんだから。」

 「………。」

 私は黙って、娘の手を握る。

 娘の手は魔法だった。

 夫とか、友達とか、誰かとか、そんなのよりもずっと、特別だったのだ。

 何が特別なのかは説明できなくて、ただ、握っているだけで私は、生きているという実感が、できることを知った。

 「じゃあ行こう。」

 七子は、金塊を持って、その場を後にする。

 私と娘は、ゆっくりと夫の帰りを待つ。

 今日話すべきなのだ、はっきりと、別れるのだ、と。

 それで、全ては終わる。

 あの男はきっと、金塊が無くなっていることに気付かないだろう、最低でも、しばらくは。

 なぜなら、あの男はとても忙しいから、夫を、すでにあの男と呼んでいる時点で私たちの関係は終わっている。

 もう、終わったのだ。

 私は、自分に言い聞かせ、時が経つのをじっと待った。


 「みのり、朝ごはんだよ。」

 「…分かった。」

 眠い、けど起きる。

 とたとたと下へ降りた。

 父は支度をしながら、テレビを見ている。

 「お父さん、今日仕事早いんじゃなかったの?」

 「いや、ゆっくりでもいいって。」

 「そう、じゃあ一緒に食べよう。」

 「ああ。」

 私はそう言って、顔を洗いに行った。

 鏡を見ると、あの女の顔にそっくりな自分がいることに、嫌気を覚える。

 母は、非常な人間だった。

 私は、実は10歳以前の記憶があいまいだ。

 10歳、ちょうどあの女が犯罪を犯して、父を裏切った時。

 私は、今でも震えてしまう。

 「お父さん、今日一緒に寝ていい?」

 もう高校三年生だというのに、やめられない。

 私はきっと病気なのだろう。

 しかし、父はすべてを受け入れていた。私の不安定さも、それが何から来るのかも。

 全部、そう、全部。

 母は今、刑務所にいる、そしてもう誰も会いに行ってはいない。

 「お父さん、私頑張るから。一人で眠れるようになって見せるから。」

 「………。」

 父は無言で頷く。

 私の体には無数の傷がある、これはあの女と一緒にいる時についたものなのだという。

 けれど、私には記憶がなかった。

 私の体には得体のしれないものばかりが詰まっていて、苦しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハナズオウ @rabbit090

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る