第3話 結婚の心得

 エレノアが公爵家に戻ると、母が待ち構えていた。

 ホールに入るやいなや、侍女に問答無用で母の部屋へと連行された。

 ソファに座した母は、エレノアが来ても素知らぬ顔でお茶を味わっている。


「母上」

 エレノアは膝を曲げてドレスをつまみ、母に礼をした。

「相変わらず堅苦しい呼び方ね」

「……お母様」

「エリー」

 ぴしゃりと強い口調で母は言った。


「ドレスで脚を肩幅に開いて立つのをやめなさい」

 無意識に普段と同じように立っていたようだ。

「先の細いヒールに慣れないもので」

「言い訳はいいから座りなさい」

 母の向かいを進められ、エレノアは大人しくソファに腰掛けた。すぐに侍女がエレノアの前に茶器を用意する。

 母はエレノアのドレス姿を改めて見て、何故か呆れたように言った。


「ようやく騎士の堅苦しい格好をやめたのね」

「皇帝陛下より、エレノアとしての呼び出しがありましたので。戦場より戻り身支度を調えて急ぎ謁見に向かいました。母上にご挨拶もせずに申し訳ありません」

 母はまさかドレスを着させるためだけにこんな話をもってきたのではないだろうか。


「私にはドレスの方が息苦しいのですが」

「せっかく似合うのだからそのままでいなさい」

「皇女殿下の代わりを務めることになりましたので、当分この姿でいることになるようです」

 自分で言っていて、少し――いやかなり、落胆してしまった。


 戦場に戻るのであれば、剣を腰に騎士の服装に戻る必要があるが、恐らくもうエリック公子として戦場に行くことはないだろう。

 皇女として嫁ぐため、すぐに皇宮へ身を移し、仕度をはじめなければならない。通常の政略結婚ならば、盛大な結婚式のための準備もあるだろうが、停戦のための結婚となれば、急いで行う必要がある。


 兵はいま戦場で対峙していて、そのままの状態が続けば国庫を圧迫する。それに何か少しでも問題が起きればすぐまた戦闘になるだろう。そうなれば停戦の話がこじれてしまう。

 急に呼び出され、部下達にきちんと辞去することもできなかったのが心残りだ。

 黙り込んだエレノアに、母は少しだけ表情を和らげた。まったく、とすねたようにこぼす。


「ソードマスターだと知られてはいけませんよ。そもそも皇女殿下はお体が弱いのですから、頑健だと知られるのもよくありません。あなたはとても病弱には見えないけれど」

「分かっています。なるべくハンカチで顔を隠しておくことにします」

 そうすれば具合が悪そうにも見えるだろうし、顔も隠せる。

 はあ、と母はため息をついた。


「そもそも貴方自身が体が弱いから社交界に出ないという設定なのに」

 それはエレノアが作った設定ではなく、母が言い出したことなのだが。

 いいですか、と母は茶器を置き、改めて背筋を伸ばした。


「ヴォルネスの皇太子が気に入らないからと殴ってはいけません」

 ――もしかしてこれは結婚の心得を語られているのだろうか。夫を殴るなと?

「私はそんなに乱暴者ではありません」

 ルシルと言い、皆エレノアをなんだと思っているのか。エレノアの否定にも、母は知らぬ顔で続ける。


「ましてや殺すなどもってのほかです」

「国家間に亀裂の入るようなことはしませんよ」

 ――しかし、こちらが我慢をしても、あちらがそうでない可能性もある。

「暗殺者が来たらどうします」

「うまくかわしなさい」

 エレノアの安否は少しも心配していない様子で、母はさらりと言い、お茶を飲む。エレノアが淑女らしくないのは気に入らないくせに、なんだか矛盾している。


「寝ぼけてオーラでベッドを破壊しないように」

「戦場で寝ぼけると部下を殺してしまうので、寝ぼけ癖は直りました」

「嬉しいような複雑な気分よ。寝ぼけて夫を殺す心配はないということね」

「母上は父上を殴ったことはないのですか?」

「何度かあるけど、父上は私より強いし、私の事が大好きで何をされても嬉しいから問題ないの」

「……そうですか」

 どういうのろけだ。

「それに、あなたが殴ったら死んでしまうでしょ」

 否定は出来ないが、力加減くらい出来る。

 母の説教は続く。


「それから、騎士の礼をしないこと」

 体に染みついているが、さすがにドレスで皇帝にして見せたのはわざとだ。

「きちんと淑女の礼ができますからご心配なく」

「あなたの礼は優雅というよりも堅苦しいのよね」

 はあ、と母は頬に手を当て、ため息をついた。

 さすが先代皇帝の娘、その仕草すらも優美だった。穏やかでやわらかな仕草のルシルとは違うが、非の打ち所のない、指先まで神経の行き届いた動きだ。


「我が国は、武力にて成り立ってきた国。子供の頃から男女ともに剣技を習いオーラを使うとはいえ、淑女は騎士にならないものだというのに」

 この母も少女の頃には剣を手に一通りの剣技を覚えている。今となってはその頃をかけらも想像できない完璧な淑女だが。


「エレノア」

 母は、まっすぐにエレノアを見た。

 美しい顔立ちと、洗練された優美な所作と、揺るぎない頑固な性質。父を射落とした強い眼差しは、淑女らしさとは少し違う。それは確実にエレノアに受け継がれたものでもある。


「エリックの代わりをする必要はないのよ」

 静かで、しかし強い母の声に、エレノアは笑った。

「もとより、そう思ったことはありません。母上」

 この世に生きて生まれる事が出来なかった兄のことを、気にしない訳がない。自分のこの『神に愛された』強靱な肉体が、兄の命を吸い取ったものではないかと考えた事もある。


 兄の存在が、常にどこか心の片隅にいたのは確かだ。

 母だって同じだろう。生まれてきた子供が息をしていなくて、気にしない訳がない。だがそれをエレノアに向けたことなどなかった。


 自分だけが生きて生まれてきたことの意味や責任を感じたのは、エレノアが勝手に思っていたことで、両親からそれを押しつけられたことはなかった。

 そしてエレノアが、剣技を極めようと思うこととそれは、まったく別のことだ。


「私が兄の代わりを務めようと思っていたなら、領地に行って剣術修行をしようなどと思ったりしません。立派な跡継ぎとなることを心がけたはずです」

「……そんなこと考えていたのね」

 あきれた声で言い、母は苦笑した。


 母はそっと手を伸ばしてエレノアの手を取る。ゴツゴツとしたエレノアの手とは違い、母の手は柔らかく暖かい。

「どこにいても健やかで。あなたらしくあればいいわ。心配はないのでしょうけど」

 さんざん釘を刺した後にそれはずるい。

 ますます勝手ができないではないか。

 母はふと視線をゆるめ、ちいさく微笑んだ。


「寂しくなるわね」

 エレノアは、魔獣討伐だ戦争だと家をあけていることが多かったが、さすがに他国へ嫁ぐとなると話が違う。それも、皇女になりすまして。

 珍しい母の姿に、エレノアは微笑んだ。

「落ち着いたらお顔を見に戻りますよ。バレないように抜け出すのなど簡単です」

「それはだめ」

 ぴしゃりと母は言った。

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