第2話 離宮の皇女

「レディ・グレイヴス」

 皇帝の執務室を出てすぐ、年かさの女性にがエレノアを待っていた。茶色の髪をひっつめて、厳しい顔をした女性は、エレノアが足を止めると、非の打ちどころのない仕草で礼をする。

「お急ぎでなければお立ち寄りいただきたいと、皇女殿下のお召しでございます」

「ルシル殿下が?」

 挨拶にうかがいたかったが、今日は皇帝に急ぎ召しだされて皇宮へやってきていたので、会えるとは思っていなかった。

 もちろん招待されて断る理由もない。

 エレノアは皇女の侍女の招きに応じ、離宮へ足を運んだ。



 皇女の住まいは離宮とはいえ、大きく言えば皇宮の中にあった。

 巨大な皇宮の中で、古の皇帝が側室のために造ったとされるエメラルド宮は、美しい庭に囲まれ、人の波から外れた静かな場所にある。宮殿にはさらに中庭があり、巨大な温室を兼ねたガセボがあった。

 その離宮の庭園で、皇女はつばの広い帽子を被って布で顔を覆い、ごつい手袋をして庭木の世話をしていた。


「エレノア、呼びつけてごめんなさいね」

 布をとり、にこりと笑う表情はとても明るい。手には今摘み取ったのであろう花束が抱えられていた。

 園芸は立ったり座ったり重いものを持ったりと体力のいる作業だ。思いの外元気そうな皇女の様子に、エレノアは膝を折って礼をし、笑みを返した。


「いえ、早々に戻っても母の雷を食らうだけですので。ルシル殿下もお元気そうで安心いたしました」

「天気がいいと体調もいいのよ」

 昔はよく熱を出しては寝込んでいた。年が近く血縁でもあるエレノアは、皇女の話し相手としてここによく来ていた。


 性質の違う二人だったが、それなりに楽しく過ごしていた記憶がある。他の令嬢とは違うエレノアから飛び出す話をルシルは喜んで聞いていたし、聡明で博識なルシルが語ることに、エレノアも興味深く耳を傾けた。

 エレノアが魔獣討伐へ行き、戦争へ行くようになり、ここで過ごすことはなくなっていったのだが。


 エレノアは皇女が好きだった。皇族に対して好悪の感情など不敬かもしれないが、人として好ましく思っていた。

 たしかに病弱だが、聡明で高潔であり、同時に親しみ深い人物だ。他者への慈愛深く、次期皇帝としても申し分ない人物だった。


 凡百でありながら、血気盛んな皇太子よりも。

 凡百なのが悪ではないが、身の程を知らないこと、そのせいで投げ出されるものがあることをわきまえていないのは困る。特に戦場では。

 たが武力がものをいうこの国において、皇女の立場は弱い。

 皇女がどうしているのか、時折気にかかってはいた。


「後で、お花を持って帰って。公爵夫人のご機嫌が少しでも良くなるといいのだけど」

「皇女殿下の贈り物を喜ばないわけがありません」

 ルシルは持っていた花束を侍女に預ける。それから、温室へエレノアを案内した。


 薄いガラスで囲まれた温室は、外の木々もよく見え、室内で咲く花々の香りに満ちている。床から特殊な魔法で暖められたこの場所は、病弱であまり外に出られない皇女の癒しとなってきただろう。

 ゆったりとしたソファに座っていると、いつも夢の中にいるような気持ちになる。ここはいつも外の世界と時間の流れ方が違う。


 侍女が運んできたポットから、皇女が手ずからお茶を注いでくれる。温室の中に、爽やかな香りが満ちた。


「朝摘んだハーブで入れたお茶よ。気持ちを落ち着ける作用があるの」

「殿下、私はそんなにいつも血気盛んではありません」

「あら、お父様の話を聞いて怒っているかと思って」

「ということは、殿下はもうご存じなのですね」

 皇女自身はどう思っているのだろうか。


 エレノアがルシル皇女の身代わりとして嫁ぐということは、ルシルは公女になる。

 皇帝の娘という身分を失い、公爵家の娘として、婿取りをしなくてはならない。

 生活自体は、エレノアは病弱で社交界に出ないということになっているから、以前と大して変わらないのかも知れないが。

 皇女はポットを置き、自分もソファに座る。ふう、とちいさく息をついた。


「エレノアには本当に申し訳ないと思っているけど、私はね、とっても楽になったわ」

 あっけらかんと笑う。

「私は体が弱くて、ここに閉じこもりきりだった。国のために働けない皇女というのは、居心地が悪いものよ。あなたなら立派に役目を果たしてくれると思っているわ。肩の荷をあなたの肩にまるごと乗せる形になって、本当に申し訳ないと思っているけれど」

 まるごとどころではない。付加要素がかなりあるのだが。


「皇太子殿下はこのことをご存知なのですか?」

 皇太子自身は未だ戦線にいる。いま戦場は敵と対峙したまま、和平がなるのを待っている状態だった。

 皇太子が我慢しきれずに余計なことをしないかが心配だ。


「どうかしら。隠し事のできない方だから、知らされていないのではないかしら。いずれはお聞きになるとは思うけれど。妹に興味もないし、いまエレノアが私のふりをして現れても気づかないと思うわ」

 確かにそうだろう。観察眼がまったくないお方だ。 


 皇太子と皇女の母は、グレイヴス公爵家と並ぶクラーク公爵家の出身だ。

 皇女とエレノアの入れ替わりを皇太子が知らされていなくても、おそらく皇后は知っているだろう。

 皇女とエレノアの入れ替わりを公にすることはできない。だが、皇女が公爵家にいると皇后が知っていれば、邪険にもできなくなる。


 これは皇后の後ろ盾である公爵家を牽制することになる。

 凡百の皇太子がいずれ皇帝になり、クラーク公爵家が幅をきかせるのは不安ではあったが、腕力しかないエレノアがグレイヴス公爵家を継ぐよりも、賢い皇女殿下がいてくれるほうが、国のためにはいいかもしれない。

 ――皇帝や父としては、そういう思惑もあるのかもしれないが。

 皇女は顎に手をあて、考えを巡らせた。


「ヴォルネス帝国は以前、使節団が来ていたことがあるわね」

「魔獣の強大なウェーブが起きた時ですね。あの頃は、共同で魔獣に備えて戦線を張るため、その約定を結ぶために使節が来ていました」

 エレノアが初めて魔獣討伐へ参戦したのも、その時のことだ。

「私は伏せっていて、宴にも参加していないのだけど」

「殿下のお顔を知る者はいないはずということですね」

「知る者がいたところで、私とあなたは似ているから」


 確かに顔は似ている。姉妹であると言ってもおかしくはないくらい似ている。髪の色も目の色も同じだ。だから、皇帝はこの荒唐無稽な話を思いついたのだろうが。


 しかし、皇女の纏うやわらかく高潔な淑女らしい雰囲気、聡明な眼差しと、エレノアの堅固で揺るぎない佇まい、相手を射貫く目はまるで違う。並んで立って間違える者などいない。

 それに。

 エレノアは改めて皇女を見る。日に焼けていない白い肌。細い腕と指。エレノアの日焼けした肌と、筋肉質な腕、剣を握るごつい手指とは大違いだ。


 ――よく考えなくても、エレノアは病弱には見えない。病弱という設定を持ってはいるが。

 これでよく入れ替えようなどと思ったものだ。


 エレノアの祖は、かつての建国の英雄たる初代皇帝の弟で、『神に愛された』と称される強靭な肉体を持つ人物だ。剣技に秀で、人より力も強く、傷の治りも早い。戦場における功績をもって、公爵になった。

 エレノアは確実にその血を引いている。

 神に愛された強靱な肉体を持つ公爵家の血筋は失われることになるが。父が身近な血縁から後継にふさわしい者を連れてきて、エレノアになった皇女と結婚させることになるだろう。

 しかしこの神に愛されたこの強靭な肉体は、帝国で子を産めばそちらに継がれるわけだが、皇帝はそれをどう思っているのか。


「結婚なんて話にならなかったら、あなたはこれからどうするつもりだったの? 戦争が終わったら」

「今更社交界を牛耳るつもりもありませんから、領地にて剣の修行に励むつもりでした」

 皇女は一瞬あっけにとられ、それから声を上げて笑った。

「それ以上励んでどうするの」

「剣の道に終わりはありません」

 しかしあまり強くなりすぎて国の脅威と思われても困る。だからこっそりどこかへ旅立つのもいいかと思っていた。北方の山へ魔獣討伐へ行くとか。


「仕方がないので、ヴォルネス帝国へ武者修行に出たと思うことにします」

「良い強敵に出会えるといいわね」

 それはエレノアに身の危険が及ぶといいわねと言っているようなものだ。しかし皇女のエレノアへの絶対の信頼からくる言葉でもある。エレノアがどうにかなるわけがないと。


「あなたの身を守るためなら、容赦なくやっていいのよ」

 にこやかに告げるには物騒な言葉だ。

「私は快楽殺人者ではありませんよ、殿下」

「知ってるわ。だけど、強すぎるのだもの」

 皇女は笑い、白い手でティーカップを持った。流れるような仕草でハーブティーを飲む。うつむいて伏せた睫毛から、香りを楽しむ表情から、優美な指先から、無骨なエレノアとはまるで違う。


「私に皇女殿下の代わりが勤まるでしょうか」

「これからはあなたがルシルなのよ。好きなように振舞って、好きなようにひっかきまわしていいの。これはお父様たちが勝手にやったことなんだから、問題が起きたって、国同士のことはお父様がどうにかなさるでしょう」

 皇女はいつになく、はっきりと言った。

 いつも穏やかなまなざしは、しっかり強くエレノアを見据えていた。

 しくじれば、戦争になりかねない。だが、それを背負いすぎるな、と。賢くも優しい皇女は言った。


「万が一があったら、まずあなたの身を守って」

「かしこまりました」

 エレノアは微笑み、胸に手を当てて頭を垂れる。

 それを見て、ふふ、と皇女は笑った。


「おばさまもおじさまも大好きだし、私は新しい生活がとても楽しみ。ずっとここにいたから、いつか公爵家の領地にも行きたいわ」

「身内になると態度が変わるかも知れませんよ。母は私が知る限りこの世で一番強い女ですし、父は母が好きすぎで他をおろそかにしますし」

 だから皇帝の横で大人しく立っていたのだ。跡取りの娘が他国へやられるというのに。

 恐らく母が賛成しているのだろう。放っておけば結婚などしないことがバレている。もしかしたら、剣の修行のために社交界を放り出すことなど予想の内かもしれない。放浪の旅に出られるくらいなら、他国に嫁いだ方が幸せだと思っていそうだ。


 母は皇帝の妹――つまり、先代皇帝の娘だ。

 公爵との結婚は政略的なものに思われがちだが、その実は母に惚れ込んでいた父があれこれと画策した末の恋愛結婚だ。今でも頭が上がらないのだ。


「帝国最強のあなたよりも強い女性がいるとはね」

「我が家の実情をご覧になって、嫌になってしまわないか心配です」

 エレノアはため息一つ、ハーブティーを飲んだ。爽やかな香りが鼻腔をくすぐるが、どうにも「草の味だな」と思ってしまう。戦場でそこらの草を摘んできて煮出した飲み物を思い出す。しかし皇女の厚意を飲み込み、エレノアは微笑んだ。


「母は庭園の世話が好きですから。『娘』と共に花を愛でることができるようになって、きっと喜ぶでしょう」

 外を飛び回っていたエレノアにはできなかったことだ。

「そうだと嬉しいわ」

 皇女はにこりと笑う。

 語ったことすべて、彼女の本心だろう。政治的な思惑に振り回されていると分かっていても、彼女は自分の立場で、自分にできることを楽しもうとしていた。



「ルシル殿下、そろそろ」

 エレノアを連れてきた侍女が、皇女にそっと声をかけた。

「そうね、あまり引き留めてもいけないわ。おばさまがお待ちだろうから」

 侍女が整えた花束を持ってくる。皇女は立ち上がり、それを受け取った。

「久しぶりにゆっくり話せて楽しかったわ」

「光栄です」

 エレノアは急いで立ち上がり、姿勢を正し、胸に手を当てて騎士の礼をする。それを見て、皇女はおかしそうに笑った。


「あなたがいつまでも健やかであることを祈っているわ。どうか、新しい旅路があなたにとって楽しい修行でありますよう」

 花束を抱えて、皇女は穏やかに言った。

「いつかまた、あなたの武勇伝をまた聞かせてね」


 幼い頃、身分もあまり考えずにソファに並んで座って語った日々を思い出す。

 熱を出して寝込む皇女の枕もとで、ひたすら素振りをしていて怒られたこともあった。皇女はエレノアが元気に動くのを見ていたいと言ってくれたのでお咎めなしになったのだったが。


 エレノアはドレスのままひざまずく。皇女から花束をうけとり、うやうやしく頭を垂れた。

「喜んで」

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