新しい非日常
行ってらっしゃい
いつもより2・3時間は早く起きた。カーテンの隙間から弱い太陽光が差し込んで部屋を照らしている。
ソファーベッドからゆっくりと降りてあくびをすると同時に背中を伸ばす。動いた背骨が鳴らす軽い音と痛みで目が少し覚めた。
今までは月矢さんが起きるまで寝ていてもよかったが、現在はそうはいかない。夏休みは少し前に終わったのだから。
今日から月矢さんは通常勤務が始まる。自分は彼女が食べる昼食を作る仕事があるのだ、寝過ごして迷惑をかけるわけにはいかない。
月矢さんが「雰囲気が出るから」と買った紺色のエプロンを着けて調理を開始した。とは言っても、弁当に入れる物の半分は冷凍食品である。全部手作りとか、ちょっと無理がある。
電子レンジと共同作業で弁当を作る中で、ちょっとした不便さを感じた。事前に調べておいた方が良かったかもしれない。
いくら自分が気を付けていようと大きな音が出てしまうのだ。電子レンジの「俺、仕事終わりました!」の意を込めた機械音は用意に月矢さんの部屋に届くわけで。
「おっはよ~ございま~す……」
目を擦りながら月矢さんは起きてきてしまった。目を擦り、猫背になりながらゆっくりと歩いてリビングのソファーへと移動している。
壁掛け時計に指を指した。起きてきた彼女に現在時刻を知らせるためである。現在時刻は午前5時半。
「おっはよ~ございませ~ん」
「二度寝してもいいけど、ちゃんと起きてくださいね」
「アラームかけてるから大丈夫~」
彼女は部屋に戻って二度寝と洒落混んだ。実際、起きるには少し早い時間だ。今から化粧や朝食を済ませても、出勤までお釣りが来てしまう。
弁当を作り終えた頃に、また彼女は起きてきた。朝食は弁当用に作ったおかずとご飯の余り、カップヨーグルト。
「今日から毎日こんな感じでよろしくね」
「お昼寝付きなら喜んで……」
なんとか起きて支度を済ませたけれど、正直眠い。瞼が重く視界が狭い。頭がメトロノームの針のように左右に揺れている。いっそハイドンの驚愕でも流して寝られないようにしてほしい。
今まで不規則に生活していたツケを払う時が来たのだ。ここまで生活リズムが崩れていると、しばらくは朝の家事が大変だろう。先が思いやられる。
「手際良く家事が出来るんだから大丈夫じゃない?」
「そんな他人事みたいに……」
「私も頑張ってくるからさ、お願いいたします」
「分かってますよ」
月矢さんは朝食を食べた後に手際良く支度をしてしまった。化粧の時間も今まで出会った女性の中で最も早い。とは言え、家族くらいしか見たことは無いのだけれども。
しかも、食器洗いまで済ませてもらった。これをしてもらうだけでも結構違う。出来ることなら自分でやってもらいたいが、それは言わぬが花だろう。
「あ、そろそろ出なきゃ」
ソファーに座りスマホをいじっていた彼女はゆっくりと立ち上がった。いつものラフな格好とは違い、珍しくスーツを着ている。
「ん?どうしたの?」
「いや、キャリアウーマン
「
「じゃあ遅刻したらダメですね、電車は大丈夫そうですか?」
「大丈夫、最悪自転車があるし」
「あったなら言ってくださいよ、なんで今まで歩いて買い物に行くのを強制したんですか」
あるなら使わせてもらいたかった、本当に。毎日なんのために槍のような太陽光線を浴び続けたのだろうか。弁慶が泣き言の1つも言いたくなるレベルだったのに。
「あ、忘れてた」
「まぁ、いいですけど、いい運動になったので」
今さら言っても後の祭り、仕方がない。運動不足も治ったと思うし許そう、そんなことを言える立場にはないけれど。
「今度から使って大丈夫だよ、下の駐輪場にあるから」
「鍵の場所知らないんですけど」
「刺しっぱなしだから使えるよ?」
「セキュリティ意識なんてあったもんじゃないですね、東京なんてスラム街とさほど変わらないのに」
「言いすぎでは?」
「田舎もんから見たら同じです」
極端なことを言ってるのは分かっているけれど、事実ではある、はず。
そんな地域に行ってみたいけれど、怖くて行けてないのが現状である。我ながら心配性だ。ところで……
「さっさと行かなくていいんですか?」
「え?あ!行ってきます!」
「はい、行ってらっしゃい」
玄関のドアが閉まると同時に、自分の呼吸音が不自然なほど大きく聞こえるようになった。
1人の時間が久しぶりに訪れた。人間1人分スペースが増えたリビングは自分だけが使うには少々広すぎる。心なしか室温も低下している気がする。
気の持ちようで変わるのだろうけれど、月矢さんはこれを今まで続けてきたのだろう。それが通常運転ならいいが、自分にとっては違う。
洗濯、掃除、エトセトラ。今までとやっていることは同じなのに、何か違う。淡々と進めているが、どことなく違和感がある。
何が違うって、そんなこと分かっている。でも……認めることがなんとなく悔しい。
やっぱりいつの間にか居ることが当然になっていたのだろう、家族でもなんでもない彼女の存在が。自分の中に、彼女用のスペースが既に作られているのだ。
最初は、こんなことになるなんて思っていなかった。不服ではない、不満もない、ただ不思議なだけだ。それを認めることが悔しい。
そして、こんなことを考えていないと、この静寂に耐えられないことも悔しい。イヤーワームも一人で居るときに、いや、一人で
人間は兎と共通点が多いけれど、寂しいと死ぬなんてのは聞いてない。
……
「~~~♪」
気づくとソファーに体を投げ出して口ずさんでいた。テレビを付けたってゴシップやら戦争の話題で嫌になるだけだ、それならこのままで良い。
「~~~♪~~~♪……」
サビ手前で気づいた。これは、あいつの歌だ。いつの間にか離れていて、会わなくなっていて、やりたいことやっていて、俺が勝手に引け目なんか感じているあいつの。
「今なにしてんのかなぁ……」
結局……自分は何かにすがっていないと生けていけないのかもしれない。目標なり、思い出なり、人間なり……。
人格なんて物は変えようが無いし変わらないけれど、ここまで自分は弱い人間だっただろうか。
1人になって、逃げ続けて、勝手に1人で生きてきた気になっていた。いや、受験が終わってからは希望なんて無かったから、死んでいるのと同じだったのだろう。
死んだように生きるなんて言葉があるけれど、まさか知らず知らずのうちに、ある意味自分がそうなっていたなんて……。
「……止めよう……」
思考はまとまらず雲のよう、答えが出ない問いは霧のよう、掴むことが出来ずどこまで行っても意味がない。
自分がこうしている間にも地球は惰性で回り続け、時は勤勉に進み続け、自分を含めた全ての命は消費され続ける。無駄遣いは避けよう。
とは言え、もう何もやることがない。洗濯物も乾くのを待つだけ、昼ご飯も今は要らない。
「……あ」
月矢さんは自転車を使って良いと言った。それなら、別に用が無くても使って良いのではないか?
この辺の地形を把握しておくのは必要だろう、運動も時折必要だろう、なら善は急げだ。
一切の力が抜けたような重たい体を無理やり動かして伸びをする。玄関前で緩まった靴ひもを縛る。鍵以外の荷物全てを置き去りにしてドアの鍵を閉めた。
太陽は等しく全てを照らすが、今だけは気を遣ってくれているらしい。その光からは花の蕾を包む暖かな陽気のような優しさを感じた。
屋外の駐輪場にあった自転車は錆びひとつ無く塗装も剥げていない、新品同様の美しさがあった。手入れしているのか、全く使ってないだけなのか。
いわゆるママチャリだ、やっぱり買い物にお誂え向きじゃないか。まぁ今はそんな用事は無いのだが。
確かに鍵は刺さっている、ハンドルも問題なく動く。使う分には全く異常が無さそうだ。
乗ろうとした瞬間、数メートル向こうで同じようにしていた女性と目が合った。
「あ……こんにちは」
「こんにちは……」
なぜか彼女は気まずそうに顔を俯かせて行ってしまった。。小首を傾げたが、意味はすぐに分かってしまった。
こんな時間に自分のような人間が居ることが異常なのだ。どの高校も二学期が始まっていて、本来なら昼頃に10代の男性なんて見ることが無いのだ。
自分は若く見られることが多いが、その弊害がここにきて生まれてしまった。そもそも年齢だけなら学生と1つしか変わらない。
「不登校ねぇ……」
恐らく要らない気遣いをさせてしまったのだろう、自分だって同じ状況ならそうする。
自転車を行く宛もなく走らせると、温い風が肌を優しく撫でて去ってゆく。幸い信号機につかまることは無く、スムーズに進むことができていた。
行く先々では赤ん坊の泣き声、幼稚園児たちの歌声、小学生の笑う声が聞こえてきた。
景色は確かに綺麗だし、心地よさは確かにある。その生活音に癒されたのも確かだ。だが、それでもこの行動は間違いだったかもしれない。
自分ひとりが日常から外れていて、透明人間のような存在になったような感覚があった。
ここまで疎外感を感じるとは思わなかった。
本来の在り方を捨て去り、自分だけが何者にも成れずにいるこの現状に対して、酷く孤独感を感じたのだ。
自由には責任が伴うということは重々承知しているが、その上で心臓を細い針でつつかれているような、体の内から凍らされたかのような苦痛まで伴うことになるなんて……。
次第にペダルを漕ぐ足はペースを落とし、全国チェーンの書店の前で止まっていた。
沈んだ気持ちを落ち着かせたいと本能が求めているのか、ただの偶然か。気づけば、足は入り口に向かって歩みを進めていた。
とは言え、なんの理由もなく訪れたわけで、何をするでもなく本の表紙を見ながら歩き回っていた。これだけでも案外楽しめるものだ。
イラスト集なんかを立ち読みしていると、明らかに東京がモチーフの絵が出てきた。どうにも現実のそれと似て非なるものであり、あまりにも色鮮やかだった。
パレットの絵の具を空から撒き散らしたようだった。自分にはこう見えないけれど、これの作者にはこう見えているのだろう。
世界の見方なんてものは人によって違うと分かっているけれど、どうせなら自分も世界がこう見える目が欲しかった。きっと人生だって美しいバラ色だろう。
その後も辺りを見て回ると、一冊の小説が目に止まった。
『銀河鉄道の夜』
宮沢賢治の名作。家にあったために、子供の頃に何度も読んだことがある。初めて触れた小説ははこの作品だった気がする。
今となっては内容を少しも覚えていないが、ある一節だけはしつこい汚れのように脳にこびりついている。
『ほんとうにどんなつらいことでも、それがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。』
今自分の中にある重苦しい感情も、今まで抱えていた苦痛も、幸せに近づくための一歩なのだろうか。
そもそも、今の自分は正しい行動だと言えるのだろうか。道を外れてはいないか。
そんなものに、答えなんて無いのだろう。
『ほんとうのさいわいは一体何だろう』
この言葉もこの小説に書かれていた気がする。作中では答えを出していただろうか、投げっぱなしのままだっただろうか。
どちらにせよ、自分のような凡人にはまず到達できない答えだろう。……でも、考えることは止めてはいけない気がする。それが途方もないことでも。
今ここでは読まない、一切の手がかりも要らない。ひとりひとりに答えがあり、それは一緒になることなんて無いのだろうから。
気づけばかなりの時間が経っていた、そろそろ洗濯物が乾くだろう、帰らなければ。
書店から出る頃には、足は羽のように軽くなっていた。自転車に跨がってペダルを漕いだ、心地よい風に身を包まれながら。
外に干していた服は見事に乾いていた、しかも陽射しのおかげで暖かい。バスタオルの肌触りなんて『ふわふわ』なんて言葉では言い尽くせないほど素晴らしい。
太陽は仕事を終えて定時退社の準備をしている、空はみかんのような鮮やかな色だ。真夏はサビ残しすぎだ、毎日このくらいでいいのに。
また、たわいないことを考えてしまった。でも、そんなことが出来るほどに心が晴れたのだろう。いつか快晴になるだろうか、雲ひとつない快晴が。
「ただいま~」
もう聞き慣れた声が聞こえてきた。『行かなければ』そう考えてしまった。
そう思ったときには既に足が動いていた、彼女の目の前まで。
彼女を前にして、出かけた言葉が喉に詰まった。それでもなんとか捻り出した。
「ええと……お帰りなさい」
一体いつから言ってなかっただろうか。久しぶりに声に出したその言葉は、なかなか口から出ていこうとしなかった。でも、確かに届いたらしい。
「うん、ただいま」
その言葉は、彼女の明るい表情は、さっきのそれよりも優しくて、笑みがこぼれてしまった。
「何か良いことあった?」
何度も見たいたずらな笑み、それすらも久しぶりに感じた。どれだけ安心したことか。
でも、そんなことを言えるはずもなくて。
「いいえ、なんにも」
仏頂面に戻し、言い終わる前に振り向いて顔を隠した。
「ほんとに?私に会えて嬉しかったんじゃないの?」
「馬鹿なこと言ってないで片付けてください」
「ひどくない!?」
また明日の『行ってらっしゃい』までは、このままで。
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