始まりはここから

「お兄!?」



唐突な電話に驚くと同時に嬉しさが湧き上がった。何日話さなかったことだろう。まともな会話なんて、あれから一切してこなかった。互いに話そうとしなかった。ようやく今までの関係に戻りそうな気がして涙が出そうだった。



「ねえ、今どこにいるの?何してたの?どれだけ、どれだけ心配したか分かってる?」


「分かった分かった!心配させたことは悪いと思ってるよ!」


「本当に心配だったんだからね!一日居ないくらいなら『多分どこかに泊まってるんだろうな』で済むけど、二日居ないのは心配するって!なんで帰ってこないの!?」



質問攻めにしてしまうのは悪い気がするけど、そんなことは気にしていられない。事の顛末を聞かないと。



「ところで、母さんと父さんって居る?」


「母さんは今リビングに居る。父さんは残業。私は二階の自分の部屋。呼んでくる?」


「いや、いい。後で伝えておいて」



ここで少し気になった。わざわざ私に連絡したのはなぜ?大事になっているのはお兄も分かっているはず、なら普通は親に連絡するものじゃ?何か不都合でもあるんじゃ?



「まず、今どこに居るのか教えて!スマホも置いてったから連絡できなかったじゃん!」


「えーと、今は友達の家にいる」


「へえ、もしかして終電逃して泊まってるかんじ?」


「違う、まだ都内にいる」


「は?遅くない?早く帰ってきなよ」



終電まで時間があまり無いのに帰る気が無いような返し。門限は無いが、それでも夜の十二時前には帰ってきていた。そもそも、お兄は友達が少ないはず。本当に何があってこんなことを?



「いや、しばらく帰らないつもりでいる」


「はあ!?なんでどうして!?え、なに、私悪いことした?」



いや、した。悪いこと、お兄が何を気に病んでいるかなんて知っている。ただ、認めたくない。私が原因で、帰ってこないなんて、拒絶されるなんて、本当に耐えられない!



「今、浪人生じゃん、俺って。それでさ、今まで自分で勉強してたけど、それでも足りねえなって思ったの」


「足りないって……お兄めちゃくちゃ勉強してたじゃん!その……たまたまだって、きっと!次は絶対受かるよ!」



今だって、きっと帰らない理由を作って誤魔化そうとしてる。いっそ素直に「嫌い」だって言ってくれた方が楽になれるのに、傷つけないようにしているのかもしれない……。



「とりあえず最後まで聞いて。……それで、俺の友達が今一人暮らししてて、俺の志望校に通ってんの。先生とも仲いいから試験の作り方とか知ってるわけ。そんで、こんな機会は他に無いだろうから、ここで勉強しようと思ってる」


「え?あと四ヶ月帰ってこないってことじゃん!」



いや、まだ期間が決まっているだけ気が楽かもしれない。それまでには帰ってくるんだから。いや、それでも疑問は残る。なぜ、わざわざ私に言った?


もしも原因が私なら電話をかけてこないはず。かといって真実でも、わざわざ私に連絡する理由が見つからない。なら、他に何が理由で……?



「落ちたらどうなるか分かんねぇけどな」


「受ける奴がそんなこと言うなって……って、そんなこと気にしてるんじゃないの!なんで急にそんなことになったの?」


「俺も急にこんなこと言うのは申し訳ないと思ってる。でも……これ以上家族に迷惑かけたくないんだよ。受かんなくて、母さんの努力も無駄にして……。もしもこれで受かれば、きっと最後になるから、これ以上は迷惑かけないと思うから。だから、最後のワガママを許して欲しい」


「そんなの、私の決めることじゃないよ!てか何?『最後のワガママ』?今までそんなこと一回も言ってこなかったじゃん!なんで、なんでお兄がそんなこと言うの!?しかも『迷惑かけたくない』!?我慢してきたのはお兄のはずなのに、ずっと辛かったのはお兄のはずなのに!なんで……!」



……そうだ、理由なんて、これしかなかった。もしも私以外が理由でこんなことをしたのなら、これしかない。


ああ、だとしたら、本当に許せない。私じゃない、今この状況を作ったのは、あいつらしかいない。自分の行動でどれだけ傷つけたかも知らず、今こうした状況でも自分の非が分からない、その馬鹿な奴らが許せない。





でも、その責任の一端が私にあることも事実。なら、ここで「帰ってきて」なんて言う資格は私にはない。辛いけれど、認めなきゃいけない。


帰ってくるまで、ちゃんと待っていよう。帰ってきたら、心配させたぶんのワガママを聞いてもらおう。そして、辛い思いをさせたぶんのワガママを聞こう。それで元通りになるなら、お兄のためにも待っていよう。



「……私は、お兄は頑張ってると思ってる。だから、お兄の言うワガママは許されてもいいと思ってる。でも、ここまで心配させたのは、許さないから」


「……しばらく帰ってこないかもしれない、それでも、許してくれる?」


「許すのはお兄のほうだよ。……だって、多分嘘だよね、帰ってこない理由」


「いつ、嘘だって気付いた?」



やっぱり嘘だった。でも今は、どうだって良い。。それで私が許されるなら、どうだって。



「最初は、本当なんだろうなって思った。でも、お兄はそうする理由が多すぎるよ。受験だけじゃない、お母さんのことだって「私が何?」



後ろには、お兄を傷つけた彼女がいた。気づかなかったということは、ドアを音をたてずに開けていたということ。何時から、どこから聞いていた?



「え、お母さん!?なんで!?」


「だった、鏡の声が聞こえたからさ、どうしたのかな〜って。それで、今話してるのは遊、でしょ?ちょっと代わって?」


「なんで代わんないといけないの?」


「だって、親なんだから。一応何してるかくらいは知っておいて損はないでしょ?」



しぶしぶ代わった。今ここで騒動を起こしても、誰のメリットにもならないから。



「ねえ、遊。今電話代わったよ。ところで……どうして帰ってこないのかな?」


「あ……えっと……」


「ねえ、なんでかは、理由くらい教えてくれない?」


「……えっと、俺は受験に失敗して、勉強しなきゃって思ったから。出掛け先で志望校に通ってる友達がいて、自分が一人で勉強するよりも、教えてもらったほうが良いと思って……それで、受験まではそこで頑張ろうって思って……」


「つまり、受験のために志望校に通う友達に泊まり込みで教えてもらうってこと?」


「あ……そう、合ってる」


「ふ〜ん」



震えた声がスマホから漏れ出ている。今まで聞いたことがないような声だった。




「あっそ、良いんじゃない?」




「「……はあ?」」



きっと、許さないと思っていた。理由がどうであれ、あそこまでお兄を縛っていた張本人が、お兄の家出と思われても仕方がない行動を許した?



「え……つまり……泊まり込みを許すってこと?」


「え?他に何があるの?別にいつ帰ってもいいし、ただ理由を知りたかっただけだよ?」


「確かにそう言っていたけど、でも……本当に?」


「ねえ、何度も言わせないで。『良い』って言ってるじゃん。それじゃあ、せいぜい気をつけてね」


「は?ちょ……」



勝手に電話を切られてしまった。もう一度かけようとしたけれど無理だった。誰の電話でも無く、公衆電話からだったのだろう。



「ねえ、なんで電話切ったの?まだ話したいことあったのに……」


「だって、もうどうだっていいから」


「……は?」


「もう、あいつ《・・・》はどうだっていいの」





「『どうだって良い』っていうのは?」



あそこまでお兄の成績に執着して、受けさせる大学にまで口を出していた彼女が、ここでお兄を離すとは思っていなかった。もう一度受ければ恐らくお兄は受かれる、それなのに。



「そのまんまの意味。もうあいつが何したってどうだっていいの」


「……なんで?」


「だって、あいつもう大人じゃん?私が何もしなくても、もうよくない?」


「ふざけないで!あれだけ……あれだけ傷つけて、苦しめて、それで大人になったら『ごめんなさい』の一言も無しにさよなら!?お兄のことをなんだと思ってる!」


「え?私の子供だよ?そうじゃなきゃ何かしてあげたりなんてしない」


「なら尚更、なんで大切にしてあげなかった!?暴力が普通だと思うくらい認識が歪んで、それでも何かがおかしいと思ってて、それでもそれが正しいって思い続けたお兄のことを、なんで傷つけた!」


「そうでもしないと、あいつが幸せになれないじゃん」


「……はぁ!?」



傷つけることが人のためになるわけがない。なんと言おうともそれは変わらない。なんで平気で、人の道を外れたことを言えるんだ!?



「私はねぇ……あいつと同じ大学を目指してたんだぁ。でもさ、結局受かんなかったんだよねぇ。それが今もずっっっっっと心残りでさ、後悔してるんだ。」


「……何が言いたい?」


「あいつにはね、そんな思いをさせたくないの。だから無理やりそこを受けるように、受かるようにしようとした」


「自分の心残りをお兄に消させようとしたの?お兄が受かることで?お兄の考えも無視して?」


「違うって、話聞いてた?私は幸せになってほしいの。私みたいになってほしくないの。私がここまで苦しくて、辛い思いをしてるんだから、同じ思いはさせたくなかったの。そのために、こうしてあげた《・・・》の」


「何を上から目線で言ってんだ馬鹿!無理やり押し付けて、自分のエゴのために動かそうとして、それで何が『幸せになってほしい』だ!本当の幸せなんて、『自分が生きたいように生きること』に決まってるじゃん!」


「それで後悔しても?それで間違いを犯しても?もしも生きる過程でそんなことがあったら、それは幸せとは程遠いものだよ。本当の幸せは、『何も間違わずに生きること』だよ」


「だったら、あんたがお兄にやってきたことは全部が間違いだ!」


「そうだよ?」


「はあ!?」


「受験をミスった時点で私の幸せは終わったの。だから、これ以上間違えても気にしない。だって、間違いは戻らないから。あいつにはそうなってほしくなかった。でも、結局受からなかった。だから、もういいの」


「何が?」


「これ以上の干渉は、やめた。一度間違えた時点で、あいつの幸せは終わった。私の思いも無駄になったの。だから、もう気にしない。どうだっていい。あいつは大人、そして不幸せな人間、なら、私が何かをしてあげる理由は、どこにもない」


「あんだけ傷つけておいて、一回ミスったらおしまい!?ふざけんな!」



ここまで自分勝手な人間は出会ったことがない。恥ずかしい、こいつから生まれてきたことが恥ずかしい!



「でも鏡、あなたは違う」


「……は?」


「あなたは成績がいい、運動もできる、メリットしかないの。これから推薦も、指定校も、一般でさえ大学に受かることができるんだよ。これってさ、素敵だと思わない?もしかしたら、あそこ以外の大学だって……」


「私に、お兄と同じ扱いをする気?」


「ううん、だってあんな事しなくてもできる子でしょ?なら私は勉強には手出ししない。ただ……私はあなたに期待してる。あいつは『出来ないかも』って心配があった。でも、あなたは別。受からなかったら……どうしようかな」



それだけ言い残して、部屋から出ていった。





きっと、あれは脅しだ。まだ記憶が残っているから手出し出来ないのだろう。あのとき殴った記憶があるから、手出しが出来ないのかもしれない。だから、きっと今は何もしないはず。つまり、もし失敗したら……。


でも、そんなことはどうでもいい。もう私は、幻滅した。ここまで醜い人間だとは思わなかった。ここまで人の気持ちを推し量れない人間だとは思わなかった。もう、同情の余地すら無い。


私に、あいつの期待に応える義務なんて無い。なら、精一杯の反抗を、復讐をしよう。私も、ここから逃げれば良い。あいつが自分の分身として私達を見ていても、本当に幸せを願っていたとしても、私達が居なければ、それは叶わない。なら、それを選ぶ以外に手は無い。


誰があいつの『幸せ』に縛られるものか。私の『幸せ』は私のものだ。





「う〜ん?何〜?こんな時間になんで電話するの鏡ちゃ〜ん」


「ごめんね、乙女。ちょっと、頼みたいことというか……なんというか……ううん、こんな言い方はダメだね」


「……何があったの?」


「……私、家出することにしたんだ。……今日、大丈夫だって言ったけど、やっぱり、私、ダメだったみたい」


「……うん」


「私ね、ずっと苦しかったの。何かできると思ってて、何もできなくて……。ずっと悪いものばかりを見続けて、そこから逃げられなくて……。今日やっと、決めたんだ。私がどうすればいいか分かったから」


「……そっか。……良かった!鏡ちゃんが、やっと話してくれた……!」


「心配させてごめんね。……それと、言いたいことがあるんだ」


「何?」




「……助けて、乙女。乙女しか頼れないの」




「……もちろん。どんな理由でも、私は助ける。だって鏡ちゃんの『親友』だもん。それで……何をしたら良い?」

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