見失って

八月十五日、私は朝から部活があった。中学時代から変わらず陸上部に所属している。今ではお兄よりも筋肉がついている。時折部屋から出てくるのは確認できるが、まだあれから話はできていない。


日に焼けた私と対象的な白い肌、周りより短めな髪型の私と対象的な肩まで伸びた襟足。背が少し低い私と対象的な高い身長。そのどれもが、私とお兄の距離を離しているように感じて嫌になる。


昔は、もっと近かったはず。ここまで離れていなかったはず。私とお兄は、親友だったはず。どうして、こうなってしまったんだろう。誰が悪かったのだろう。私か、あの女か、それとも男か、いや、その全員だろう。


傷口を開いた、傷をつけた、傷を手当しなかった、そのどれもが罪で、誰もが加害者だ。隠していた傷を誰かに見られ、なおかつ開かれる。その痛さなんて、私が想像できるようなものじゃないだろう。



「お〜い、鏡ちゃん!これからご飯食べに行くんだけどさ、一緒に行かない?」



友人の戦場乙女せんばおとめの呼びかけが思考を遮った。ブチッと思考回路が切れる音がした。



「う〜ん、どうしよっかな〜……」



友達と過ごす時間は楽しいけれど、できれば家にいたい。いつあの女が暴れだすか分かったものじゃない。



「え〜!今日はスイーツバイキングにでも……と思ってたのにな〜!」


「チーズケーキは?」


「もちろんアリ」


「……行きますよっと!」



そもそもお兄は部屋から出てくることが少ないし、お兄の受験後からは、あの女はめっきり暴力を振るわなくなっていた。痣も消えかけている。何を考えているかは分からないけれど、私が家に居なくても良くなっていたのは事実だった。


お兄が今までは構ってくれていたが、今ではそれもない。


私は言うなれば「家に居場所がない」状態なのだろう。なら、今くらいは自分のことを考えても良いかもしれない。





「え……これ超美味しくない?」


「でしょでしょ?ネットで見たんだけど、これが美味しいって評判だったの!」


「どこから拾ってくんのよ、その情報」


「お姉ちゃんが東京で一人暮らしでさ、それで流行のお店を教えてくれるの!ここだって向こうで人気になったからできたんだよ?」


「あ、そうだったんだ!」



中学からの付き合いだから、乙女とは何回も遊んだことがある。お姉ちゃんとも会ったことがある。乙女のお姉ちゃんは流行りに敏感だったから、彼女が言うなら間違いない。



「久しぶりに出かけたけど、それなら来て正解だったかもな〜」


「誘ってもあんまり遊ばないもんね、バイトとか?」


「あ〜、そうそう。結構最近忙しくてさ」



半分正解。実際バイトは大変で、部活の合間くらいしかシフトを入れられない。


もう半分は、今は考えなくてもいいかもしれない。



「それでテスト勉強もしてるんでしょ?鏡ちゃんやっぱハンパないって」


「そうでもないよ。私だって休む時は休んでる。自分までダメになったら大変だもん」



今、私が頑張らないと、今の状態を保たないと、また昔の状態に戻るかもしれない。なら、私が少しでも動けなきゃいけない。休む時は休まないと、頑張る時は頑張らないと、私は適切に動かないと。


私以外の誰かになんて、期待しちゃいけない。私だけが、まともなんだから。



「自分まで?」


「え?……ああ!ごめんごめん、言い間違え!『自分が』って言いたかったの!ほら、一応私は勉強できてるキャラだからさ、それが無くなったら普通の不良だよ?そうなったら大変じゃん?」


「まあ確かに、運動できて、校則のギリギリを攻めて、友達いっぱい、とか教師からしたら怖くて仕方ないかもね」


「あんまり怖がらせる気は無いんだけど……」



なんとか誤魔化せた、誤魔化せたけど……。「自分まで」この言葉には、お兄は含まれてるの?


私は、完全に無意識に言っていた。今となっては誰を指したのか分からない。お兄以外を指してると思う、そう思いたい。でも、もしも、その時だけでも、そう思っていたら?


もしかして私は、どこかでお兄のことを、下に見てるんじゃないの?こんなことを考える時点で、それは正しい推測なんじゃないの?


私は本当に、お兄を助けたいの?あれから話してないのに?「痣がほとんど消えかけている」なんて楽観的に考えて、今までの行動を変えているのに?


もはや、これは自己満足なんじゃないの?これは私がしたいだけで「お兄のため」なんて思ってないんじゃないの?私が勝手に、お兄を理由にして、嫌いな人を貶めようとしているだけなんじゃ……。


じゃあ、今私がやっていることに、意味はあるの?本当に自己満足だとしたら、これはただの逆恨みだ。それに理由をつけるために、都合よくお兄を使ってたんじゃないの?


いや、違う!違うはず!これは私のためじゃない、少しでもお兄が楽になるなら、そう思ってやってきた正しいことのはず!でも……じゃあ……もしもお兄がいなくなったら、これまでのことを全部やめられる?


もしも「お兄のため」が全部なら、すっぱり終わりにできるはず。でも……今私はそれを終わりにできる?


全部はお兄が居たから始まった。この思いも、行動も、全部お兄がいたから生まれたもの。今、もし、お兄がいなくなったら、やる意味は無くなるはず。もしこれが私の気持ちのため、「許せない」って気持ちのためなら、きっと終わりになんてできない。


本当は、どこかでお兄が傷つけられることを待ってたんじゃないの?それを観て、やり返して、自分がスッキリしたいだけなんじゃなの?私が傷つけたいだけだったんじゃ……



「おーい、鏡ちゃーん?」


「……ん!?呼んだ!?」


「なんか、難しいこと考えてる顔だったよ?」


「そうかなぁ……。そうかも……。次何食べよっかな〜って」


「いっぱいあるし、そろそろお腹がキツくなる頃だしね」


「……ごめん!一瞬トイレ行かせて!」


「食べ過ぎなんじゃない?お大事にね!」


「違うって!安心して!」



こうやって友達に嘘をつく自分自身に、反吐が出る。





「いや〜、食べた食べた!」


「そうだね、もうパンパンだよ!太っちゃうかも……」


「鏡ちゃん帰ってきてからメチャクチャ食べたもんね!あんなに食べる人だったっけ?」


「ま……まあね、部活終わりだし!」



あれから、また満腹になるまで食べた。ちょっと引かれたかも……。



「ねえ……鏡ちゃん」


「なに〜?」


「……大丈夫?」


「へ?」


「なんか今日さ、途中から顔色悪かったから。何かあったのかなって」



隠していたつもりだけど、見破られていたらしい。まだ、お兄のようには上手に隠せそうにない。



「いやいや〜、流石に大丈夫!熱もほら、熱くないでしょ?それに、ほら!ちょっと暗くなってきたじゃん?そのせいだよ!」


「そうだけどさ……ずっと、ここ最近ずっと、同じだよ。何か悩んでいるようで、でもそれを考えないようにしてるみたいで……。ねえ、私なら、頼ってもいいんだよ?」



ずっと前から同じなら、なんでもっと早く聞いてくれなかったんだろう。そんな理不尽な考えも、きっと今だから出てくるんだろうなぁ。気づいて欲しいくせに、言えないくせに、勝手に悩んで辛い思いアピールして。本当に、自分が嫌になる。



「……大丈夫だよ!私、見かけ通りにメンタル強いから!自分でなんとかできるって!」


「それって、もう何かあったから出てくる言葉じゃん!何もない人は『なんとかする』なんて言わないよ!」



乙女は、泣いていた。



「ねえ、私たち、友達でしょ?なら頼ってよ!何言ってもいい、私がダメなら変わる、他の人なら協力する、自分のことなら一緒に考えてあげる!……だから、だから……!」


「……ごめんね。ごめん。」



乙女が落ち着くまで、背中を擦った、頭を撫でた。彼女は苦しいくらいに私の背中を引き寄せた。



「でもさ、私は言わないんじゃなくて、言えないの。これはさ、私だけじゃない、家族の問題なの。もしも、本当に私が辛くなった時は、ちゃんと乙女に言うよ。『助けて』って。だからさ、今は待っててくれる?」


「絶対、絶対私を頼る?」


「もちろん。親友だもん」


「ねえ……そんなこと言われたら、また泣いちゃうよ……!」


「嬉し泣き?嬉しいなぁ、乙女もそう思ってるってことじゃん」


「当たり前だよ!ずっと一緒だもん!」



私には、親友がいた。なんでずっと気づかなかったんだろう。こんなに、思ってくれている人がいるって。





家に帰った。靴を脱ごうとすると、いつもと違う点に気づいた。お兄の靴がない。



「ねえ!お兄はどこ!?」


「え?ああ、東京に行った。博物館だっけ、行くって行ってた」



あのお兄が、外出?自分の部屋からも出ようとしなかったのに?急にそんなことをする人じゃないと思ってたのに……。


電話をしたけれど、その音はお兄の部屋から聞こえてきた。置いていったらしい。机の上には、家の鍵もあった。


ここで、最悪の場合を考えた。「家出」なんて、そんなことをするとは思えなかったのに。でも実際、財布だけはなかった。



「なんで、引き止めなかった?」


「だって、出かけるだけじゃん。一日すれば戻ってくるんじゃない?なんなら、泊まりかもしれないし?」


「そんな、なんで不安そうにしてないの?」


「だって、一応もう大人でしょ?何でも自分で考えられるお年頃でしょうに」


「そんな無責任な……」



でも実際、もうお兄は大人だ。私なんかより、年齢も、精神も、体も。でも、不安は残る。何かあった時のことばかりが頭をよぎる。もし、もう会えないとしたら、私は耐えられない。


だってまだ、話足りない、遊び足りない、謝り足りない、何もかも中途半端で終わってるのに、それなのにいなくなったら、これが全部できなくなったら……!


でも、連絡手段がない今、それを考えても仕方がないことは分かっていた。ただ今は、信じるしかなかった。





次の日も、待てど暮らせど、帰ってこなかった。不安感は募り、泣きたい気持ちが止まらず、苦しさだけが体にあった。「寂しい」なんて一言では表せない辛さがそこにはあった。


電話がなったのは、夜の十時。見知らぬ電話番号からだった。恐る恐る電話に出ると、声が聞こえた。


何回も聞いた、忘れもしない、お兄の声だった。


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