追想 (以下、白雲鏡視点)

「お〜に〜い〜、あ〜そ〜ん〜で〜!」


「わかったからまってて!あとさわぐな!」



昔から、お兄とはよく一緒に過ごしていた。遊んだ、出かけた、いたずらした、叱られた。仲が良いとは思っていた。一緒にいて楽しかった。『兄妹』というより『親友』のほうが似つかわしい関係だったと思う。


お兄は、凄い人だ。私なんか比べものにならない程に。頭がいい、運動ができる、面白い、優しい。いわゆる『いいお兄ちゃん』なんだと思う。実際私もそう思う。勉強を教えてもらった、遊んでもらった、いろいろ助けてもらった。




でも、怖かった・・・・。そう、怖かった。『自分なんかどうでもいい』そう思ってるように見えて、私には少し怖かった。





「かしらかしらご存知かしら?」


「どうしたどうした妹よ?」


「そろそろクリスマスが近いってさ」


「カップルがイチャコラする日だろ?興味ないね」


「そっちの意味じゃないよ……」



お兄は女性に縁がない。友達はいるらしいけど遊びに行ったりは特にしていない。やっぱりコンプレックスなのだろうか、『クリスマス』というワードには敏感らしい。



「『相手がいる?』とかじゃなくて、『プレゼントどうする?』って聞きたかったの!」


「プレ……ゼント?」


「初めて聞いたんじゃないから分かるでしょ?クリスマスといえばプレゼントでしょ、お母さんから何もらうか決めたの?」


「……ああ、そっか、もうそんな季節か。もう決めてあるよ、何にするか」


「お兄って毎年もらったもの見せてくれないよね。何もらってるの?現金?」


「そんな夢のない物はもらわない。でも、まあ見せる必要がないしね。なんでもよかろう」



私の一番古い記憶は、三歳の頃のクリスマス。そのときから毎年クリスマスを一緒に過ごしているはずだけれど、一度もお兄のプレゼントを見たことがなかった。



「今年くらいはさ、見せてくれてもいいんじゃない?だって、もし受かったらさ、一人暮らしするんでしょ?もう見る機会がないから答え合わせしたいの!」


「クイズじゃないんだからさぁ……。まあ、さっきも言ったけど見せても面白くないからなぁ……別に良くね?なんでも」


「隠されると余計に気になるもんじゃない?少しくらい「はい、休憩おわり!部屋に戻ってまーす」



行っちゃった……。隠してるんだか、本当に必要ないと思ってるんだか、いまいち分からない。



「あ、鏡。遊はもう部屋に戻った?」


「……戻ったよ。勉強しに」


「そう、ちゃんと時間通りに勉強してるんだ。それならいいか」


「やっぱり偉いよ、お兄」


「普通、普通だよ。そうでなきゃいけない」



いつも言っている『普通』の二文字。それがお兄にとっては『普通』なのだろうか。彼女・・が言うそれは、彼女の基準であり、お兄のそれではないはずなのに。


いつから、こんなふうに考えるようになったんだろう。お兄と一緒の時間が増えた。話す時間が増えた。そして、親を親だと思えなくなった。


知っているはずだ、いつそうなったか。何がきっかけだったか。





「なーんでこんな問題も解けないかなぁ!?」


「ごめんなさい……」


「このくらい解けなきゃじゃない!?」



初めて見たのは、お兄が中学生二年生になってすぐの頃だった。私は小学六年生だった。二階にある私の部屋から一階のリビングに下りると、お兄とお母さんがいた。部屋を出た最中から声は聞こえていた。


今思えば、ここで階段を下りてなければ良かったかもしれない。でも、ここで下りたから分かったこともあった。どちらを選んでいたら、純粋に家族を愛せていただろうか。




まず目に入ったのは、お母さんの背中。


一段下りたら、腕が見えた。握りこぶしには、血管が浮かび上がっていた。


一段下りたら、脚が見えた。何度も何度も前後に動いていた。


一段下りたら、お兄が見えた。お母さんの前で、うずくまっていた。


私は動けなかった。その分、頭は冴えていた。不気味なくらい冷静な頭で、ようやく状況を理解した。


お母さんは、お兄を、蹴っていた。


何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も


何度も蹴っていた。



「何してんだぁぁぁぁ!!」



理解した瞬間、体が動いていた。階段を駆け下りた。彼女・・を睨んだ。飛びついた。押し倒した。動けないように足で腕を抑えた。でも、止めるだけじゃ足りなかった。


殴った、力の限り。自分のためじゃない。殴られているお兄のため、お兄よりも力が弱い分、何度も。


何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も


何度も殴った。



「おい!何やってんだ、やめろ!」


「だってお兄が……!」



お兄を見て愕然とした。見ていた瞬間はお腹の辺りを蹴っていたが、それだけじゃなかった。顔にも、脚にも、痣ができていた。唇が切れて血が流れている。いつも長袖ばかり着ている理由を理解してしまった。



「あぁぁぁぁぁぁぁ!!」



途端に視界が歪んで、どんな表情をしているのかすら分からなくなった。今殴っている相手の表情も、助けたかった人の表情も、何も見えなくなってしまった。頬を流れる水の温度と、私があげた言葉にならない声は覚えている。





お兄は私を抱えて家から飛び出した。殴っていた彼女は止めるほどの力が残っていなかったらしい。家から出ていく寸前にうめき声は聞こえてきたが、追っては来なかった。私の力でも大人をここまで傷つけられるらしい。


近くの公園でお兄は私を下ろした。抵抗はしなかった、連れて行かれるときもそうだったけれど。まだ足りないと思っていたけれど、それ以上に疲労感がひどかった。体と心、どちらが重かったのか、私には分からなかった。



「なんで、なんで、あんなことをした?」


「……なんで、そんなことも分からないの?」


「分からねぇよ、なんでだ?なんで「なんであんなことされて何もしないの!?」


「……は?」


「なんでやり返さないの?逃げなかったの?怒らなかったの?あんなに蹴られてたのに、謝るだけなんて!」



友達に殴られても、他人に殴られても、誰に暴力を振られても、やり返す権利はある。ましてや、原因はテスト。たかがテスト。そんな理由で人を傷つけていいわけがない。



「やり返さなくてもいい、でも、なんで逃げないの?痛くないの?そんな怪我でなんで?口だって切れて血が出てる!」



ここまでしておいて何が親だ、子供を傷つけておいて何が親だ、守るのが親じゃないの!?ここまでされて何もしていないお兄は、一体何を考えているの?



「だって、これが普通だろ?」


「……え?」


「昔っからこれだよ、心配なんてない。ただ、一学期最初のテストだったから気が張ってたんだろうね、結構やられちゃった」


「え……待って……『普通』って言った?『昔っから』って?」


「そう、だから止めなくても良かった、あのままで良かった、俺が悪いだけだったんだから。だって、みんなそうだろ?」



私が見てない間、お兄はずっと、同じことをされてきた。その事実は、残酷だった。私が見ていれば、もっと早く止めていれば、ここまで酷い怪我をしていなかったかもしれない。こんなことを普通と思わなかったかもしれない。今のこの状況が、全て私のせいだと思ってしまった。



「……ごめんなさい……!」


「いいんだよ、そこまで気にすんなって」



笑顔で私の頭を撫でながらお兄は言った。きっと、なんで謝っているのかすらお兄は理解していない。私が謝りたいのは、知らなかったこと、止められなかったことなのに。





私が泣き止んでから家に二人で帰った。何を彼女に言われるかと思い、恐ろしかったが、何も言われなかった。非難も、謝罪も、何もなかった。不気味でしかたがなかった。何を思っているのか、分からないからこそ怖かった。


父が帰宅した直後に、彼女のこの行動を知っていたのか尋ねた。答えは「イエス」だった。



「なんで、なんで知っていたのに止めなかったの!?」


「なんでって言われてもなぁ……母さんに二人の成績とか友達とかの件は任せてるからなぁ」


「それが止めない理由になんてならないでしょ!?知っていてそれなら、もっとたちが悪い!最低!悪いことだって分からないの!?」


「どう母さんが二人を育てたって、俺は口出ししない。俺は母さんを信頼してるんだ、きっとそれが最善なんだよ」



確かに、彼が私たちと会話することは少なかった。干渉しないようにしていたのだろう。ただ、理由が分からない。


「そんなわけないでしょ!?そんなことが許されるわけがない!ふざけないで!早く母さんを止めて!お兄が辛い思いをして「辛いのは俺だってそうさ!そうだったさ!」



父さんの顔が怖くなった、怒りの他にも、恐怖が混ざって、ぐちゃぐちゃになった顔。



「あいつが可哀そうだから助けろってか!?ふざけんな!俺が二人が生まれる前、どれだけ辛かったか知らねぇだろ!止めたらどうなるか、お前は知らねぇだろ!ああもう!なんで……なんでこんな奴と結婚したんだよ俺はぁ……!」



の事情は知らない。知らないが、どうやら彼女は昔からこうだったと理解した。きっと、全てが思い通りになると思い込んでいる屑なんだろう。


なんで……なんでこんな人からお兄が生まれたんだろう。あんなに優しい人が。なんでこんな所に生まれてしまったんだろうか。幸せになるべき人なのに。





思い出すだけで、苦しくて、悲しくて、吐き気がする。未だにお兄と私は、逃げずにこの家で暮らしている。屑二人がいるこの家で。私は違うと胸を張って言えるが、お兄はきっとこの生活を『普通』と思ったまま。


一度だけ、私が中学生になってから、児童相談所にこの件を言ったことがある。それでも、何も変わらなかった。何の変化も、その後にはなかった。テレビでもよく耳にするが、やっぱり意味は無いのだろう。だから今もこうして、ここで暮らしている。私は二人から罵声を浴びせられた。でも、それだけで済んだ。


私は、髪を金髪にした。見た目だけでも強く見えるように。陸上部に入った。お兄が何かされても止められるように、逃げられるように。校則を破った。不良だと思われるように。友達をたくさん作った、何かあった時に頼れるように。家にいるようにした、いつ何があっても止められるように。勉強をした、お兄を心配させないように。




誰もお兄を助けないなら、私が助ける。そう決めたから。




そのおかげか、お兄の痣は少なくなっている。でも、新しいものもちらほら見える。きっと私が居ない間に、また殴っているのだろう。でも、証拠がないから私もやり返せない。


今日は一日中家にいる。クリスマスくらいは、幸せに過ごしてほしいから。今はまだお兄は笑顔だ。クリスマスなんていらないと思えるくらい、それが嬉しかった。

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