帰るべき場所

鏡の大きな声が電話ボックス内に響き渡る。思わず耳を受話器から遠ざけたが、お構いなしに何かを話していた。



「あ〜分かった分かった!心配させたことは悪いと思ってるよ!」


「本当に心配だったんだからね!一日居ないくらいなら『多分どこかに泊まってるんだろうな』で済むけど、二日居ないのは心配するって!なんで帰ってこないの!?」


「分かったからちょっと落ち着けって!今から話すから!」



湯船につかりながら考えたことを思い出す。慎重に、間違えないように、堂々と。



「ところで、母さんと父さんって居る?」


「母さんは今リビングに居る。父さんは残業。私は二階の自分の部屋。呼んでくる?」


「いや、いい。後で伝えておいて」



『両親とは話さない』これはまずクリア。ここから乱入でもされなければ恐らく話すことはない。理解すると同時に心が軽くなった。不安の種が一つ消えたのは大きい。



「まず、今どこに居るのか教えて!スマホも置いてったから連絡できなかったじゃん!」


「えーと、今は友達の家にいる」


「はあ?お兄そんなに友達いないじゃん。お泊りできる友達の家があるの?」



……相変わらずオブラートに包むことを知らない奴だ。言葉は刃物だって教わらなかったのだろうか。そもそもお前がコミュ力おばけなだけなのに……。ここで言い争いになっても仕方がないので話を進める。



「うっせえ、あるんだよ。」


「へえ、もしかして終電逃して泊まってるかんじ?」


「違う、まだ都内にいる」


「は?遅くない?早く帰ってきなよ」



言われるとは思っていたが、いざ帰らないと言うことを考えると少し躊躇してしまう。僕のこれは自己中心的な行動で、迷惑をかけることも知っている。罪悪感は捨てきれない。結局は帰りたくないだけだ……それでも、自分が初めてしたいと思えたことのためなら。



「いや、しばらく帰らないつもりでいる」


「はあ!?なんでどうして!?え、なに、私悪いことした?」


「いや、違う。違うからとりあえず落ち着いて」



想像以上に取り乱していることが伝わってくる。罪悪感は増すばかりだが、もう決めたことだ。それにいつかは帰るだろうから、そこまで苦しむことではない。今生の別れなんかじゃない。またいつか、帰るはずだから。



「今、浪人生じゃん、俺って。それでさ、今まで自分で勉強してたけど、それでも足りねえなって思ったの」


「足りないって……お兄めちゃくちゃ勉強してたじゃん!その……たまたまだって、きっと!次は絶対受かるよ!」



鏡は明らかに平常心ではない。その証拠に声が震えている。自分のエゴで不安にさせているのだから申し訳なく思う。だが、それを気にしていたら帰るしかなくなる。きっと鏡は、俺が居なくてもやっていける。そのはずだから、不安はない。



「とりあえず最後まで聞いて。……それで、俺の友達が今一人暮らししてて、俺の志望校に通ってんの。先生とも仲いいから試験の作り方とか知ってるわけ」


「それ超ダメなことしてね?やだよ、お兄のことニュースで見るの」


「バカ、別に問題リークしてもらってるわけじゃねぇ!ただ対策とかは知ってるから、それで今勉強教えてもらってるの!はあ……そんで、こんな機会は他に無いだろうから、ここで勉強しようと思ってる」


「え?お兄時間間隔までおかしくなった?あと四ヶ月帰ってこないってことじゃん!」



いつ帰るかは全く決めてない。最短も最長も全く決められない。帰宅予定日なんて正確に言えるわけがない。



「落ちたらどうなるか分かんねぇけどな」


「受ける奴がそんなこと言うなって……って、そんなこと気にしてるんじゃないの!なんで急にそんなことになったの?」


「俺も急にこんなこと言うのは申し訳ないと思ってる。でも……これ以上家族に迷惑かけたくないんだよ。受かんなくて、母さんの努力も無駄にして……。もしもこれで受かれば、きっと最後になるから、これ以上は迷惑かけないと思うから。だから、最後のワガママを許して欲しい」


「そんなの、私の決めることじゃないよ!てか何?『最後のワガママ』?今までそんなこと一回も言ってこなかったじゃん!なんで、なんでお兄がそんなこと言うの!?しかも『迷惑かけたくない』!?我慢してきたのはお兄のはずなのに、ずっと辛かったのはお兄のはずなのに!なんで……!」



受話器の向こうで嗚咽と鼻をすするが聞こえたような気がした。鏡の声だろうが、なぜ泣いている?



「……私は、お兄は頑張ってると思ってる。だから、お兄の言うワガママは許されてもいいと思ってる。でも、ここまで心配させたのは、許さないから」


「……しばらく帰ってこないかもしれない、それでも、許してくれる?」


「許すのはお兄のほうだよ。……だって、多分嘘だよね、帰ってこない理由」



見破られていた!しかも、ついさっきまでは信じ切っていたはず。だとしたら、今の一瞬で気付いたことになる。……でも、じゃあなんで鏡は詳しい理由を聞いてこない?普通は聞いてくると思うが……しかも、理由は分からないはず。



「いつ、嘘だって気付いた?」


「最初は、本当なんだろうなって思った。でも、お兄はそうする理由が多すぎるよ。受験だけじゃない、お母さんのことだって「私が何?」



……最悪だ。今聞こえたのは、母さんの声だ。





「え、お母さん!?なんで!?」


「だった、鏡の声が聞こえたからさ、どうしたのかな〜って。それで、今話してるのは遊、でしょ?ちょっと代わって?」


「なんで代わんないといけないの?」


「だって、親なんだから。一応何してるかくらいは知っておいて損はないでしょ?」



受話器を持つ手が再び震え始めた。今すぐにでも切ってしまいたい、そう思うほどに恐怖心が湧いてくる。背筋は凍ったように冷たくなり、歯はガタガタと音を立て始めた。何を言われるだろうか、何をされるだろうか。自分のためとは言え、きっとこれは許してくれない!



「ねえ、遊。今電話代わったよ。ところで……どうして帰ってこないのかな?」


「あ……えっと……」


「ねえ、なんでかは、理由くらい教えてくれない?」


「……えっと、俺は受験に失敗して、勉強しなきゃって思ったから。出掛け先で志望校に通ってる友達がいて、自分が一人で勉強するよりも、教えてもらったほうが良いと思って……それで、受験まではそこで頑張ろうって思って……」


「つまり、受験のために志望校に通う友達に泊まり込みで教えてもらうってこと?」


「あ……そう、合ってる」


「ふ〜ん」



しどろもどろになってしまったが、考えたことは伝わっている。ただ、伝わっているだけだ。これから何を言われるのだろうか。




「あっそ、良いんじゃない?」




「「……はあ?」」



鏡も同じリアクションをしたらしく声が二重に聞こえた。聞こえてきた言葉が罵倒でも大声でもなく、肯定?明らかに不自然だ。



「え……つまり……泊まり込みを許すってこと?」


「え?他に何があるの?別にいつ帰ってもいいし、ただ理由を知りたかっただけだよ?」


「確かにそう言っていたけど、でも……本当に?」


「ねえ、何度も言わせないで。『良い』って言ってるじゃん。それじゃあ、せいぜい気をつけてね」


「は?ちょ……」



電話が切れた。唐突に、俺の返事を待たず。……許してくれた、許可した、ということで良いのだろうか。騙せたのだろうか。そう思ったら急に全身の力が抜けてしゃがみこんでしまった。兎にも角にも、今はこれでいい。……これでいいのだろうか。





「すみません、開けて下さい」



オートロック付きのマンションのエントランスへのドアを開けてもらい、エレベーターに乗り、無事に部屋の前まで来た。未だに母さんの言葉が気になる。心配もせず、怒りもせず、ただ肯定するだけ。それに違和感を覚えていた。



「戻りました……え、どうしたんですか?」



ドアを開けるとパジャマを着た月矢さんがいきなり抱きついてきた。シャンプーとボディーソープの優しい香りが僕を包んだ。恥ずかしさもあったが、ここまで不安にさせたことへの申し訳無さが勝った。もう少し早く帰ってくれば良かったかもしれない。



「……おかえり」


「はい、ただいま」


「帰ってこないかもと思ったら、怖くなった」


「約束したじゃないですか、僕は絶対帰ってくるって。今はここしか、帰ってくる場所がないんです。そんな場所を手放したりしません」


「うん、良かった」



月矢さんの手の力が抜けてきた。それでも背中に回していた腕は腰の辺りに置き、顎は肩の上に乗せたままで、体は遠慮がちに僕に預けていた。彼女の体温が服の上から伝わってくる。外の気温とは違った、心地よい体温が。



「安心しました?」


「うん……でももう少し、このままで」


「……はい」





僕が道中買った歯ブラシで歯磨きを済ませた後、月矢さんは僕が寝るスペースを確保してくれた。テレビの前にあったソファーの背もたれを倒し、ブランケットをかけてくれた。枕はクッションだった。一度寝っ転がってみると、以外にも寝心地が良く寝そうになってしまった。



「うとうとしてるよ?」


「昨日と同じくらい濃い一日だったので……」


「うん、お疲れ様」


「はい。……改めて、ありがとうございます」


「うん、こちらこそ。君のおかげで楽しくなりそう」



また悲しそうに笑った。隠しきれない何かを隠している月矢さん。僕がここにいることは、本当に彼女のためになるだろうか。隠すことを強いて、苦しめてはいないか。いつか少しでも吐き出させてあげられたら、恩返しになるだろうか。



「月矢さん、お金の話したときに株がどうとかって言いましたよね」


「うん、それがどうしたの?」


「あれ、嘘ですよね?」


「……どうして分かったの?」


「右上を見る行動は、人が嘘をついたときにする特有の行動なんです」


「……じゃあ次からは気をつけるよ」



話してはくれなかった。急ぎすぎただろうか。……もしかして、僕が今やりたいことって『月矢さんの苦しみを和らげる』ではないだろうか?


それなら、今はやっぱり急がなくて良い。秘密が知りたいわけじゃない。ただ、苦しそうな顔をさせたり、泣かせたりしたくない。それなら、突貫作業は以ての外だ。


僕が彼女に助けてもらっているように、僕もいつか彼女を助けられたら、それはどれだけ嬉しいことだろうか。そんなことを思い、深い眠りについた。





「ねえ、なんで電話切ったの?まだ話したいことあったのに……」


「だって、もうどうだっていいから」


「……は?」


「もう、あいつ・・・はどうだっていいの」

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