第5話 母親 Ⅰ
平日の午前十時発、大阪行き新幹線ひかり号8号車には、発車間際になっても十名ほどの客しか乗車していなかった。
車両の真ん中あたり、三列シートの窓際の指定席にどっかと座る南のところへ、田所が紙コップのホットコーヒーを運んできた。
南がプラスティックカバーを用心深く取ると、煎れたてのコーヒーの香りがあたりに漂った。南は満足そうにその香りを胸いっぱいに吸い込むと、おもむろに一口飲んだ。
――うん、まあまあだな。
田所は南の表情を確かめると、背もたれに身を預けて自分も飲み始めた。
二人は、レミナの母親に映画撮影の継続を報告するため、清水にあるレミナの実家に向かっているところだ。
彼がほっと一息つくのもつかの間、南が話し掛けてきた。
「レミナの実家は、清水の名家のようだな」
「ええ、レミナの実家、藤巻家は、元は由緒正しい名主の家系で、昭和の時代まで製紙会社を経営していました。その後会社は大手製紙会社の傘下に下りましたが、それでも地元では有数の資産家であることには間違いありません」
「そんな名家だからか、娘が芸能活動していることに良い顔をしなかったんだな。だったらなぜ芸能界にデビューできたんだ?」
「その経緯にはいろいろありまして……」
田所はその経緯をぽつりぽつりと話し始めた。
レミナ――本名は藤巻
「まあ一般家庭でもよくある話なんですけどね」
本来なら話はここで終わっているはずだったのだが、母親の姉、つまり伯母が絡んできた。
藤巻家は男児に恵まれず、長女と次女の二人姉妹だった。
この伯母は実家の息苦しさに耐えかねていたのか、若い頃に映画女優になると勘当同然で家を飛び出したものの、結局ものにならず実家に舞い戻ったが、その間に、妹、つまりはレミナの母親が婿をもらい、正式に実家を継いでいた。
「伯母は面白くなかったでしょうが、それは自業自得なのでどうしようもない。その結果親戚一同から総スカンを喰らって居づらくなり、結局は家を出ました。今はお店を構えたりして手広くやっているようです」
「それで、その伯母がレミナとどう絡んでくるんだ?」
「実は伯母はまだ芸能界に未練があったらしくて、レミナを売り込んでステージママになろうと企んだんですよ」
「すると何か、レミナの母親に黙ってマスカレード
「そうなんです。レミナもアイドルになりたがってましたから、渡りに船とばかりに、その誘いに乗ったんです」
「それで採用した、と」
「いいえ、表向きは不採用でした」
「何だって?」
「私どもはまさかそんな事情を知らなかったもので、合格通知を実家に送ったところ、母親に知れることに……」
田所の額に大粒の汗が浮かんでいる。
「事情を知った母親は、怒り狂って事務所に怒鳴り込んできました。当然合格の辞退ということになりかけましたが、レミナがせっかく合格したのにと頑強に抵抗しまして、最後は親子で話し合った結果、二十歳までの期間限定、素顔が割れたところで引退ということで決着したんです」
――だからこの初主演映画で引退なのか。
南は合点がいった。この映画で仮面を外す意味はそこにあったのだ。だから監督もそこにこだわっていた訳だ。
「それで伯母はどうしたんだ」
「その時、伯母には一切関わらせないことを約束させられまして、伯母には不採用だったということで、口裏を合わせました」
「伯母には娘の芸能活動を秘密にしていたということか」
「ええ……、彼女どころか親戚も知らないはずです」
「よく今までばれなかったな」
「叔母は、レミナがマスカレード
南は残りのコーヒーをぐっと飲みほした。そのコーヒーが喉を下っていくのと同時に、ある思いが湧き上がってきた。
――この伯母が、そのまま大人しくしていてくれればいいんだが。
南が考えを巡らせているうちに、新幹線は時間ぴったりに清水駅に滑り込んだ。
二人は夏季用スーツの上着を抱え、席を立った。冷房の効いた車内から駅のホームに降りた途端、ムッとする熱気が二人を襲った。
二人のワイシャツは改札を抜けるころには早くも肌に張り付いていた。
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