逃げろ!

かいばつれい

逃げろ!

 人気のない夜更けに、駅の東口側にある古い飲み屋通りの路地裏で、健介は高く積み上げられたビールケースの影に、息を潜めて身を隠していた。

 「クソ野郎どこだ!とっ捕まえてぶっ殺してやる!!」

 通りから男の殺気じみた声が、数人の足音と共に聞こえた。

 健介はこの物騒な物言いの男とその取り巻きに襲い掛かるために隠れていた。

 

 今から五時間ほど前、健介のバイト先の鍋料理店に、バイトの先輩の友人だという男がやって来た。

 郷沼という名前のこの男は、中学生時代から地元では有名な不良で、首筋には髑髏の、両手の甲には薔薇のタトゥーがあり、刈り上げた頭の両側に剃り込みを入れていた。郷沼は少年院上がりを自慢し、へつらう者たちを舎弟にして従え、同級生や後輩の店を払うつもりのないツケで飲み歩いていた。

 席に着いた郷沼は健介に、何か芸をやってみせろと迫ったが、彼はこれを頑なに拒否した。健介の態度が気に食わなかった郷沼は健介を殴ろうとしたが、二人の間に健介の先輩が割って入り、代わりに拳を受けた。郷沼の行いに激昂した健介は、郷沼の眉間に樹脂製の灰皿を投げつけてしまった。

 激痛で郷沼が顔を押さえる。

 「あ──」健介は頭の中が真っ白になった。

 郷沼の切れた眉間から黒みを帯びた赤い血が流れた。

 「行け、逃げろ!健介!!」

 前歯が欠けた先輩が健介に叫ぶ。

 健介は頷き、咄嗟に店を飛び出した。

 自宅まで止まらず走り、たどり着くと、玄関のドアの鍵をかけ同居している兄を呼んだ。 

 「どうした健介?汗びっしょりじゃないか」

 健介は兄に、郷沼に灰皿を投げつけた一件を話した。

 「そりゃまずい。きっとやつはここに来るぞ」

 「警察に通報しようか。僕も傷害罪になるのかな?」

 「それは何とも言えん。だが、警察を呼んでも無駄だろう。お前は警察が着く前に郷沼に殺されるかもしれない」

 「そんな」

 「あいつならやりかねない。年少に入ったのを勲章にしてる男だからな。殺人罪で警察に捕まれば、それこそ、やつにとって国民栄誉賞だ」

 「どうしたらいいんだ」

 健介は天を仰いだ。

 「こうなったら逃げるしかない。お前は今から必要最低限の荷物を持ってこの町から逃げるんだ」

 「逃げるってどこへ?」

 「電車に乗って東京へ行け。木を隠すなら森の中と言うだろ。人を隠すなら人の中だ。あれだけ人の多い場所なら、お山の大将の郷沼には見つけられっこない」

 「兄さんは?」

 「俺はここに残る。郷沼が来たら、弟は北海道か沖縄に逃げたとでも言うさ。俺のことは気にするな。早く支度しろ」兄は押し入れからボストンバッグを引っ張りだした。

 「逃がした腹いせに何かされたりしないよね?」

 「そん時はそん時だ。とにかく急げ」

 別れ際に兄は、健介名義の通帳を健介に渡し、絶対に手紙を送ったり電話をかけたりするなと強く言って彼を送り出した。

 健介は涙を堪え、幼い時に両親を失って以来、兄と共に過ごしてきた、そしてもう二度と帰ることのない生家を後にした。

 

 健介は誰にも見つからずに駅の東口に到着したが、駅の前には既に、郷沼の取り巻きたちが待ち構えており、健介は駅に入ることでができなかった。時折、連中の一人がスマホで誰かと連絡している様子から、西口にも仲間が待ち構えているようだ。

 健介は電車に乗るのを諦め、飲み屋通りの裏路地に隠れてやり過ごすことにした。

 やがて終電が過ぎ、飲み屋も店を閉めてしまい、辺りは静寂に包まれた。

 五時間ほど経ち、表通りから車のやかましい排気音が鳴り響き、数人が車から降りる音が聞こえた。

 健介はビールケースの裏から少しだけ顔を出して様子を窺った。

 街灯の真下にいる人影の顔がはっきりとわかった。

 眉間に絆創膏を貼った郷沼が、車から降りる姿が見えた。手には金属バットが握られている。

 「あのクソ野郎を見たってのはこの辺か?」

 「はい。顔見知りが立ちんぼしてたんで、そいつに聞いてみたら、挙動不審なガキがいるのを見たって言ってたんです。間違いなくあのガキです」

 「駅には入ってないんだな?なら野郎はまだ近くにいるはずだ。そこら中しらみつぶしに探せ」

 「わかりました。ところで、あのガキの兄貴は?」

 「二、三回ぶん殴っても北海道か沖縄に逃げたとしか言わなかったから、鍋屋の後輩と同じように、動かなくなるまで蹴ってやった。死んだかもな。馬鹿なやつらだ」

 その会話を聞いた途端、健介は再び怒りが込み上げてきた。

 なんてことだ。

 あんな人間のクズに兄さんや先輩が殺されたなんて。

 僕のせいだ。僕のせいで二人は殺されたのだ。

 僕が二人を殺したのも同然だ。

 あの時、先輩が殴られるのを黙って見ていられなかったから灰皿を投げた。しかし、その行為が逆に犠牲者を増やしてしまう結果になるなんて、その時は考えもしなかった。

 許せない。あの人間の皮を被った悪魔が許せない。

 もう隠れてなどいられるか。

 こうなったら、僕が直々にあの悪魔を葬ってやる。

 健介は転がっていた一升瓶を拾い上げ、逆さに握った。

 「クソ野郎どこだ!とっ捕まえてぶっ殺してやる!!」

 郷沼が叫ぶ。

 健介は今すぐにでも飛び出したい衝動を堪え、奇襲のタイミングを待った。

 郷沼たちの声がだんだん近づいているのがわかった。

 あと三メートル、あと二メートル、あと一メートル。郷沼たちが通り過ぎた。今だ!!

 健介が飛び出して、後ろから郷沼を襲おうとした瞬間、健介の視界から郷沼と取り巻きたちが姿を消した。

 正確には、歩道に突っ込んできた車が郷沼たちをはね飛ばしのだった。

 郷沼たちは、ボーリングのピンのように宙を舞った。

 一瞬のあと、健介は、アスファルトに強く打ちつけられた郷沼と目が合った。虚ろな瞳でこちらを見つめる郷沼の身体は、ぴくりとも動かなかった。

 健介は状況を理解するのに十秒と掛からなかった。

 悪党たちは一瞬で全滅したのだ。

 郷沼たちをはねた車から、顔を真っ赤にした泥酔状態の男性が降りてきた。

 「・・・ん、あれ、轢いちまったかな、ひっく。ったく、こんな夜中にぞろぞろ歩いてんじゃねぇよ。おい、生きてるか?ん?」

 誰からも返事はなかった。

 仇敵がこの世からいなくなったのを悟った健介は、駅へと入り、始発を待って町を離れた。

 

 しばらくして、東京の生活に慣れてきた健介は、風の噂で兄と先輩の生存を知った。何度か地元に帰りたいという思いがよぎったが、その度に健介の脳裏に、あの夜の郷沼の顔が浮かび、健介は地元に足を運ぶ気になれなかった。

 健介は生き残る代償として、唯一の家族と故郷を失ってしまったのだ。

 彼には地元の駅の東口がどんな形をしていたのか、もう、思い出すことができなくなっていた。

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