第26話 嵐の後

 ラウル様はパーティー会場となっていた大広間から出ると、ようやく小さく息を吐いた。隣にいる私はラウル様の顔を覗き込み、傷口を改めて診る。



「ラウル様、大丈夫ですか? まだ血が滲んでいますが……」


「この程度ならすぐに治るさ」



 ラウル様は苦笑いを浮かべながらそう告げる。だけど私は申し訳ない気持ちで胸が一杯だった。



「申し訳ありません、私がダニーを刺激したせいで……」


「エルシーが謝ることじゃない。あの娘が勝手に暴走しただけだ」


「ですが……」


「それにしても、あのダニーという娘は凄まじいな。あの娘と一緒に暮らしてきたのだから、男爵家にいた頃は相当苦労したのではないか?」


「……それは」



 私は返答に窮してしまう。確かにダニーは昔から私を敵視していた。何かというと私に絡んできては嫌味を言ってくる子だった。


 私の意識は常に米作りに向いていたから、大して気に留めていなかったけど……それでも嫌われているのは伝わってきた。


 従姉妹同士だから仲良くしようと私から歩み寄った時期もある。でも、それがかえってダニーを刺激する結果になってしまった。


 ダニーにとって本家筋の私の存在は、分家筋である己の立場を揺るがしかねない脅威と認識されていたから。そのことが分かってからは、なるべく干渉しないように距離を保つようにしていた。


 でもまさか、国王陛下の生誕祭でラウル様にグラスを投げつけるなんて……。



「お顔に傷が残ってはいけません。部屋に戻って手当てしましょう」


「君を守った傷が残るのなら、俺にとっては勲章も同然だがな」


「冗談はよしてください。そんなことになったらラウル様のお顔を見る度に罪悪感を抱いてしまいますよ」


「それは困る。俺と向かい合う時の君は、常に幸福でいてほしいからな」


「もう……軽口を言っている時ではありませんよ。口説くなら後にしてください」



 私はラウル様の腕を取り、私たちの為に用意された部屋に戻る。


 ラウル様の頬の傷に触れ、清潔な布で改めて傷口を拭いてから薬を塗ってガーゼで覆う。



「ありがとうエルシー」



 ラウル様は微笑むと、そっと私の手を取った。



「傷の手当は終わったから、もう口説いても大丈夫だろうか」


「だ、駄目ですよ。このパーティーが終わるまでは」


「困ったな。俺はもう君を片時も離したくないのに」



 ラウル様は大袈裟に肩を竦める。その仕草が妙に子供っぽくて思わず笑みを零してしまった。


 それにしても……痩せてからというもの、ラウル様はこういう色男っぽい振る舞いが多くなった。


 元々洗練された所作が美しい貴族の紳士だったラウル様。自分の容姿に自信を持った今、彼はこれまで貴族の嫡子として培ってきた紳士の対女性スキルをすべて私にぶつけてくる。


 整った容姿に情熱的な瞳。これまで色恋に興味なかった私でも、こうもストレートに好意を向けられるとさすがに照れてしまう。



「……ところで」



 ラウル様は急に真剣な表情になる。



「先程宣言した通り、俺はスカーレット男爵家への援助を行うことはできない。あんな仕打ちをする人間がいる家だと分かった以上、援助する理由はないからな。……だが君にとって、スカーレット家は生家だ。もし異論があるのなら、この場で言ってほしい」


「……いいえ、ありません」



 私は少し迷った末に答える。……確かに私たちの婚姻は二つの家を繋ぐ為という意図が最初はあった。


 けれどダニーがラウル様にこんな怪我をさせた以上、ラウル様が援助する義理はない。それに……。


 これまで自分がどれだけバカにされても平気だった。でもダニーが結果的にラウル様を傷つけたことだけは……今までのように受け流せない。



「スカーレット男爵家はブルーフォレスト辺境伯家のご当主ラウル様を傷つけました。見放されても仕方がありません。本当なら私との婚約だって解消されても文句が言えないのに」


「何を言うんだ。エルシーとの婚約を解消するわけがない」


「ラウル様……」


「こんな傷、傷のうちにも入らない。どうでもいい。……俺は君が侮辱され、辛い仕打ちを受けていたことに対して怒っているんだ。大切な妻を虐げていた家に援助する必要はない。そう判断したまでだ」



 ラウル様は私の目を真っ直ぐ見ながら告げた。……ああ、本当にこの人は、私のことを大切に思ってくれているんだ。そのことを改めて実感する。



「……ありがとうございます、ラウル様。とても心強いです」

「当然だ。俺は君の夫になるのだからな」



 ラウル様は私の腕を引き寄せて優しく抱き締める。私もラウル様のお気持ちに応えようと、自分の腕を彼の背中に回そうとしたその時――。


 コン、コン、コン。ノックの音が聞こえてきた。私は弾かれたように体を離す。



「だ、誰ですかっ!?」


「お休みのところ失礼いたします、ブルーフォレスト辺境伯。近衛兵の者です。先程大広間にて騒ぎがあったとのことで、事情を伺いたく存じまして――」



 扉越しに近衛兵の声が聞こえる。……そっか、国王陛下の生誕祭の最中にあんな騒ぎがあったんだもの。王家を護衛する近衛兵としては放ってはおけないわよね。


 声をかけられたのはラウル様だ。ラウル様に視線を送ると、彼は小さく頷いた。



「分かった、今行く」


「ありがとうございます」


「エルシーからも色々と証言してもらいたい。いいか?」


「はっ!」


「かしこまりました、ラウル様」



 ラウル様が扉を開き、近衛兵の人々を招き入れた。


 それから私たちは大広間で起きた騒動の顛末と、何故そんな事態が発生したのか――ダニーのこれまでの経歴や、彼女の気性について説明することになった……。




◇◆◇




 後日、ブルーフォレスト領に戻った私の手元に叔父からの手紙が届けられた。


 当然ながら、叔父の耳にもダニーの生誕祭での乱行はすぐに届いた。生誕祭の夜、叔父は離れた場所で他の貴族の接待に当たっていたそうだ。


 騒ぎに気付いた時は既に遅く、スカーレット男爵家は貴族界での地位を失墜させることになった。


 近衛兵の方々は私とラウル様以外にも、あの場にいた貴族全員に事情聴取を行った。……その結果、非は完全にスカーレット男爵家側にあると判断された。


 もはや味方は誰もなく、叔父はスカーレット男爵家への汚名を受け入れた。


 貴族たちからの白い視線もあって、さすがの叔父も今回ばかりはダニーを見限ってしまったようだ。



『ダニーは国外の修道院へ修行に出した。修道院で祈りと労働に励み、心を入れ替えてくれることを祈っている。エルシーには今更何を言っても調子のいいことを、と思われるかもしれない。それでも今までの非礼を謝罪させてほしい。私はもっと姪であるエルシーに向き合うべきだった。本当に、すまなかった』



 初めて貰った叔父からの手紙には、要約するとそのようなことが書かれていた。


 これまでの無関心と非礼を詫びる文面を見て、ほんの少しだけ胸が痛くなる。


 もっと早くに和解できていれば……いえ、今さら言っても仕方のないことね。


 起きてしまった事実は変えられない。叔父もダニーも、そして私自身も……これからどう生きていくかが大切なのだから。


 私はエルシー・スカーレットとして血の繋がった親戚たちに、心の中で別れを告げる。


 そして今の自分の人生を――エルシー・ブルーフォレストの人生を生きて行くのだと、改めて心を決めた。

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