勉学の秋
増田朋美
勉学の秋
まだ日中は暑いがそれでも陽射しが減ってきて、だいぶ過ごしやすくなってきた。秋といえば食欲の秋、芸術の秋、スポーツの秋など色々なものが騒がれるが、新しい事を始めるのに、ちょうどいい季節でもある。あたらしくなにか習い事を始めたりとか、新しく家を建て始めるとか、そういうふうにいろんなところで新しいものが始まる季節でもあった。
そんな中、製鉄所に新しい利用者がやってきた。症状としては、非行少女で、何でも幼少期に大病したことがきっかけで、何年か留年した事があるという、勉強嫌いな女性であった。もしかしたら、そのときに、ちゃんと適宜な教育を受けさせてもらうことができたなら、彼女は非行に走らなくても済んだのかもしれない。でもそうはならなかった。いずれにしても、この女性を立ち直らせるには、相当時間がかかると言うことを予測させる、雰囲気のある女性だった。何よりも特筆すべきはその髪であった。女性の髪は派手な黄色に染まっていた。
「えーとまず、貴女のお名前は?「
製鉄所を管理している曾我正輝さんことジョチさんは、そう彼女に聞くと、
「はい、梅澤と申します。梅澤瞳。よろしくお願いします。」
と、きちんとご挨拶してくれるので、そのあたりは心得ているらしい。
「わかりました。それでは梅澤さん。なぜ、こちらに来ようと思われたのですか?」
と、ジョチさんが聞くと、
「はい、家族に一日家に居るより、外へ出たほうが良いと言われたものですから。」
梅澤瞳さんは答えた。
「そうですか。学校にいけなくなってしまったのはなぜか、お話できますでしょうか?」
ジョチさんが聞くと、
「はい。二年間入院していましたが、戻って学校に行ったときに、学校の先生に偉く馬鹿にされて。学校って嫌なところですよね。成績でしかものを見ないし、順位付けで人を馬鹿にするし、なんでこんなふうにしか人を見ないんでしょうね。」
と、彼女はがっかりした顔でいった。
「それで不良グループに入って、おやじ狩りとかもやりましたけど、もうそういう一般の人からお金をとるのもなんだかなあと思うようになりまして。それからずっと気力が出なくなって、家にずっといるようになりました。」
「そうなんですね。なんだか目標とか、欲しいものはありますか?」
ジョチさんがそうきくと、
「はい。今でもどうしてこうなったのだろうとかよく思います。病気になる前は毎日が楽しかったのに。願いが叶うならあの頃に帰りたいけど、それはもうね。だから考えていません。まあ敢えて言えば死ぬことかな。それしか、、、考えてないわ。」
と、彼女はにこやかに言った。
「そうですか、それでもここでは一生懸命やってもらわないと行けませね。そこはなんとか自分を律して貰わないと。」
ジョチさんはそんな彼女を見てそう言った。
「そうですよね。やっぱり私は、自殺したほうが良かったのかな。そのほうが、まわりの人も、私が居ないほうが、ずっと楽になれたかな?」
と、彼女は言った。
「いえ、それはありません。あなたが自殺すれば、必ず誰かがおかしくなります。それは能の演目でもなんでもそのように描かれています。」
ジョチさんはすぐにそういった。
「そんな、能なんて私には、関係ないものでもありますけどね。」
梅澤瞳さんはすぐに言った。
「いいえ、能や歌舞伎など伝統芸能は、今の時代に通じる内容を扱っていることが多いんです。例えばサクラの老樹の妖精が、これ以上森を破壊するのはやめてくれと訴える能もあります。それをバカにしてはいけません。」
ジョチさんはそれを打ち消した。
「どうして私を預かるのに、能の話が出てくるんですか?」
瞳さんがそう言うと、
「まあこれはたとえですよ。いずれにしても、自殺というのは、そういうふうに悪い影響しかもたらさないということをいいたかっただけのことです。だからこそ絶対にしてはいけない。じゃあ、ここに来るに当たって、なにかやりたいことはありますか?勉強でも、内職のような事をやってもいいですよ。」
と、ジョチさんは言った。
「そんな私、何もありません。勉強も嫌いですし、仕事もできそうなこともないし。私にできることなんて、何も無いですよ。」
「そうですか、それなら、こちらでしてほしいことは山程ありますから、それを申し上げましょう。まず初めに、床の雑巾がけ、次に、庭の草むしり、その次には障子の張替え、あとは、風呂掃除もしてくれたら嬉しいですね。こちらを手伝っている方は、僕をはじめ、皆さん満足に歩けない方が多いので、雑用をやってくれる女性は、非常に貴重なんですよ。」
瞳さんが自信がなさそうにそう言うと、ジョチさんはすぐにそれを言った。確かにここで働いている人間は、障害や病気などを持っている人ばかりだ。それは、仕方ないというか、そういうメンバーばかり揃っている。それを補うために、何度か女中さんを募集したことがあるが、いずれも水穂さんに音を上げてやめている。長く持った例で、一ヶ月、短いものでは一日でやめてしまった事もある。
「そういうわけですから、そうですね、草むしりは、暑いですから、床の雑巾がけくらいからやっていただきましょう。雑巾は、掃除用具入れが中庭にありますから、そこから取り出してください。それでは、お願いします。」
「わかりました!」
と瞳さんは、その通りにした。瞳さんは、まずバケツに水を入れて、雑巾をその中へ突っ込んで濡らし、床を拭き始めたが、
「あれまあ、こんな水浸しにして、これじゃあ、車椅子で通れないじゃないか。」
と、杉ちゃんに言われてしまうほど、ベチャベチャに濡れていた。
「床を拭くには、雑巾を濡らすだけではだめですよ。それより、雑巾をちゃんと絞って、水を切ってからやるもんですよ。」
と、ジョチさんが言うほどであった。
「何だあ、雑巾を絞ることも知らないの?」
杉ちゃんに言われて、彼女はすみません知りませんでしたと言った。
「そうなんだねえ。もう、こうすればいいんだよ。ほら、こういうふうにな、雑巾を絞って、しっかり余分な水を取るんだ。」
杉ちゃんは、何も文句を言わないで、雑巾絞りを実演してみせた。こういうときに何だこんな事もできないのかあとか、そのような事は言ってはいけない。ただ黙って手本を見せるのが効果的なのである。
「わかりました。ありがとうございます。」
と、彼女は、そう言って杉ちゃんの見様見真似でやり始めた。びちゃびちゃになった床をちゃんと拭き直して、床をきれいに磨いてくれた。そういうところは根は真面目な女性なのだろう。そういうことだから、非行グループに入っても長続きしなかったのだ。
「失礼いたします。床を掃除しに参りました。ほんの少しお邪魔しますが、皆さんは気にしないで勉強を続けてください。」
と、彼女は、食堂に入った。食堂は、みんなが食事をするだけではない。利用者が、お互いに勉強を教え合ったりする場所でもある。梅澤瞳さんが中に入ると、三人の利用者である中年女性が顔をつけあって、勉強を教えあっていた。別のテーブルでは、若い男性が、一人の女性と一緒に、勉強をしている。利用者の中年女性たちは、何処にでもいそうな中年女性であるが、男性の方が少し様子が違っていた。彼の近くに二本の松葉杖がある。彼は、家庭教師と思われる女性に勉強を教えてもらっているようであるが、先程の女性たちとは、真剣味が違っていた。
「はい、良く解けていますね。答えは間違っているけど、自分で答えを考え出そうとしているのは、すごく良いと思うわ。」
家庭教師と思われる女性は、そう男性に言った。
「ありがとうございます。藤原先生。」
と、彼はそう言って頭を下げるのだった。
「いいえ、じゃあ次は、社会科の勉強に行きましょう。社会は、事例を物語として、小説みたいにして覚えていくと楽しいです。学校では単なる暗記科目と言われるけれど、決してそれだけではないのよ。」
と藤原先生は彼に言った。良いなあ、そんな言葉が言えるなんて。私のときは点数がとれなければ、この教室から出ていけ!なんて怒鳴る先生ばかりだったのに。日本の国家では、全ての人に平等な教育を受けさせることこそ、理想的だというのであるが、そのようなことは、絶対ないと思う。梅澤瞳さんは、みんなが楽しそうに勉強しているのを、耳を塞ぎたい一心で無視しながら、床を水拭きしていたが、
「それでは、オラトリオとはどういう音楽であるか、以前教えましたよね。ちょっと覚えていらっしゃるかどうか、仰ってみてくれますか?」
と、藤原先生が男性に言っているのが聞こえてきた。梅澤瞳さんは思わず、雑巾を動かす手を止めた。
「えーと、どういうものでしたっけ、、、。」
男性はわからなそうな印象である。
「オラトリオは、演奏会形式で、上演される劇音楽で、宗教的だったり教訓的だったりする音楽ですよ。」
梅澤瞳さんは、思わず呟いた。
「その通り、正解よ。」
と藤原先生が、彼女に言った。
「ほら、答えを言ってくれたんですよ。それではちゃんと覚えましょうね。川村千秋さん。」
「どうもありがとうございます。」
と言って、川村千秋さんと言われた男性は、にこやかに答えた。
「もう答えを言わないで、川村千秋さんに考える時間を与えたかったのに。世話好きな女中さんですね。」
藤原先生に言われて、梅澤瞳さんはむかっとした。
「そうなんですか。千秋さんだけが、一生懸命勉強できて、私は、こうして水拭きですか。」
「それなら、一緒に勉強したらいかがですか?川村千秋さんと一緒に。やれる人がいてくれたら、楽しくやれるようになると思いますよ。」
藤原先生がそういったが、余計に梅澤瞳さんは嫌な顔をして、
「あたしは、勉強なんか嫌いです!だって勉強なんて、どうせできない人を叩き上げして、できる人だけ称えるだけの宗教みたいなもんでしょう。何にも面白いことも、何もありませんよ!」
とでかい声で言った。その時に、皆彼女を見た。そんな発言しないでくださいねとでもいいたげな顔だ。
「なんだか寂しい感じの発言ですね。勉強は、本気になってやればこれほど面白いものは無いわよ。」
藤原先生が穏やかに言うが、
「いいえ!そんな事ありません!学校なんて、勉強なんて、いい成績を取って大人を自慢させるだけの道具に過ぎませんよ!」
と梅澤瞳さんは、でかい声で言った。そして、また床を雑巾で拭き始めた。一生懸命拭いているけれどそれはなんだかまわりの人に当たり散らしているような感じで、とても悲しそうだった。すぐにみんなは勉強を再開したが、その中の空気はとても悪いものになった。彼女は、一生懸命、床を拭いて、部屋を出ていこうとしなかった。やがて利用者である女性三人は食堂を出て言ってしまった。川村千秋さんは、ちゃんと歩けないから、その場に残るしかなかった。
「それでは、こちらに行きましょう。えーと、それでは、現在を代表するオラトリオを作曲したのは、」
藤原先生がそう言っていると、
「アルフレート・シュニトケ。」
と、梅澤瞳さんは思わず言ってしまった。川村千秋さんが、梅澤さんの顔をずっと見た。梅澤さんは思わず、
「何よ!あたしは、被害者なのよ。あたしだって、学校でどんなに傷ついたかしら、だって何かと言われたら、すぐにお前は他のやつよりに年遅れているから頑張れとか、そうやってすぐに引き合いに出されるんですもんね!そんなにあたしは面白いかしら!なんであたしだけがそうやって!」
と言ってしまったのだった。その声があまりに大きな声だったので、製鉄所中に響いてしまった。それを聞いて、というかそれ以前にいたのかもしれないが、水穂さんがやってきて、
「仕方ないじゃないですか。世の中にはどうしても変えられない事実もありますよ。それをどうやって受け取るかは、その人その人の考え方ですから。それを決めるのは、誰でもありません。いつでもご自身です。」
と、そっと彼女に言った。
「そうかも知れないけど、だったらあたしが、何度も同じことを言われて嫌だと思ってしまってはいけないわけ!黙って耐えるしかなかったの!なんで私だけこんな思いをしなければならないのかって、嫌な気持ちになっては行けなかったの!みんな同じことを言うわ。みんな私が悪いんだって。私が、学校で感じてきた寂しいなと言う気持ちとか、怒りの気持ちとかそういうのを共有できる人はだれもいないのかしら!」
梅澤瞳さんは、泣き叫ぶように言った。
「そうですね、何よりも、一番の薬は、自分もそうだった。お前もそうだったのかと分け合うことだと言うことは僕もよく知っています。ですが、これは、できる身分の人と、そうではない身分の人もいます。だから、一人で耐えているしかできなかった身分である人もいます。」
水穂さんは、静かに彼女に言った。
「可哀想な方ですね。」
いきなり川村千秋さんがそう言ったので、皆びっくりする。
「それでは、勉強する楽しさを分からないで、傷ついたまま、時計が止まったまま今の年齢になってしまったんだ。そうではなくて、本当は、勉強というのは面白いもののはずなのに。僕からしてみれば、貴女は幸運だったと思います。年上であったとしても、学校で学ばせてもらえたんだから。一度出ていってしまったら、学校へは二度と戻れないはずなんですよ。」
「すごいこと言うじゃない。千秋さん。そうなのよね。学校で学べるというのは本当に幸せなことよねえ。」
藤原先生がそれに相槌を打つように言った。
「それに、体も正常で、ちゃんと勉強ができる身分でいられたということは、とても幸せなことですよ。それに、これではだめだと思って一念発起するのか、あるいは永久に救いを求めてわめき続けるのか、そのどちらを選ぶのは僕たちまわりの人間ではありません。貴女自身なんです。それを忘れないでくださいね。」
水穂さんが優しくそう言うが、
「何よ!みんなそういう事を言うけれど、私の気持ちは何処なの!それをする前に、私が今まで辛かった事は、私がなんとかするしか無いっていうの!」
と、瞳さんは喚いた。
「はい、そうするしか方法はございません。でも貴女は僕と違って、なんとかすることができる身分の人です。それは、はっきりしています。そこを忘れてはいけませんよ。」
と水穂さんがそう言うと、
「なんで皆、そうやってカッコつけたがるんでしょうね。そしてなんで私が、ずっと私の気持ちをわかってくれる人を求めるのを行けないと言うのでしょうね。それでは、私の気持ちは永久に解決しないではありませんか!どうして私は、いつまで経っても幸せになれないんですか!」
瞳さんは、雑巾で床をばしりと叩いた。
「カッコつけてるわけでは無いのですけどね。答えはそれしか無いと言っているだけなんですが。」
水穂さんがそう言うと川村千秋さんが、口を開いた。
「わかりました。そういうことなら、僕がなんとかしましょう。僕が、貴女の話を聞きますよ。なんでもおっしゃってください。僕は、貴女のことを悪い人だとは思わない。だから、あなたが、話したいことを話して、次のステップに行けるまでいくらでも足踏みをするお手伝いを致します。」
「そうなのね。でも私は、勉強は嫌いだわ。あなたと違って、私は勉強はしませんから。」
と、彼女は言ったのであった。
「それでも構いません。僕は、あなたには何も罪はないことも知っています。ただそうしなければならなかっただけのことです。だから僕が、あなたがそれを自分の力で払拭できるようになるためにお手伝いしたいです。」
川村千秋さんはにこやかに笑った。
「偉いですね。なんか大岡裁きみたいですね。そういうことなら、あなたも一緒に勉強してみない?きっと何か面白いことがあると思うわよ。」
と藤原先生が言ってくれた。
「でも私は、」
瞳さんが反論すると、
「川村千秋さんも、いい競争相手がいてくれれば、より、やる気をだしてくれるかもしれないわ。」
藤原先生、なかなか強引だ。
そういうわけで、藤原先生のもとで、梅澤瞳さんは一緒に勉強することになった。はじめは嫌々ながら勉強に参加していた梅澤瞳さんであったけれど、川村千秋さんが、一生懸命勉強についていこうという姿勢を示してくれているので、そのうち梅澤さんも積極的に参加するようになった。そのときには年齢のことでいちいち文句をつけられることもなかった。不思議なもので、ほんの少し何かが違っても、人間は印象が随分変わるものなのだ。川村千秋さんと一緒に勉強するようになって、梅澤瞳さんは、新しい知識を覚えられるというのがとても楽しくなった。梅澤さんは、製鉄所の掃除人という役割はそっちのけで、川村千秋さんと一緒に、勉強を続けていた。それをまわりの利用者たちは、若い人が積極的に勉強をするのは嬉しいねと言って、微笑ましい顔で眺めていた。
梅澤さんは、川村千秋さんと一緒に勉強を続けている間、何故か過去のわだかまりもきえていた。その時は確かに、年齢がどうのでやたらと引き合いに出されてつらい思いをしたのかもしれないが、今は勉強がとても楽しい。そうやってほんのちょっと変わるだけでも、人間はかなり感じ方が変わるようなのである。
ときに勉強を二人で教え合いながら、川村千秋さんと、梅澤瞳さんは、勉強を続けていた。まるで大の勉強嫌いだったのが嘘のようだった。
「ねえ、川村さん。」
ある日、梅澤瞳さんは川村千秋さんに言った。
「あたしみたいな人でも受け入れてくれる学校ってあるかな?」
そう言って、梅澤瞳さんは、通信教育のパンフレットを出した。何故か、梅澤瞳さんの心に変化が生じてきたらしい。
「そうですか、梅澤さんは学校に行きたいのですね。僕は、一度断られているから無理だけど、梅澤さんは楽しく学生生活ができそうですね。」
川村千秋さんは悲しそうに言った。
「あら、私、悪いこと言っちゃったかしら、、、。」
梅澤さんはそう言ったが、
「いいんですよ。」
と川村千秋さんは言った。
その言い方が随分悲しそうな言い方だった。梅澤瞳さんはそれ以上何も言わなかった。
勉学の秋 増田朋美 @masubuchi4996
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