牢の人
警視庁内の地下に存在する留置場、そこは一辺が三メートルほどの正方形で、トイレと同居しなければならない、慧にとってはとても素晴らしい別荘であった。慧はそんな薄汚い留置場の床板に涅槃像が如き体勢で寝転がり、朝食として提供された食事の文句をユグメと言い合う。
『かったい米と味噌汁に沢庵二切れ、わざわざ檻の中に入ってやってるんだからもうちょうっと丁寧な対応して欲しいよな』
『暫定犯人に、そんなことはしないよ。それより、いいのかい? このまま次の爆弾が出てこないと本当に犯人にされるよ』
『んなわけないだろ、次の爆弾も出てくる。そしてきっと、それは不発に終わる』
『……なにか、僕に見えない真実が見えているみたいだね慧は。吐け、君が知っていて僕が知らないのは許せない!』
同調していないため慧に物理的な危害を加えることができないユグメは、慧の顔面にひしりと抱きつく形で視界を遮る。慧はそれを振り払うべく、身をよじって思考ではなく声を出し、
「ええい、うっとおしい」
そういって、ハエを追い払うかの如く手を振り回す。そんな傍目からはおかしな踊りを踊っている慧に声をかけるものが一人。
「なにがです? あ、ハエでもいました? 便所が檻の中にあるからコバエがよく湧くらしいんですよね、この留置所」
「そうなんですか。あー、すみませんが、アナタはどなたでしょうか」
慧は急に目の前に現れ、馴れ馴れしく話しかけてくるダークな背広を身に纏った、身長が百六十センチほどある醤油顔の男性を警戒しつつ、極めて柔和な笑みで彼に何者かを問う。醤油顔の男はああ、失礼と言って頬を掻き、
「警視庁刑事部の彩藤って言います、階級は警部補。比良塚警部に頼まれてたんで色々持ってきましたよ。着替えに、飲み物、あとはホラこれ、差し入れの野村屋名物あんぱん。比良塚警部の自腹ですよ~、結構高いんですから味わってどうぞ」
檻の左下にある食事を提供する小窓から彩藤は一つ一つ丁寧に差し入れを差し込んでいく。慧は頭痛を抑えるように眉間を強く揉みながら、ありえないことをやっている彩藤に対して言葉をしぼりだす。
「あの、この差し入れは認知されているんですよね?」
「もちろんです。看守も笑顔でどうぞ~って」
「どうなってんだ警視庁……」
慧はボロボロと崩れる自身の仮面を自覚し、規則の緩い警視庁の看守に青筋をビキビキと立てる。容疑者に対して刑事が差し入れなど極めて論外である行動を強く非難しようとして、彩藤の口から漏れ出た言葉にそれを呑み込む。
「大警視にも許可貰ってるんで大丈夫ですよ。なんか、鬼崎さんを犯人にしたいのかそうじゃないのか、よくわかんないですよね〜。あっ、もしかして鬼崎さんが犯行を無理ってことにして味方にしたいのかも」
核心をつく彩藤の言葉を受けて、慧は一つ咳払いをして、
「アナタは、ときどき鋭いところがあると比良塚警部に言われたことがありませんか」
「お、よく知ってますね。さすが名探偵」
「アナタがわかりやすいだけです……」
そういって、げんなりとした表情で慧は差し入れのあんぱんを一口齧る。慧はもぐもぐと半分ほど食べ、にこにこと笑顔で自身のほうを向いている彩藤に気づく。不気味なものを感じた慧は、あんぱんを食べきって呑み込み、
「まだなにか御用で?」
「はい、帝都のデュパン殿に一つお聞きしたいことが」
彩藤は懐に手を突っ込み、複数枚の写真と洋紙を檻の前に広げる。それらの写真は解剖された遺体のもの、洋紙にはデカデカと検死報告書と書かれており、写真と組み合わせて正確な死亡理由などを補完する書類となっていた。彩藤は地面に広げた報告書の文を指でなぞりながら慧に尋ねる。
「一週間前、この写真の男性が仲野の自宅で死亡しているところを発見されました。発作で亡くなったものかと思われたんですが、帝大の堅岡さん、あぁ、この検死報告書を書いてくれた先生です、その先生に解剖してもらったところ腎臓や肝臓の臓腑がボロボロで自然死じゃないから捜査してくれないかと言われましてね。これだけ内臓がダメになってるならおそらく毒だろうってのが堅岡先生の所見なんですが、生憎なことにその毒物に心当たりがなくてですね。困ったなぁって思ってたら、比良塚警部がだったら鬼崎さんに聞いてみなとおっしゃってくださいまして。なんか、心当たりありません?」
ベラベラかつヘラヘラと軽い口を回して彩藤が慧に尋ねる。比良塚警部とは違う刑事像に慧はくらくらとしながら、大きく、大きくため息を吐き、
「それだけじゃわかりませんよ。写真の彼がとった前後の行動とか調べてないんですか」
付き合ってられんとばかりに床で横になる。彩藤ははっはっはっと笑い飛ばし、懐に再び手を入れて手帳を取り出して、手帳の半ばをめくり、
「あー、ちょっと待ってくださいね。……あったあった、近所に住んでいる人の話では彼が亡くなる数日前に腹痛で寝込んでたとか、次の日には回復してもりもりと飯食ってたらしいですけど」
なるほど、といって慧は検死報告書を牢の小窓から取り入れ、洋紙の裏になにかを書こうとして、いつもとは違うワイシャツとジーンズを着ていることに気づきガックリと肩を落とす。
「彩藤さん、鉛筆ありますか」
「はい、ここに。ですが、いったいなにを書かれるんですか」
「まぁまぁ、ちょっと待ってください。さらさらっとね」
慧は使い込みすぎて短くなった彩藤の鉛筆を使用し、テキパキと洋紙に濃淡を使い分けて一つの絵を描き上げていく。数分ほどで描きあがったイラストは傘が開いた細長いキノコで、隅のほうに真っ白いと慧による注釈が書き込まれている。慧はそれを再び牢の小窓から彩藤に渡し、
「このキノコ、写真の彼が食べてなかったかを調べてみてください。もし、食べていたのならば犯人はそいつです」
「ええ? こんなに早くわかっちゃったんですか?」
「状況がそろいすぎてますからね。毒で死んだのならば思い当たる症状はそのキノコぐらいです」
慧は非常に面倒だと言外に表しながらも、口調だけは丁寧に、されど欠伸を噛み殺しながら吐き捨てるように言う。さすがの彩藤も慧がつかれていると察したのか、おそるおそるといった口調で慧に尋ねた。
「あの~、このキノコの名前はいったい?」
「……ドクツルタケ、絶対口にしちゃだめですよ。当たってたかどうかの結果は差し入れと一緒によろしくお願いしますね」
その言葉を言うだけ言って、慧は大きないびきを掻いて眠り始めた。
そして、忘れ去られていたネネルが絶叫と共に牢を訪れて飛び上がるハメになるのであった。
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