到着
男性が倒れてから三〇分ほどしてカフェに現れたのは、刈り上げた髪で鉛筆を耳元に差した、黒のサックスーツを纏った猿顔の大男であった。後ろには制服警官が二人控えていたので、おそらくは警視庁の刑事だろうと鬼崎慧は直観的にあたりをつけた。
大男は東亰≪とうきょう≫府の警察手帳を店内にいた全員に見せ、警視庁の比良塚警部だと名のり、耳に差してある鉛筆を右手に持って自身の手帳に店内にいた各人の名前を控え始めた。まずは、店主の北方茂≪きたかた しげる≫、続いて女給の赤坂篤≪あかさか あつ≫と男性の伴侶である老婦人の蕗谷千代≪ふきたに ちよ≫、最後に鬼崎慧の名前を書き終えると、店主に向き直って事件発生時の状況を聞き始める。自身への聴取はしばらく後だなと考えた鬼崎慧は、入り口近くにある四人掛けテーブル席の座席に腰を深く落とした。そこへ、手持ち無沙汰の女給がするりと横に立ち、耳元へ囁くように声を発する。
「こんなことになってしまって申し訳ありません。あのお爺様、以前から心臓の病を抱えていると聞いていたんですが、まさかお店で倒れられるとは」
彼女の言葉に耳を貸しつつ、鬼崎慧は老夫婦が食事をしていた席をじっくりと見つめる。彼らのテーブルの上には老婦人が座っていた側にライスカレーが、男性の座っていた側にはコーヒーが残っており、共通して水を注いだ大きめのガラスコップが二人分存在していた。
「君たちは男性が心臓が悪いと知っていたのか?」
女給こと赤坂篤は険しい顔つきで真っすぐテーブルを見つめたままの鬼崎慧へ訝し気な表情を浮かべながらも、
「はい、ここ数か月の間、一週間に一回必ず来店してくださっていましたから。どうしても、そのときの世間話が耳に入ってしまって。ほら、お客さんが少ないので」
「なるほど、他に世間話の中で耳を引く情報などありませんでしたか、例えばお爺さんに保険を掛けている、なんてことは」
鬼崎慧の言葉に、赤坂篤は目を丸くして首肯し、
「よくご存じで、なんだか生命保険を三件ほど掛け持っているだとかなんとか。ってことは、あのお婆さんって一気に大金持ちになったってことですかね。羨ましいなぁ」
赤坂篤の無神経な一言に鬼崎慧は眉を一つピクリと動かして、
「人が亡くなっているんですよ」
「あ、すみません……目の前で人が亡くなるってなんだか現実的じゃなくって」
誤魔化すようにはにかむ赤坂篤に鬼崎慧は一つ嘆息し、最後に気になったことを彼女に尋ねる。
「保険や心臓のことはシェフもご存じで?」
「何度も話されていたことですからね、知らないということはないと思いますよ」
「そうですか、どうもありがとう」
そういって、鬼崎慧はちらりとスズランの生けられた花瓶へ視線を飛ばし、店主であるシェフを強烈に睨んだ。
『なにやら面白いことになっているねぇ』
知恵の神・ユグメが鬼崎慧にしか聞こえない声で語りかけてくる。心底どうでもよさそうの彼女の声色に、鬼崎慧はいらだちながらも極めて冷静に返す。
『人が一人死んでいる、面白いことなどない』
『とはいってもだね、ただの心臓の病だろう? 都会じゃ簡単に人が死ぬって教訓にして終わりじゃないのかい?』
と、へらへらと笑い鬼崎慧に問うユグメに、彼は誰にもわからないようなかぶりを振って、
『病気の発作じゃない、殺人だ。シェフに男性は殺されたんだ』
強く強く、シェフを睨みつける。シェフは心底動揺し、たいへん困ったような態度で比良塚警部の事情聴取を受けている。傍目から見るとシェフはとても殺人を犯した後の犯人には到底思えない。ユグメはフンッと鼻を一つ鳴らして、
『根拠はあるのかい? 頭の中の妄想だけじゃ人は納得しないよ』
『男性の腕だ。あれがおかしい』
鬼崎慧は未だその場に置かれて、喉を圧迫するように両手を添えている男性の死体を見つめる。吼えるような表情で絶命している男性の顔は、強烈な痛みを伴いながらあの世へ旅立ったのだと想像するのに難くない。
『彼の腕かい?』
『ああ、彼の持病は心臓の病、だとしたら急な発作が出たのなら手で押さえるのはどこだ。当然、喉ではなく』
ユグメは、ああと言って鬼崎慧の言葉を引き継ぎ、
『なるほど、心臓のあたり、つまりは胸を押さえてないとおかしいってことかい。だとしても、どうやって彼を殺したのさ』
『毒殺だよ、カウンターの上にあるとびっきりの毒を使ってな』
鬼崎慧の言葉に一拍置いて、ユグメが閃いたように喜々として口を開く。
『スズランか! 確かにスズランに含まれるコンバラトキシンなら少量で人を殺せるし、喉を押さえるような嘔吐感や死に至る心臓麻痺も起こすことが可能だな!』
鬼崎慧はユグメの言葉に僅かに首肯し、ゆったりと立ち上がると制服警察官の一人に背中を擦ってなだめられている老婦人、蕗谷千代へ近寄り声をかける。
「大丈夫ですか、お婆さん」
「ええ、ええ、大丈夫です。こんなに急に逝ってしまうだなんて、なんて冷たい旦那様でしょう」
「そのことなんですが」
蕗谷千代の耳元にずいっと顔を寄せた鬼崎慧はすぐ傍にいる警察官に聞こえない程度の囁き声で、
「落ち着いて聞いてください、旦那さんは殺された可能性があります」
「なっ!?」
鬼崎慧の思わぬ発言にひっくり返った声色で叫びかける蕗谷千代の口元に、鬼崎慧はそっと右手の人差し指を添える、そして、再び蕗谷千代の耳元に顔を寄せると、
「いくつか聞きたいことがあります、合っていれば頷いてください。まず、奥さんは給仕されたお水を飲みましたか」
こくりと、短く蕗谷千代が頷く。
「旦那さんは水のおかわりをしましたか」
再びこくりと、蕗谷千代が頷き、鬼崎慧の口元が弧を描く。
「私が犯人を炙りだすとしたら、協力いただけますね?」
最後の問いに蕗谷千代は強い燃えるような憎しみの瞳をもって頷いた。
「では私がお婆さんにこう指示したら――――」
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