発生

 鬼崎慧が新一円小型銀貨数枚と七枚の五十銭札を詰め込んだ、帝都で過ごすには心もとない薄っぺらい財布を懐に携えて店の木製ドアを開いたのは、皇歴二〇四年四月三日のことである。大きなガラス窓から春の暖かな日差しを浴びた店内は心地よい室温で、既に入店していた浅葱色の着物がよく似合う老婦人と、紺の上下が揃ったスーツに革靴を履いたロマンスグレーの男性が食後のコーヒーを楽しみながら談笑している。その光景を微笑ましいと思っている鬼崎慧が三つの四人掛けのテーブル席と六つの一人掛けカウンター席、どちらに座ろうかと悩んでいると着物に割烹着をつけた給仕の女性が笑顔で一番日の当たりがいいテーブル席へと鬼崎慧を案内する。導かれるまま女給の案内した席に座った鬼崎慧は、丁寧に作られた革張りのメニュー表を開いて中身を確認する。目当てのライスカレーが十銭、食後に楽しむコーヒーが十二銭であることを確認した鬼崎慧は傍で控えていた女給にそれらを注文する。女給は軽快な返事をし、厨房へ向かって大きな声で注文内容を伝えた。

 手持ち無沙汰になった鬼崎慧は店内をキョロキョロと見回す、黒を基調としたデザインで揃えたシックな調度品を飾ることで世俗と離れた風景を演出している空間を確認して、この店を選らんだことは間違いではなかったと一人頷き、ガラスの向こうに行きかう人々を頬杖をついて眺め始めた。


『あら、上機嫌ね』


 鬼崎慧の頭の中に澄んだ鈴のような声が響く、その声の主は知恵の神・ユグメである。二人を放って帝都での住処を探しに出かけたネネルとは違い、ユグメはおのぼりさんである鬼崎慧が恥をかかないように常に傍へ控えて監視を続けていた。鬼崎慧とユグメら神との会話は声を口から出さずとも、心の中で紙飛行機を飛ばすように相手へ思いを伝えれば会話が成立する。鬼崎慧は福丘ではあまり使うことはなかった心での会話を使用し、ユグメにこれからの生活について相談を始めた。


『帝都にたどり着いたのはいいが、手持ちのものはこの一張羅と心もとない残金だ。住処を探すのは結構だが、まずは職を求めないとまともに生活ができない』

『大丈夫、知恵の神たる私が生きていく上での知識の引き出し方を教えてあげただろう。それに慧は字が書ける、とりあえずの職として代筆屋でも営んだらどうだい』


 鬼崎慧は、いたずらな口調で自身の行く末を軽く言ってくれるユグメに少し苛立ちながらも、最悪の場合はそれでいいかと考える。己がなにものになるか、帝都にやってきたばかりの、歳だけ食った子供と変わらない鬼崎慧にとってこれほど難しい難題はないのである。

 頬杖をやめて腕を組んだ鬼崎慧は、細長い白磁花瓶に生けられたスズランが飾られたカウンター席、その向こうにある厨房から薄っすらと見える白いコック帽をかぶった人間をジッと見つめる。すると、厨房の入口から食器とカトラリーがこすれる音と共に皿を抱えた女給が眩い笑顔で鬼崎慧の席までやってきた。女給が手に持っているのは皿に盛られたサラダで、反対の手には塩と書かれた小壺とスプーン・フォーク・箸といった三種のカトラリーが握られている。初めての外食、人の作った食事など久しく食べていない鬼崎慧は齢二十四でありながら子供のように目を輝かせた。


「お待たせしました、こちら付け合わせの生野菜サラダでございます」


 ことりと、千切りのニンジンやキャベツが山盛りになったサラダが鬼崎慧の目の前に置かれ、女給はサラダと鬼崎慧の間に懐紙の上にスプーンとフォークを配膳し、鬼崎慧に向けて一言、


「このサラダはライスカレーのお口直し用でお食べください。お味は小壺の中に入っている塩で調整をお願いしますね」

 と、屈託のないにっこりとした笑みを自身に向ける彼女に、鬼崎慧自身も薄く社交辞令の笑みを返しながら、

「どうもありがとう。しかしあれだね、評判の店だと聞いたがどうにも人が少ないようだが、いったいなにかあったのかな?」

「……いえ、なにかあったわけじゃないんですけどね」

 と、女給は鬼崎慧の耳元にその整った顔を近づけて、

「ここって池嚢≪いけぶくろ≫の外れでしょう。北利世島≪きたとよしま≫の中では栄えてる方ですけど、そもそも外で食事を食べるって人が少ないんですよ、この辺りは。あちらのお客様は週に一回来てくれるお得意様なんですけど、それ以外の方は一日に五組もくればいいほうでして」

 と、女給は屈んで少し盛り上がった胸元にお盆を押し付けて、ナイショですよとウィンク一つを鬼崎慧に送り、身をひるがえして厨房へと帰っていく。その後ろ姿を見送り、目の前のサラダをピカピカに磨かれたフォークでまずは一口といったところで、大きなものがなにか崩れ落ちる音が前方から鬼崎慧の耳に届く。なんだなんだと鬼崎慧が視線を向けて見て見れば、笑顔でコーヒーを楽しんでいた老夫婦の旦那様が、苦しそうに喉を押さえて床に崩れ落ちている。心配そうに夫へと駆け寄ろうとするお婆さんを、鬼崎慧は大声で制止しながら床に仰向けに倒れてしまっている老人へと駆け寄った。

 ワンテンポ遅れて事態を把握したのか、女給が甲高い叫びを上げるのを気にもせず、鬼崎慧は男性の喉を圧迫している左手から脈を測る。振れていない。鬼崎慧は男性の目を覗き込み、瞳孔が完全に開き切っていることを確認して、ゆっくりと首を振った。


「ダメだ」

 悔恨の意がにじむ鬼崎慧の呟きに、

「嘘でしょう……アナタ、アナタっ!」

 老婦人は楔を切ったように大声をあげて泣き叫び、冷たくなっていく男性の身体を何度も何度も強くゆすった。


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