第ニ夜 ある春の日に
ねえ、そこのあんた。
そう、あんたよあんた。
今、ヒマ?
ヒマならさ、ちょっと来てくれない?
え、馴れ馴れしいって?
いいからいいから。
ほら、行くわよ。
あ、あたし?
あたしは…そうね。
ただの、通りすがりの女よ。
どう?この桜。すごくキレイでしょ?
あ、花見したことないの?
それはもったいないわね。
桜はこんなにキレイだし、それに…
今はあたし達二人きりだけど、みんながいたら、すごく楽しいと思わない?
そう、みんな。
友達、家族、恋人、同僚、先輩、後輩、恩師。
そういう人達みんながここに集まったら、たちまち宴会の始まりよ。
つまんないなんて、言えなくなるわ。
想像してみて?
そうよね。楽しいわよね。
あたしだって、楽しいと思う。
こういうの見るとさ、色々と考えない?
この世ってさ、基本は腐ってるし汚いけど、こういう綺麗な所も少なからずあるわけよ。
何も思わないって?
それはね、あんたの心が未熟なだけよ。
あ、怒らないでね。
そうね…
あたしなら、こう思う。
こんなに綺麗で優雅なものがあるなら、これを見るためだけでも、生きてく価値があるなあって。
それこそ、自殺しようなんて思わなくなる程にね。
そうよ…
あたしは、自殺したいと思ってた。
大学を出て、そこそこ有名な企業に入ったんだけど、色々辛くてね。
同僚とは上手くやれないし、上下関係がよくわかんなくて、敬語を上手く使えてないとか、態度でかいとか言われて怒られるし。
しかも、あたしはミスばっかりするタイプなの。
どんなに仕事を覚えても、どんなに確認をしても、必ず何かミスってる。
それで、また怒られる。
それも、いつまで経っても治らない。
自分でもわかってる。なのに、どうしても変えられないの。
努力なら必死でしてる。
でも、なぜかどうにもならない。
毎日毎日、辛くて辛くて…
もう、自分が嫌になっちゃった。
だから、これならいっそ死んだほうがマシかな…って思ってね。
…ありがとうね、止めてくれて。
でもさ、あんたはどうなの?
ふん、最初からわかってたわよ。
こんな山奥に来る奴なんて、余程の桜好きか自殺志望者くらいだしね。
で、あたしさ、しばらく自分なりに考えたのよね。
なんで辛いんだろうって。
なんで逃げたいんだろうって。
なんで死にたいんだろうって。
それで、自分なりの答えを出した。
あたしは、自分と他人を理解出来てないんだと思う。
そう。
理解できたつもりになってるだけで、実際はなーんにもわかっちゃないの。
だから、他人の気持ちがわからないし、自分がなんで生きづらいのかわからない。
他人がわからないから、自分もわからない。
そういう事なんだと、あたしは思う。
ま、あたしは哲学者じゃないから、確証とか持てないけどね。
あんた…
自殺なんて、やめときなさい。
あたしが言えた義理じゃないけどさ、本当にいいの?
死んだら、誰にも会えないのよ。
もちろん、こういう物を見ることも出来ない。
仲間と楽しく笑って、騒いで、楽しむ事もできない。
色々と、考える事もできない。
本当は言っちゃいけないんだけど、これだけは言わせてもらうわね。
自殺した奴、自分から死を望んだ奴は星の数ほどいる。
でも、その中で死んで良かったと思ってる奴は一人もいない。
ああ、なんで死を選んだんだ、なんでもっと生きようと思わなかったんだ、もっと生きてたかった、って思ってる奴ばっかり。
今の辛い現実から逃げたいからって、死んだって良い事なんか何もないわよ。
むしろ、もっと辛い思いをする事になる。
ま、あたしに強制する権利はないんだけどね。
…え、自殺をやめる?
本当ね?
そう…よかった。
自分に負けて自殺するなんて、本物の大バカがやることだからね。
あとさ、言ってなかったんだけど…
ここは昔から、あたしのお気に入りの所でね…
子供の時から、一人で来たりしてたの。
でも、誰かと…
特に、男と来たことはなかった。
それで、彼氏と行く約束をつけたの。
あ、実はね、あたしには付き合ってた人がいたの。
それで、ここで告白しようと思ってたの。
だけど、それはできなかった。
彼が来た時には、あたしはもう彼と話せなくなってたから。
あれから長い時間が経った。
あたしは、もう何年もこの桜を一人で見てきた。
彼氏どころか、誰も来なかった。
だからさ、あんたが来てくれて…
そして、あたしの言葉で自殺をやめてくれて嬉しい。
ありがとうね。
おかげで、あたしも楽に眠れそうだわ。
本当に、ありがとう。
忘れないでね。
毎日を生きてるあんたは、それだけで偉いんだってこと。
そして、それを自分から投げ出す必要はないし、そんな事しても良い事ないってこと。
この世のものは、全てあるべくしてあるの。
だから、あんたは自分勝手に終わっちゃダメ。
最期まで、役目を果たしなさい。
それじゃあね。
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