金眼の姫のお食い初め

如月姫蝶

金眼の姫のお食い初め

 赤と黒と白。

 どれもそそる色だ。

 それが、四、五歳の女児の姿を形造っているともなれば、格別だ。


 日没後の地方都市。男は独り、自販機で酒を買ったらアパートに戻るつもりでいた。

 その視界に、どこからともなく、小さな人影が侵入したのだ。

 赤いワンピースを纏った女児だった。色白で、黒髪を腰まで伸ばしており、たった一人でとぼとぼと歩いているのだ。

 男は、自販機の前にうずくまり、女児の気配が背後を通り過ぎるのを、一旦は見送った。

 女児に連れはいない。幸い、人通りも途切れた。

 男は、やおら駆け出した。女児を捕まえて、酒の肴にしようと奮い立ったのだ。

 すると、女児もまた逃げるように走り出したのである。黒髪が棚引き、赤いスカートが翻り、服を飾るリボンやフリルが儚げに揺らめいた。

 男は、興奮のあまり足がもつれた。しかし、狙った獲物を路地の行き止まりに追い込むのに、さほど時間は掛からなかった。


 女児は、行き止まりを背にして立ち止まるや、男を睨み上げた。


 男は、ひったくるように女児の手首を掴んだ。


 女児の眼が、金色に輝いたではないか! 街灯も乏しい宵闇の中、満月よりも禍々しい金色に……


 次の刹那、ねっとりとした不快感が、男の顔と首元を襲った。それは、森林や廃屋で、うっかり蜘蛛の巣に触れてしまった時のような……


 男は、小首を傾げた。つい女児の手首を放してまで、自身の頬に触れずにはいられなかった。


 男の頬肉は、ベロリとめくれた。頭部そのものも、傾げられたままにずり落ちて、ゴロリと地に転げたのである。


 上から、軋む音がした。路地に面した民家の屋根の上を、何かが歩いたのである。

 それは、人間よりも大きく平べったい体をうつ伏せにして、実に八個もの眼を篝火のごとく燃やしていた。

 そして、女児が硬い表情で立ち尽くしているのを見下ろしていたのである。




 闇バイトに応募するって、こんな感覚なのだろうか?

 凡庸な大学生を自認する健斗けんとは、ふとそんなふうに思った。

 いや、これは少なくとも明確な犯罪というわけではないはずだ。だって彼は、夏休み中の某日、一夜限りのアルバイトに参加することと引き換えに、任意の二単位を取得できるという、教授の口車に乗っただけなのだから。

 データ収集のために夏休み中の学生を雇う教授なぞ珍しくもない。その報酬が単位であることだって……

 ただ、アルバイトに関して一切他言無用という条件に、そこはかとなく不安を掻き立てられただけだろう。


 バイト当日、健斗は、単身でキャンパスに足を踏み入れ、学生食堂を訪れた。

 夏休み中のこんな時刻に、学食が営業しているはずもない。

 日の長い季節ではあるが、既に日没しているのだ。

 学食の扉は閉ざされていたが、健斗は、予め指示されていた通り、すぐそばにある掲示板へと歩み寄った。

 あった——大学生協のポスターの隣に、白い布袋がぶら下げてある。

 健斗が、迷わず袋を手に取り開けると、中には、スマホが入っていた。招待メールのリンクから、すぐにミーティングに参加することができた。


「そろそろ定刻だな。全員が参加してくれたようで、何よりだよ」

 スマホに映し出されたのは、本日の雇い主たる心理学の教授である。

 健斗は、思わず辺りを見回した。学食の付近にいるのは、どう見ても彼一人だけのようだったが。

「参加者たる学生諸君のことは、キャンパス内の、一人一人別の場所に呼び出させてもらったよ、悪しからず」

 健斗の疑問を見透かしたように、教授は言った。

「まずは確認しておこう。君たちにはこれから、私の考案した実験に参加してもらう。報酬は任意の二単位。ただし、本日の実験に関して、守秘義務を厳守することも絶対条件となる」

「本当に任意の二単位っすね? 心理学以外の単位でもなんとかしてもらえるってことっすね?」

 どうやら健斗以外にも男子学生がミーティングに参加しているようで、そんな質問がスマホから聞こえたのだ。

「その通りだよ。必要とあらば、他の教授陣には、私が話をつけよう」

 教授は、きっぱりと言い切った。

 さすがは同族経営の小規模な私立大学といったところだろうか。そして、心理学の教授もまた、経営者一族に連なる男なのだ。


「さて、本題だ——ラボから逃げ出した実験体が一体、このキャンパスのどこかに潜伏している。それを捜し出し捕獲することが、君たちに与えられたミッションだ」

 教授は、実験の概要を、高らかに発表した。どうにも芝居がかっていた。

「……そういう設定ってことっすか?」

 暫しの微妙な沈黙の後、先程と同じ男子学生が質問した。

「そうとも。問題の実験体の画像を、共有しておこう」

 健斗は、「はあ!?」と声に出してしまい、大いに後悔した。幸い、教授に咎められることはなかったが。

 画像を見る限り、実験体というのは、赤い服を着た、四、五歳の女児だったのである。


 咲良さくらは、女子トイレの個室にて、とても満足げな溜息を吐いた。

 ふと我に返り、誰かに聞かれていなかったかと、少々気恥ずかしくなる。

 いやいや、今は夏休み中で、それなりに遅い時間帯なのだから、キャンパス内の人口密度はとても低いはずで、誰にも聞かれやしなかったろうと、自分に言い聞かせた。


 そもそも彼女は、個室内での成果に満足した……というわけではない。

 本日、咲良は、自主的に登校して、研究室にて民俗学の資料を読み漁っていたのだ。一人で没頭するうちに、時間を忘れてしまったほどである。

 この大学は、小規模な私学でありながら、念願だった民俗学を学べる。本日熟読した「土蜘蛛つちぐも」に関する文献も、非常に興味深かった。そのことに大満足した咲良なのである。


 土蜘蛛とは、そもそも古代日本において、大和朝廷に従わなかった人々への蔑称である。しかし、次第に大蜘蛛の化物として物語に取り入れられるようになり、かの平家物語にだって、斬られ役として登場するのだ——


 勉学の余韻に浸っていた咲良は、個室から出たところで、鋭い悲鳴をあげることになった。

 男だ。見知らぬ若い男が、女子トイレに侵入して、彼女が利用していた個室のすぐそばにまで忍び寄っていたのだ。

「ちがっ……間違えたんすよ! すんません!」

 男が大慌てで逃げ去ってくれたことが、咲良にとってはせめてもの救いだった。

 トイレのそばの階段を駆け降りる足音が、響き渡りながら遠ざかっていった。


 トイレを出た咲良は、ズカズカとした足取りで研究室へと戻りながら、今日はもう帰宅しようと心に決めていた。

 咲良にとっては見知らぬ男だったが、この大学の学生だったとしても不思議はない年恰好だった。逃げ出してくれてひとまず助かったが、仮に一対一で再会したとしたら、どんな態度に出られるかわからない。

 ただ、咲良に見つかりあっさり逃走したということは、痴漢よりも盗撮目的でカメラの設置なぞ目論んでいたのかもしれない。帰宅を急ぐにしても、守衛室には情報提供しておいたほうが良さそうだ……


 やがて、研究室のドアまで戻って、咲良は、ひっと声をあげた。

 ごくごく細く、ドアが開いているではないか!

 しかし、すぐに思い出した。ちょっとトイレに行くだけだからと、施錠を怠ってしまったのは、咲良自身だったのである。

 早々に卓上の資料を片づけて、守衛室へ立ち寄ってから帰宅しよう。

 そのことしか考えていなかった咲良の目に、全く想定外の光景が飛び込んだ。

 研究室の真ん中に、赤い服を着た幼い女児が、たった一人で俯きがちに佇んでいたのである。


 健斗は考えた。心理学の教授が、今回の実験を企画した意図を。彼は、予め約束していた「任意の二単位」ばかりか、「実験体」の身柄を確保した学生には、サラリーマンの月収ほどの賞金をポケットマネーから進呈するなどと、土壇場で宣言したのだ。凡庸な大学生にとってはかなりの大金である。

 教授が、そうまでして学生を動員して収集したいデータっていったい何なんだろう……

 健斗は、実験体の捜索開始を教授から指示された後も、そのことを考えずにはいられなかった。

 もっとも、教授は、配布したスマホを通じて参加者の動きをモニターしているらしい。「無気力」と判断されると警告されるとのことで、健斗は、取り敢えず学食からは離れて、立ち並ぶ校舎を見回せる場所まで移動した。

 

 既に日没後であり、校舎の窓にも、数少ないながらも灯りが点っているのが見て取れた。

 それらの灯りを見るうちに、健斗の脳裏にもふと、知恵が灯った。

 考えてみれば、かの教授は、犯罪心理学の専門家と称して、テレビ番組のコメンテーターを務めるような人物である。

 単位や高額の賞金に釣られて、男子学生が女子トイレに踏み込むかどうかといった、一般人が違法行為に及ぶ心理的閾値のようなもののデータを欲しているのではないか——健斗はそう推測したのである。

 それにしても、何も、あんな幼い子供を実験体に見立てなくとも。健斗たち捜す側が恐怖や不安を一切感じずに済むことだけは間違いないが……


「あなた、どこの子? どっから来たの?」

 咲良は、研究室の床にしゃがんで、赤い服の幼女に尋ねた。すぐにも帰宅したいが、こんな謎の子供を残してはゆけない。

「お名前は?」

 咲良が質問を重ねても、四、五歳であろう女児は、黙りこくったままだった。黙ったままながら、おずおずと咲良に抱きついてきたのである。

 咲良は、ふと閃いた。先程、女子トイレに侵入した男は、「間違えた」などとかしていたが、あれはもしや、咲良を他の誰かと「間違えた」という意味だったのでは……

「ねえあなた、もしかして……男の人に追い掛けられてる?」

 咲良が慎重に問い質すと、女児は、コクリと頷いたではないか!

「わかった。お姉さんが守衛室まで一緒に行って、事情を話してあげるからね」

「すみません、どなたかいらっしゃいますか? 失礼しまーす」

 そんな男の声がしたのは、咲良が女児に決意を語った、僅か数秒後のことだった。


「すみません、どなたかいらっしゃいますか? 失礼しまーす」

 健斗は、廊下に面した研究室のドアをノックし、極力明るく挨拶しながら開いた。まるで、飛び込みの営業マンになったような気分だった。

「ちょっと、何なの? 何のご用ですか?」

 立ちはだかるように現れたのは、おそらくここの学生であろう若い女性が一人。彼女は、口調も表情もあからさまに不機嫌で、両手を腰に当てる、アームアキンボーと呼ばれる姿勢をとっていた。多くの場合、威嚇や拒絶を意味する姿勢である。

「あの、ドアの鍵が開いていて、灯りや人の声が廊下に漏れていたもので……」

 健斗が、つい言い訳めいた言葉を口にすると、女性は、眉間に深い皺を刻んだのだった。


 実は、咲良は大いに後悔していた。研究室の中に女児の姿を発見した際、もしも他にも体のでかい侵入者がいたりしたらすぐに逃げ出せるようにと、またもやドアに鍵を掛けなかったことが、今まさに裏目に出たからだ。

 ただ、学生じみた目の前の男は、服装も、髪色も、声も、かの女子トイレ侵入男とは異なっており、別人ではあるようだが。

「今から帰るって、家族に電話してたの。立ち聞きしてたんですか?」

 咲良は、実は一人暮らしだが、咄嗟に嘘を吐いた。相手が女児の存在に勘づいているのかどうかも探りたかった。


「いえいえ、話の内容までは聞こえてません! あの、ちょっとだけよろしいですか? 実は、知り合いの妹が、このキャンパス内で迷子になっちゃって、今、手分けして捜してるところなんです。四、五歳の、赤い服を着た女の子なんですけど、見掛けていませんか?」

 健斗は、女性の情に訴えるように言った。


「見てないわ」

 咲良は、にべもなく言った。男がかの女児を捜していることは明らかだったが、名乗ろうともしないのは怪しい。それに、もし本当に知り合いの妹だというのなら、「四、五歳」などと年齢に幅を持たせて語ることも不自然である。


「その女の子の名前は、中村なかむらティアラ。ただし、ごっこ遊びが大好きで、名前を尋ねても嘘を吐くことがある。そして、何より問題なのは……彼女は、糖尿病の患者で、定期的にインスリンを注射しなければいけない。その注射の時刻が迫ってるんですよ!」

 健斗は、切々と訴えながら、自身の口から滑らかに出てくる嘘に感嘆していた。

 実験体に見立てられた女児の名前や持病の有無なぞ、彼は知らされていない。全てはでまかせなのだ。

 犯罪心理学がお好きな教授に、詐欺師の才能を認めてもらえるかもしれない。

 健斗は、実験体役の年齢を考慮して、点灯している部屋を訪ね歩くことにした。幼いゆえに結局大人を頼るのではないかと考えたのだ。そして訪れた二ヶ所めが、この民俗学研究室というわけだ。

 最初に訪れた別の研究室では、「子供なんぞ見ていない」と、もっとそっけない対応を受けた。心理学の実験に参加中だと白状するわけにもゆかず、健斗は、もし見掛けたら知らせてくださいと、配布されたスマホの電話番号を伝えて退散したのである。

 そして訪れたこの部屋の女子学生も、いたく不機嫌でぶっきらぼうだった。しかし、子供を見掛けていないかと問うたところ、彼女は、咄嗟に背後を気にするような素振りを示したではないか。

 もしや、と怪しんだ健斗は、更なる作り話を披露しつつ、相手の反応を窺ったのである。

 女子学生の視線は定まらない。何か考えを巡らせているようだ。そして彼女は、微妙に立ち位置を変えた。今、彼女の真後ろにあるのは、ロッカーだ。子供であれば隠れることもできそうである。


「ねえ、そんなに深刻な事態なら、当然、守衛室にも伝えて協力を仰いでるわよね? もう帰るっつってる私なんかにべらべら喋るよりも、そのほうがずっと有意義でしょ?」

 咲良は、弁舌爽やかな眼前の男を、キッと睨みつけて言った。もしも糖尿病とインスリン注射の話が真実なら、女児を匿い続けることでその命を危険にさらしかねない。だが、そもそもその辺りが作り話なら、この男に女児を委ねることこそ危険だろう。

「いやぁ……それが、守衛室にも寄ったんですけど、無人だったもので」

 なるほど。夏休みのこの時間帯なら、守衛室が無人というのも、ありうる話だ。

 しかし、咲良は、男が返答する前に虚を突かれたような表情を浮かべたのを見逃さなかった。


「実はこれ、既に110番して、さっきから繋がってる状態なんだけど!」

 咲良は、やおらスマホを掲げた。

 ただし、男にはスマホの裏面を向けて——

 彼女の言葉は、実ははったりだった。守衛室が無理ならいっそ警察に女児を委ねてしまいたいのが本音ではあったが、なぜか、いつの間にやら、スマホが圏外になっており、110番したくてもできない状態なのだった。

 まったく、キャンパス内で圏外だなんて、これまで一度もなかったことなのに……


 健斗は、心の中で舌打ちした。

 警察沙汰にされては、女児に関する嘘を並べ立てたことが、彼にとって不利にしかならないだろう。ここはさすがに撤退して、実験の黒幕たる教授に泣きつくしかないか……

 その時、女の背後で、音もなくロッカーが開いた。

 そして、グニャリとが現れたのだ。

 長い黒髪と赤い服の幼女が、軟体動物よろしく這い出てきたのだ。

 やはり、「実験体」は匿われていたのだ!

 だが、なぜだろう……それは人の子供の姿をしているのに、捜していた相手であるのに、単位にも賞金にも繋がるというのに、健斗は、底知れぬ不気味さを感じずにはいられなかった。

 四つん這いの女児が、顔をあげると、その両眼が眩い金色に光り輝いたのである。




「余計な仕事すんじゃねえよ、児童相談所!」

 家庭訪問にやって来た役人たちに、どうにか平和的にお引き取り頂いた後で、茂久しげひさはたまらず悪態をついた。

 彼の一人娘は、既に小学三年生であるというのに、未だ四、五歳相当の体格なのだ。おかげで児童虐待を疑われてしまったというわけだが、実のところ全くの濡れ衣なのである。

「児相ってのは、仕事をしないお役所ナンバーワンみたいなところじゃねえのかよ!」

 茂久の怒りは収まらない。

 幼児が虐待死に至った事件で、児相の対応が不充分だったと報道されることは少なくないはずだ。

「てめえらは、人間の子供のことだけ見守ってろってんだ!」

「本当にしつこい役人たちだったね。まとめて食ってやろうかと思ったよ」

 紅太郎こうたろうは、荒れる茂久に相槌を打ちながら、天井から逆さにぶら下がった。彼は、役人たちの前では美しい青年の姿を保っていたが、今では、目玉が八つに増えて、紅蓮の炎のごとくに輝いているのだ。

「それはダメだぞ!……俺たちは、人の世に紛れて生きるしかないんだからな」

「そのくらいはわかってて言ってるって、わかってほしいな。僕が悪人しか食わない主義なのは、知ってるだろう?」

 人間と大蜘蛛の中間的な姿で、紅太郎は言った。

 彼の物騒な物言いのおかげでかえって落ち着いた茂久は、苦笑しながら頷いた。


 茂久は、人間として暮らしている。彼の妻は、何も知らない人間だった。

 妻が初産の際に亡くなったため、遺された娘を男手一つで育てようとしたのだが、ワンオペ育児はままならず、同族で親戚でもある紅太郎を呼び寄せて、育児や家の切り盛りを手伝ってもらっているのだ。

 男二人に娘一人という珍しい家族構成もまた、児相の連中の疑心暗鬼を掻き立てたのかもしれない。

のお食い初めは、いよいよ急いだほうが良さそうだね」

 紅太郎は言った。

「それはそうだ。だが、急いだ結果が、こないだのだからな……」

 茂久は、悩ましく溜息を吐いた。

「僕なんて、悪人を狩ることで人間が喜んでくれるのを見るのは、子供のころから大好きだったけどね。正義のヒーローになったような気分で、実は僕が殺して残さず食べたんだぞって、叫び出しそうになったこともあったよ」

「俺もそうだったさ」

 彼らは、ただ生きるだけであれば、人間と同じような食事で事足りる。しかし、例えば成長期などには、人間を狩ってその肉を食べることが欠かせない。それを初めて自力で行うことを、「お食い初め」と称するのだ。

 彼らは、人に化け、人の世に紛れ、人との間に子をもうける。ただし、人の女は、多くの場合、異種の子を産むことと引き換えに命を落とす。そのことに些か心が痛むからこそ、彼らは悪人を狩ることで人の世に報いようとするのだ。

 茂久は先日、少々荒っぽいことは承知の上で、娘を夜に出歩かせた。

 娘は、苦もなく悪党を炙り出し、初めての人間狩りを行うことに成功した。蜘蛛の糸を吐き、それをカマイタチのごとく用いたのだ。

 しかし、娘は、悪党の肉を食べなかった。「お口が汚れるから」と、頑として食べなかったのだ。つまり、肝心のお食い初めには至らなかったのである。

「姫は確か、急に体が大きくなったら、ユウくんと学校で一緒にいられなくなる——とも心配していたね。男の子に興味を持つのはいいことだよ。お食い初めのことを考えればね」

「……あれは、警察官の息子だというのが気に食わん」

 茂久は、娘の同級生たるユウくんについて把握していた。体が小さい娘のことを何かと庇ってくれるらしいと知っていながらも、批判的な物言いをするのがいかにも娘の父親めいていて、紅太郎は微苦笑を含んだ。

「こうなったら、を頼ってみる? あちらさんは智恵者を気取っているし、どのみち金眼の姫のことは大切にしてくれるに決まってる」

 そう言った紅太郎も、舌打ちした茂久も、人外の力を使うと眼が赤々と輝く。それが常である。生まれながらの金眼は、特に強い妖力を秘めた証なのだ。

 彼らにも人間に類似した家柄の概念があり、本家筋というものは、それ以外の者から見れば、どうにも疎ましい。しかし、金眼の子ならば本家にも大切にされるはずというのは、茂久も全くもって同意見だった。


 かくして、ある夜、同族経営の小規模な私立大学において、一人の学生が行方不明となり、もう一人の学生は発狂した。

 しかし、警察は成人の失踪をあまり積極的には捜査しないし、大学生とはある種の精神疾患を発症しやすい年頃である。この一件は、世間の話題になるでもなく、呆気なく忘れ去られた……




 その春、雄大ゆうだいは、大学に入学した途端に溜息を吐いた。ガールフレンドが東京の大学に進学できたというのに、彼はといえば、片田舎の私大にしか合格できず、しかも、奨学金の返済に追われる未来しか見えなかったからである。

「ねえ、ユウくんでしょ? お久しぶり。私は瑞姫みずき土方ひじかた瑞姫よ。覚えてないかしら?」

 キャンパスでやおら声を掛けてきたのは、色白で長い黒髪の、令嬢めいた女子だった。

「え!?……あ……あの、チビのミズキちゃん!? いきなり転校していなくなっちゃった、あの!?」

 雄大の記憶が呼び覚まされた。相手は小学校の同級生だ。確か、父子家庭の子供で、極端に小柄でいじめられがちだったのを、警察官の息子で正義感の強かった雄大が何かと庇っていたのである。しかし、三年生だったある日突然、彼女は転校してしまい、それっきりだったのだ……

「そうよ。でも私、以前ほどチビではないでしょう? ユウくん、せっかくこうして再会できたのだし、また以前のように仲良くしていただけないかしら?」

 瑞姫は、お上品な物言いで、些か頬を赤らめながら小首を傾げた。

「ん……実は、俺の彼女、すっげー嫉妬深いんだ。彼女を怒らせたくはないんだよ。それに、今急いでるし、ごめんな!」

 雄大は、瑞姫に背を向けて、足早に立ち去ることを選んだ。

 彼は、眉間に深い皺を刻んだ。彼はもはや、真面目な警察官の息子ではないのだ。

 まさか、雄大にとって理想の男だった父が、風俗嬢に大怪我を負わせて逮捕されるだなんて、思ってもみなかった。当然ながら両親は離婚して、雄大の暮らしも激変した。

 そうした一連の出来事は、全て瑞姫の転校後のことで、彼女に話して聞かせる気にもなれない。瑞姫への態度は失礼だったかもしれないが、彼女は男連れだったのだから、別にいいだろう。

 雄大は、自分にそう言い聞かせた。


「残念だわ。ユウくんには、彼女さんがいらっしゃるのね」

「食べてしまえば、いなくなりますよ」

「そんなこと言わないでちょうだいな、紅太郎!」

 瑞姫は、専属の執事を睨み上げた。

 瑞姫は今や、本家の養女となり、令嬢然とした生活にも慣れた。とはいえ、実父とも交流を続けているし、かつて兄のように慕っていた紅太郎に至っては、彼女専属の執事と化してそばにいるのである。

 大学から帰宅した令嬢の着替えを手伝いながら、一緒に鏡に映っている紅太郎の姿形は、ここ十年ほど、全くといっていいほど変化していない。

「姫、人肉食は、若さを保つためにも役に立ちますよ」

 彼は、美しい青年の姿で、笑ってみせたのである。

「……そうね。もう少し食べたほうがいいことは、私もわかっているのだけど……」

 瑞姫は、そっとブラウスを捲り上げた。

 令嬢の白い脇腹には、もっと青白い一個の人面が、どこか能面のように、目と口を薄く開いて浮かび上がっていた。

 それはかつて、瑞姫がお食い初めで完食した人間の顔である。

「ねえ、咲良さん。いつかあなたのことを、立派な土蜘蛛として産んで差し上げますからね。私のことを守ろうとしてくれたあなたへの、心からの感謝の印です。土蜘蛛の寿命は、人間よりもずっと長い。それに、あなたは土蜘蛛の研究をしてらしたんだから、嬉しいでしょう?」

 瑞姫は、情愛を込めて語り掛けたが、咲良の顔は、むしろ恨めしげに強張ったのである。

「将来的に土蜘蛛の一族に加えても良いと思える人間」——実はそれこそが、瑞姫にとっての人肉食の基準なのである。


「姫、この僕をあなたの最初の夫にしてはいただけないでしょうか? 僕が若さを保つべく努めているのも、あなたに相応しい男でありたいからなのです!」

 紅太郎は、やおら騎士のごとく跪くと、瑞姫の手を取ったのだった。

「それはダメよ。掟に反するわ。あなたを夫に選んでしまったら、子を産む滋養として、あなたを食べなくてはいけなくなるもの」

 瑞姫は、キッパリと首を横に振った。土蜘蛛の数は人間に比して圧倒的に少ない。同族の数を減らさぬためにも、子供は人との間にもうけることが掟なのだ。

「だとしても! 僕の情熱は燃え盛るばかりです。まるで、ラフレシアの芳醇な腐臭に抗えない蝿のように!」

 紅太郎は、両眼を赤々と輝かせて、大真面目に告白したのだった。

 ラフレシアとは、世界最大の花である。ただし、その臭いはしばしば「汲み取り式の便所」に例えられる……

 瑞姫は、能面よりも無表情となった。

「ねえ、紅太郎。私は世間知らずかもしれないけれど、あなたのことをどう呼べばいいのかくらいはわかるわ。ズバリ『残念なイケメン』よ!」


「え……あの男は、恋人じゃないんですか?」

 翌日、雄大は、心理学の教授からを聞かされた。瑞姫は大学理事長の養女であり、専属の執事を連れ回すほどに裕福であるのだと。

 奨学金という借金に塗れた彼は、思わず瞳を揺らめかせた。

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