第2話

(やっぱり……、濁ってる……)

 背中を痛めたベリアを医務室に連れて行き、リィルは中庭の噴水を順に覗き込んでいた。

 イグと話をした中央の噴水だけではなく、中庭の他の二つの噴水も同じように濁っている。敷地内の小川は噴水から湧き出した水が流れているのを考えると、瘴気を浄化する力は夕方の時点でかなり落ちていたということだ。

(この調子じゃ、他の場所の噴水もマズいかも……。こんな時に水門を開けてたら、夕べみたいなことにもなるわよね……。厳密には、「夕べ」じゃないけど……)

 ベリアに「昨夜」の出来事をそれとなく聞いてみたが、返ってきたのは「二十六日の夜」の出来事だった。つまり、叔母の中では「二十七日の夜」はまだ来ていないということだ。

 医務室のイルクも同じ反応だったし、鍵の保管日誌も二十七日朝の開錠の記録までしかなかった。二十七日が終わっているのならば、施錠の記録もあるはずなのに。

 今が、二十七日の夕方なのは間違いなさそうだ。

(……時間が戻ったってこと……? あたしが体験した「二十七日の夜」は存在しないってことなの……?)

 昨日と同じように中央の噴水の縁に腰を下ろし、空を見上げた。

「昨夜」が存在しないのなら、ペンダントは? 図書室の本は?

 どこに消えたというのだろう?

「どこにいるのよ、イグ……。聞きたいことも言いたいことも、いっぱいあるのに……」

 入場証を配っている正門の受付カウンターにも行ってみたが、入場証は先日のリィルの当番の日と同じ数で、帳簿にも入場者の記録はなかった。イグが乗って来たはずの最終便は既に出てしまったらしく、正門は閉ざされ、今日の受付当番のルーシェは仕事に戻ってしまっていた。

「辞典はあげられるけど、ペンダントは返ってきてほしいなあ、とか……、違うかあ」

 さっきからずっとモヤモヤしている。

 大聖殿への推薦を断った時と似ているかもしれない。

(……イグは幻想夜を追いかけてきたのよね? 今夜、幻想夜が起こるなら、フルスにいないといけないんじゃないの? それとも……)

 幻想夜はもう来ないのだろうか?

 昨夜、人知れず終わって、彼は次の発生地に向かってしまったのだろうか?

 だったら、たぶん、もうフルスへは来ない……。

「あ~~、いた! リィル姉!」

 元気な声に顔を上げた。

 フルスの白い制服を着た活発そうな茶髪の女の子と、少し遅れて同じ服装の赤い髪の女の子が曲がり角から姿を現した。

「サラ……、シャーリー……っ」

 昨夜の真っ青な二人の顔が過り、目が熱くなった。

「リィル姉! 裏門に行ってあげて! 荷物がいっぱい届いて、ルーシェ姉が困ってる!」

 リィルの様子がおかしいのに気づいたのか、サラは不思議そうな顔をした。

「リィル姉? どうしたの?」

「リィルお姉ちゃん……?」

 不思議そうな顔で覗き込む二人に、込み上げてきたものが決壊した。

「ど、どうもしないわよ! よかった~~~~~!!」

 思わず二人まとめてぎゅうっと抱きしめた。

 ――温かい……、生きてるんだ……!

 形見のペンダントは失くしてしまったけれど、二人や叔母、フルスの皆と引き換えたと思えば、惜しくなんてない。

 きっと、母も父も赦してくれるはずだ。

「な、なに!? どうしたの??」

「お、お姉ちゃん……!?」

「よかったあ……! 本当に……っ」

 気持ちのままに力を込めると、腕の中で悲痛な声が上がった。

「り、リィル姉……! く、苦しい……っ」

「お、お姉ちゃん……、サラの顔、真っ青……、痛……いっ」

「ご、ごめん!」

 慌てて手を離すと、二人は地面にぐたっと座りこんだ。

「ぷは~~、く、苦しかったぁ~~! シャーリー、大丈夫? 骨折れてない?」

「う、うん……、リィルお姉ちゃん……、必殺技の練習はシムルさんのほうが……」

「そうだよ~~、シムルさんなら練習台になってくれるよ~~。『俺の筋肉と勝負したいのか!?』って」

 ――本当に……、生きてるんだ……!

 目頭が熱くなって、指で拭った。

 ちなみに、シムルは人間の男性職員で、昨日はべリアの使いで朝早くから近くの村に出かけていて、夜になって戻ってきていた。

「……生きてるって……、素晴らしいわね……、本当に……っ」

 感極まるリィルを、二人の少女は呆気にとられた顔で見上げた。

「今日のリィル姉……、めっちゃくちゃ変……。ベリージュースと間違えてワイン一気飲みした時みたいじゃない?」

「お舟からレプス湖に落っこちて風邪引いちゃった時も、こんなだったよ?」

 好き勝手な二人の言葉も、今日は全く気にならない。生きているからこそ、こんな言葉も聞けるのだ。

「っ……どっちも、ハズレ……っ」

 目元を拭い、ストンとしゃがんだ。

「それより、イグを見なかった? 蒼い髪の、ソティストの研究者の男の子なんだけど……」

 二人はきょとんとした。

「誰? ソティストからお客さんが来るの?」

「リィルお姉ちゃん……、祭典は来週だよ?」

「そうだよ、リィル姉! まだ二十七日なのに、フルスにお客さんが来るわけないよお!」

 ――この子達も、イグのことを知らないんだ……

 ベリアとイルクにもそれとなく聞いたが、同じ反応だった。

 つまり、それは――、

「ごめん、なんでもないから!」

「あ、リィル姉! 裏門でルーシェ姉が待ってるってば!!」

 後ろから追いかけてきたサラの声に軽く手を挙げて応え、中庭を突っ切った。

(やっぱり、イグは来てないんだ……! それだけじゃなくて……、)

 ――皆の中の記憶も消えちゃってる……

 この時間に戻った理由がなんとなくわかった気がした。

 イグは、「夕べ」だけじゃなくて、自分がフルスに来たこともなかったことにしたかったのではないだろうか?

 それなら、どうして、リィルには全ての記憶があるのだろう?

(まだ……! ルーシェがいるわ……!)

 受付をしていた彼女なら、彼を見ているかもしれない。

 フルスに降りていなくても、最終便の舟に乗っているのを見かけているかも――!

 階段を駆け下りると、船着き場で蜂蜜色の髪の少女が手を振った。

「リィル! 忙しい時に……」

「ルーシェ……!」

 昨夜の虚ろな目と万年筆の言葉が過って、胸がいっぱいになった。

 一直線に駆け寄り、ガシッと抱き着いた。

「きゃっ!? ど、どうしたの、リィル……!?」

「どうしたもこうしたもないわよお……、本当に、サプライズ好きのお人好しなんだからあっ」

「え……、な、なんの……こと……?」

 メキっと硬い音が聞こえた気がしたが、何の音なのか考える余裕はなかった。

「ありがとうね……、本当に、ありがとう……!」

「り、リィルちゃん!? ルーシェちゃんは人間なんだよ!? リィルちゃんがそんな気合入れてサバ折りなんてしたら……!!」

 鬼気迫る顔で止めに入った船頭に我に返る。

「ご、ごめん、ルーシェ! つい……!」

 腕を離すと、よろよろとルーシェは座り込んだ。

「だ、大丈夫……、こ、こんなこともあろうかと、服の下に鉄板を仕込んでるから……」

「へ? 鉄板?? な、なんで??」

「だ、だって……、小さな頃からリィルに締められて、三十回くらいあの世を見てる気がするもの……。でも、今日のはちょっと……、鉄板……曲がっちゃった……かも……」

 力なく笑い、ルーシェはその場に崩れ落ちた。

「きゃーーーー!? ルーシェーーー!?」

「ルーシェちゃん!? 気をしっかり持つんだ! ルーシェちゃんーーー!!」

 夕暮れ時の裏門に、リィルと船頭のオヤジの声が響き渡った。

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