第五章 そして、午後四時
第1話
午後四時を告げる鐘が静かな室内に響いた。
カクン、と支えがなくなり、リィルは目を開けた。
「え!?」
視界いっぱいに迫りくる開かれたままの分厚い本に、高速で机に両手をついて顔面の激突を免れる。
「どういう……、こと…………?」
貸し切り状態の図書室を呆然と見まわした。
見慣れた午後のフルスの図書室は平和そのもので、いつもと変わらない時間を刻んでいる。
夢を見ていたのだろうか?
それにしては、あまりにもリアルだった。
リタやルーシェ、シャーリーの肌の冷たさも、怒りに任せてマラットを叩き潰した感触も、手に生々しく残っている。
(イグは!?)
椅子を蹴るようにして立ち上がる。彼がいた本棚を覗いてみても、誰の姿もなければ、笑い声も聞こえてこない。
蒼い髪の少年の姿を探して歩き回ってみても、図書室は閑散としていて誰の気配もない。
(本当に……、夢だったの……? さっきまでのこと、全部……?)
この図書室で彼に会ったのも。夜に精霊石の話をしたのも。何もかも、夢の中の出来事だったのだろうか?
(それじゃ、この石……、精霊石じゃないってこと……?)
ペンダントを掴もうとした手が肌に触れた。
サッと血の気が引く。
「な、ない! 石と、母さんの指輪……! 父さんが造ってくれた鎖も……!」
ペタペタと自分の首元を触っても、指先に金属の感触はない。
机の傍まで戻り、屈みこんで床を見回した。黒い石も銀の指輪も、鎖も、どこにも見当たらない。
あんなに目立つものが転がっていれば、さすがに目につくはずなのに――!
「う、ウソ……! どこに行っちゃったの!? 母さんと父さんの形見なのに……!!」
今日はやたらと眠たくて、何度か舟をこいではペンダントが机にぶつかってカツカツと音を立てていた。
何度目かに煩くなって、襟の内側に石と指輪を入れたのを覚えている。席についた後も身に着けていたのは間違いないはずだ。
「はあ……、ついてないなあ。誰か見つけた人が落とし物棚に入れてくれるかな……」
棚があるカウンターを眺め、ペン立てに違和感を抱く。
(ペンの色が全部変わってる……。誰かがタリスマンを発動させたってこと……?)
ペンで遊んでいたイグが過った。
込められた魔力が強いほど、タリスマンの持続時間は長い。
彼ほど強い魔力の持ち主ならば、丸一日くらい持続してもおかしくない。
跳ねあがった鼓動を落ち着け、帳簿を棚から引っ張り出した。
(ない……)
帳簿には職員の名前がずらりと並んでいるだけ。彼が記入したはずの最後の欄は空欄だ。
(確か……、あの棚……、)
彼が本を取り出していた棚の前に立ち、並んでいる本を調べる。
あまりフルスの面々が手に取らないだろう怪現象を集めた辞典の中に不自然な空白を見つけ、息を呑む。
(そうだわ……、ペンダント……、シャーリーに貸したまま……)
昨夜、シャーリーの手に巻き付けたまま、幻想夜の中で失くしてしまった。
もしも、あの出来事が現実だったならば、リィルが持っているはずがない。
「待って……、それじゃ、今日って……、何日なの……?」
恐る恐るカウンターのカレンダーを振り返った。紅いタリスマンは二十七の位置で灯っている。
「舞翼の奏主の月二十七日…………? 昨日……? どういうこと……?」
普通に考えるならば、リィルが居眠りして夢を見ただけだ。
ペンは誰かが発動させたのかもしれないし、ペンダントだって図書室のどこかに転がっているのかもしれない。
『この夜の中では、全てが幻想であり、現実……。僕達は今、幻と現実の分岐点に立っているんだ』
イグの静かな声が聞こえた気がした。
もしも全てが夢だというのならば、「イグ=トラウム」という名の少年はどこから来たというのだろう?
会ったこともない他の精霊王領の研究者を夢に見て、全く手掛かりのない怪現象の正体までも想像したというのだろうか?
『じゃあね、リィル。君と、フルス聖殿の人々に、僕から祝福を……』
最後に聞こえた声が鼓膜の奥に蘇った。
ついさっき聞いたばかりのように鮮明な声は、確信するのに十分だった。
「貴方は……、確かにここにいたわ……」
呟いた自分の声に、目が覚めたように頭が晴れた。
――あれは……、夢なんかじゃない……!
こんなにはっきりと覚えている声が、ただの夢のはずがない。
あの少年は昨日、間違いなく、このフルスを悪夢から救ってくれて、誰からも感謝されることなく去っていったのだ。
「これが、『祝福』なの? だから、『幻想夜でよかった』って……。最初から、助けてくれるつもりだったんだ……っ」
声は虚しく広がって消えただけだった。
居ても立っても居られなくなって、図書室を飛び出した。
(昨日の魔の霧が丸ごと悪夢になったんなら……、今日は二十八日のはずよ……!? どうして、二十七日なの!? これじゃ、まるで……)
入ってこようとした人物とぶつかりそうになって、戦闘さながらの動きで横にかわす。
「まあ、リィル……。どうしたの、そんなに慌てて……。こんな場所で走っては危ないわ」
「叔母様……っ」
目を丸くしている叔母に、メイスを手に部屋を出て行った姿が重なった。
もう二度と会えないのだと絶望した気持ちが蘇ってきて、気づけばしがみついていた。
「叔母様……っ、よかった……、本当に……っ」
「あらあら、どうしたの? 今日は随分と甘えん坊さんね」
抱き締め返してくれた腕は温かくて、胸からは鼓動が聞こえた。
――生きてる……!
当たり前のはずのことが、こんなに幸せに思える。
この「当たり前」が存在していること自体が奇跡なのかもしれないのに、考えたこともなかった。
「怖い夢を見たの……、魔の霧が……、フルスを呑み込んじゃう夢……っ」
「そう……」
叔母は迷うように黙り込んだ。
「……今日は聖騎士の二人も、
「うん……っ」
頷き、しがみつく腕に力を込めた。
「うぐっ!?」
妙な声が頭上で聞こえた。
顔を上げると、ベリアが凄まじい顔で固まっていた。
「叔母様?」
「リィル……、す、少しだけ緩めて……、背骨が、悲鳴を……っ」
青ざめていく叔母に、慌てて腕を放した。
「ご、ごめんなさい……! つ、つい……っ」
「だ、大丈夫よ……、私だって、紅龍皇帝のご加護を受けた精霊族ですもの……」
床にへたり込んで背中をさすりながら、ベリアは目を細めた。
「ふ、ふふ……、この痛み……、懐かしいわ……。姉さんを上回るパワーだったわよ、リィル……。姉さんは、神学校時代、現役の紅龍騎士団長をも腕相撲で瞬殺した、赤龍皇帝領にこの人ありとまで謳われた、超怪力女子だったの……」
「えええええええええっ!? なに、その笑えない武勇伝!? 勝っても全然嬉しくないんだけど……!!」
よく晴れた空に、リィルの悲痛な絶叫が吸い込まれていった。
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