第4話

 水没したように景色がぼやけ、天地がぐにゃりと歪んだ。

 床も天井もベッドも、横たわっていたシャーリーも、巨大な絵を千々に砕いたように破片になって闇の中へと散っていく。

 停止した景色の破片が無数に漂う中を灰色の稲光が光り、稲光から無数の幻蛍が飛び出しては暗い宙を舞った。

(なに……、あれ……?)

 稲光の中にうっすらと何かが浮かんでいる。

 朽ちた城のようにも、枯れた大樹のようにも見える巨大なそれは、目を凝らしても雪の向こうにあるように霞んでいて、全体を捉えることはできない。だけど、どこか懐かしい気がした。

「ああ、やっと来た……。待ってたんだ」

 イグは舞い踊る蛍の一つに手を伸ばした。

 淡く瞬く蛍達が一斉に蒼く染まり、蒼い雪へと変わった。

 いつの間にか稲光が止み、蒼い雪が静かに降りしきる灰色の世界に立っていた。

「なに……、ここ……」

 足元に地面はなく一面の灰色で、空も灰色に染まっている。気を抜けば天地もわからなくなりそうな色を喪った世界の中を、ただ蒼い雪が静かに舞うばかり。

 物音ひとつしない世界に、蒼い魔力に包まれた少年はその場の支配者のように悠然と佇んでいた。

「ここは時と空間が入り乱れるひずみであり、夢と現実の狭間。幻想夜ファントム・ナイトって言ったほうがわかりやすいかもしれないね……」

「幻想夜……? これが……」

 あり得ないほど最悪なことが起こりすぎて、頭も心も飽和状態だ。

 さらに幻想夜が起きたところで、感情が麻痺したように何も感じない。

「この夜の中では、全てが幻想であり、現実……。僕達は今、幻と現実の分岐点に立っているんだ。今夜が幻想夜でよかったよ……」

 まるで絵本を読み聞かせているような穏やかな口調に、心が静まっていく。

 気づけば、あんなに荒れていた感情が凪いでいた。

「どういうこと……? 貴方が……、幻想夜を呼んだの……?」

「僕は、夜を追いかけてきただけ。この歪みが、いつ、どこで起こるのか……、ある程度はわかるからね……」

 幻想夜は正体も発生場所も全てが不明の怪現象だ。だけど、彼の口ぶりでは、彼は少なくとも幻想夜の発生場所を予想して、フルスに来たということになる。

(幻想夜に遭った人は……、その間のことを誰も覚えてないんじゃなかったの……)

 だとすると、この幻想夜に関わることこそが、精霊の寵児である彼が受け取った、蒼月王の「意思」なのだろうか?

 彼は幻想夜を追いかけて、ずっと旅を続けているのだろうか?

「リィルは幻想夜が見たいんだったよね。どう? 幻蛍フェアリーはそれなりに綺麗でしょ?」

「……こんな時に、そんな風に思えないわよ……っ」

 現実を思い出し、涙が滲んだ。

 幻想夜が出現しても、今夜がなかったことにはならない。

 フルスの家族はもう帰ってこないのだ。

「……一つだけ勘違いしないでほしいのは、幻想夜の発生と魔の霧の発生は無関係だよ。今夜は偶然、重なっただけ……」

 にこやかに微笑み、彼は蒼い雪を眺めた。

「……幻想夜はね、この世界の綻びなんだ。噓と偽りで塗り固められた、虚夢の世界パンタシアの……」

 笑みを収め、少年は無表情で灰色の空を見上げた。

「綻びは、精霊界が下界パンタシアに施した禁忌タブー……、人類が触れることは許されない。不可抗力だけど、幻想夜に巻き込まれた人類は禁忌に触れてしまうんだ。だから、幻想夜の場には、精霊界から審判者が降りてくる」

「ま、待ってよ……、禁忌って何!? 何を審判するの!?」

「この先も楽園パンタシアに住まうべきか、追放するべきか……、だよ」

 彼はにっこりと笑った。

「ちなみに、今夜の審判者は僕なんだ……。今回の幻想夜で禁忌に触れたのは、君を含む、今夜フルス聖殿に存在した人達全員……。さて、どうしたものかな……」

「あ、あたし達全員って……! 審判するも何も、もうあたししかいないじゃない! 叔母様も、ルーシェも、シャーリーもサラも、リタさんも、イルクさん達も……、皆……、もういないわ……っ」

 じわりと滲んだ目元を乱暴に拭った。

 『姉さんの、巡礼士カナリス=ワイトフォールの娘として、胸を張って生きなさい』

 叔母の言葉が過り、唇を噛みしめた。

 理不尽への怒りに任せて力に訴えるのは簡単だ。だけど、そんなこと、叔母は望んでいない。きっと母も。

 二人ならば、精霊界の審判の場で見苦しい真似なんて絶対にしない――、そんな気がする。

 必死に自分を宥め、メイスを手放した。音もなく足元に落ちたメイスが灰色の中に埋もれて沈んでいく。

「いいわ……、審判してよ……。魔獣に殺されるより、精霊界に殺されるほうが、まだマシよ……」

 恐怖はなかった。

 「追放」になれば、どうなるのかなどとわからない。

 だけど、それでも構わなかった。

 今夜が終わって明日になっても、瘴気に沈んだフルス聖殿は元に戻らない。

 帰る場所も、待っていてくれる家族も、もういないのだ。

 それならば、いっそのこと、この少年の手で、皆と同じ場所に行けるほうが幸せかもしれない。

「荒んでるなあ、リィル。よ」

 彼は微笑んだ。

 慈悲すら感じるその表情に、蒼月王を称する「慈悲深き聖炎の王」の一節が浮かんだ。

「実はね、もうとっくに答えは出てたんだ……。君が『幸せ』で、このフルスに紅龍の釣り鐘草が芽吹いた……、それが答えだよ」

「なによ、それ……、どういうこと……?」

精霊王の釣り鐘草グラン・カンパニュラは、純粋な願いや思いにしか応えないんだ。リタさんとイルクさんだっけ? 種が芽吹いたまま生き続けているのは、彼らの願いに嘘偽りがない証拠だよ……。他の人達も……、この聖殿の、誰か一人でも利己的な感情に支配されているなら、釣り鐘草はすぐに枯れてしまってた……」

 イグはふわりと肩の火蜥蜴に触れた。

「久しぶりに、人類に希望が見えたよ……。吹けば飛んでしまいそうな小さな灯だけどね……」

 少年の髪と瞳が蒼く燃え上がり、灰色の世界を染めた。

 渦巻く魔力の余波に、思わず腕で顔を守る。

(なんて魔力なの……! さっきの蒼い炎も……、こんなの、精霊の寵児とか、そういう次元じゃなくて……)

 ――精霊エレメントそのもの……


 巡れ、無限の理

 時と空の円環よ、交わりの眼より夢幻を解き放て……

 

 唄うような、静かな詠唱に蒼く染まった世界に巨大な黒い稲妻が走り、風車のような羽に変わった。

 闇色の羽がゆっくりと回転するごとに天地がかき回され、巨大な蒼と黒の渦が生じていく。

「僕にできるのはこれくらいだ。もうわかってるだろうけれど、今夜の悲劇はささやかなミスの積み重ね……、きみの力で十分防げる……」

 闇が広がった。

 黒く染まった世界の中で、地面が流れるように少年が遠ざかっていく。

「待っ……」

 声を上げた時には、闇の中に独りで立っていた。蒼い髪の少年も彼の蒼い炎も、どこにもない。 


 幾億の幻想よ、我が名の下に悪夢を閉ざせ……


 唄うような声が、鼓膜を揺らした。


『じゃあね、リィル。君と、フルス聖殿の人々に、から祝福を……』


 声を最後に、意識が薄れていった。

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