第3話

 壁に肉片が散った。

 突き出されたメイスが骨を砕き、マラットの顔面にのめり込んでいた。

「……アンタ達なんかに……、殺されてあげるわけないでしょ……ッ」

 立ち上がりながら振るったメイスから巨大ネズミの死体が床にべシャリと音を立てて落ちた。無残な仲間の亡骸に一斉に攻撃体制を取る二十を超えるマラットの群れに、少女は挑戦的に笑った。

「いいわ……。かかってきなさいよ……、ぶっ飛ばしてあげる……」

 正面だけでなく左右から飛び掛かってくる魔獣を睨み、リィルはメイスを振るった。

「<水圧柱アクア・フォール>!」

 メイスの先端でタリスマンが輝き、その軌道に沿うように床から紅い水柱が吹き上げる。

 巨大なネズミ達を呑み込んだ紅い水柱は魔獣の血で赤を濃くしながら、勢い良く天井まで突き上げた。

 天井から圧死したマラットの死骸がバラバラになって降ってくる間にも、メイスを振り下ろし続けた。

「<水圧柱>……! <水圧柱>!!」」

 何かが壊れたように呪文を放ち、水注を逃れたマラットをメイスで容赦なく叩きのめす。

 瞬くうちに、室内は黒い魔ネズミの死骸と血、骸から吹きあがる瘴気に埋め尽くされた。

(なんで……っ、どうして……っ)

 こんな時に限って、聖騎士コンビがいないのだろう?

 副神官長がいないのだろう?

 紅龍皇帝の加護が弱まってしまったのだろう?

 いくつもの疑問が過ったが、そのどれもに答えはない。

「どうして……っ」

 唇を噛みしめた。

 戦闘槌のように振ったメイスが飛びかかってきたマラットの頭を頭蓋骨ごと砕く。

 ――加護が弱まっていることに気づけなかったのだろう!?

 その兆しはいくつもあった。

 どこかで薄々感じていた。

 だけど――、本当は気づくのが怖かっただけかもしれなくて――!

「このまま……、精霊王の加護がなくなっちゃったら……、パンタシアあたしたちは……、どうなっちゃうのよ……っ」

 思わず漏れた声は掠れていた。

 精霊族の七割近くは一般精霊族だ。瘴気に耐性があるといっても、人間とそれほど違いがあるわけではない。

 そして、パンタシアの人類の八割は人間だ。

 精霊王の加護を失えば、パンタシアの人類はほとんどが死に絶えてしまうのでは?

 パンタシアは瘴気と魔獣が支配する地獄に変わってしまうのではないだろうか?

 背後の窓でガラスが砕ける音がした。

 飛び込んでくる羽音に、頭上に視線を走らせる。

魔鳥デビック……!)

 目を赤く光らせ、不気味な声を上げながら舞い込んできた黒い怪鳥はメイスをかわし、天井を飛び回った。視界の端では壊れたドアから新たなマラットが入り込んできている。

(この数じゃ、魔法で一網打尽にするしかなさそうね……)

 後ろからの奇声に呪文を中断する。

 数体のデビックがベッドに止まり、シャーリーにくちばしを向けている。

「だ、ダメ! 離れなさい! 離れろっっっ!」

 怒りに任せて振るったメイスがデビックに命中し、首の長い鳥を壁に叩きつける。

 真後ろで羽音がした。

 眼前に迫った怪鳥が牙の生えた嘴を大きく開けた。

「あ…………」

 呼気が漏れ、頭が一瞬真っ白になる。

 立ち尽くしたリィルの頭に嘴が食い込む寸前、暗い世界が蒼に染まった。

 呆然とするリィルの目の前で、鳥が蒼い炎に包まれて消滅してゆく。

「蒼い……炎……? まさか……、聖炎……?」

 聖炎と呼ばれる蒼い炎は蒼月王の象徴だ。

 だが、聖炎を操ることができる精霊族は存在せず、精霊の寵児でさえ聖炎を操れた人物は存在しない。

「探したよ、リィル。宿泊棟こんなところにいたんだね……」

 部屋全体を覆った蒼い炎の中を平然と歩いてきた旅装束の少年は、怖いくらい普通に笑った。

「イグ…………」

 無事でいてくれて嬉しいはずなのに、半歩後ずさった。本能的な恐怖だったかもしれない。

 彼は炎に包まれて動きを止めている魔獣達に場違いなほど穏やかに微笑んだ。

「お休み、罪なき子達……」

 炎が揺らめき、宙を漂う瘴気に燃え移った。

 瞬くうちに蒼く燃え上がった世界の中で、魔獣が跡形もなく燃え尽きて消えていく。

(ウソ……、いったい、どうやって……?)

 イグは印を切っていなければ、呪文も唱えていない。手にも何も持っていない。

 だ。

 それだけで、魔獣だけでなく瘴気までもを一掃してしまったのだ。

 静けさを取り戻した室内で、彼はにっこりと笑った。

「災難だったね、リィル。怪我はない?」

「あ、あたしは平気! それより、シャーリーが……!」

 彼はベッドに視線を移し、軽く息を吐いた。

「可哀そうだけど、手遅れだよ。向こうの建物に、神官長さん達がいたけれど……、居住棟って言ってたっけ?」

「叔母様が!? それで、叔母様は!? 無事なの……!?」

 彼は静かに首を横に振った。

「マラットが大量発生しててね……。紅龍皇帝の戦闘力を受け継いでいない人には厳しかったみたいだね。他の職員さん達は瘴気にやられたみたいだ。魔の霧がこんなに立ち込めてたんじゃ、しょうがないんじゃないかな」

 淡々と話す彼の表情にも声にも、感情は全くこもっていない。まるで、錬金実験の分析結果を話しているようだ。

「…………どうして?」

「なにが?」

「どうして、そんなに何ともない顔してるの!? 図書室で、言ってくれたじゃない……! 『フルスはいい人達ばかり』って……! 夕ご飯の時も、あんなに楽しそうだったじゃない! その人達が……、死んじゃったのよ!? 何とも思わないわけ!?」

 言い過ぎたと思った。

 今夜の行き場のない怒りを彼にぶつけるのはお門違いもいいところだ。

 だけど、どうしても止まらなかった。

「……この程度で取り乱すようじゃ、巡礼士はやめたほうがいいよ。魔の霧は世界中で毎日のように発生してるんだ。旅に出たら、もっと酷いモノを見るかもしれない」

 気分を悪くした様子もない、どこまでも冷静な口調だった。反省していた気持ちも吹き飛んで、頭がカッと熱くなった。

「なによ……、それ……! 大事な人達が! 家族が、魔の霧に殺されたのよ!? 取り乱して何が悪いの!? どこが『この程度』なのよ!? 貴方だって……、」

 心の奥深くで、誰かが止めたような気がした。だけど、感情の激流の中に消えて行った。

「大事な人とか、家族とか……、いるんでしょ!? その人達が同じ目に遭っても、そんな風に言えるわけ!?」

 沈黙が落ちた。

 感情を鎮めるように瞼を閉じた後、彼は悲しそうに笑った。

「……『仲間』なら、いたよ。皆、もうずっと昔にいなくなっちゃったけどね……。『大事な人の死』を見すぎたせいかな……、あれから、誰かの死を見ても、何にも感じないんだ……。気を悪くしたなら、謝るよ」

 とんでもない失言をしてしまったのだと気づく。いくら知らなかったとしても、心に余裕がなかったとしても、言ってはいけない事だった。

「あ……」

 謝ろうと口を開いた時、小さな光の蛍が視界を横ぎって舞った。

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