第2話

 花壇の向こうで霧が不自然に動いた。

 左手でシャーリーを支え、右手でメイスを構える。

 気配を頼りに振るったメイスに重い手ごたえと不気味な悲鳴が返る。

 子熊ほどの大きさの生物が着地し、威嚇の声を上げた。

(マラット……!)

 瘴気に侵されて魔獣化したネズミだ。この付近では、犬の魔獣ドグルや鳥の魔獣デビックと並んで数が多い。そして、この魔獣は岸から渡ってきたのではなく、フルス内で発生した可能性が高い――!

 威嚇の声を上げながら、巨大ネズミが跳躍した。

「<水短刃アクア・ダガー>」

 紅く光る水の刃がネズミの顔面をバックリと切り裂く。硬質の毛が飛び散り、動きを止めたネズミにメイスを振り上げる。

 骨が砕ける手ごたえと共に花壇の向こうへ吹き飛んでいく黒い塊を見送ることなく、再び駆け出した。

(魔獣が出てきてる……! この調子じゃ、湖も……!)

 レプス湖には多くの生物が住んでいる。聖水が混ざる水中に住む魚が瘴気に侵されるまでにはまだ暫くかかるだろう。

 だけど、水上の浮島や湖畔の木をねぐらにしている水鳥達は違う。魔獣化は確実な上に、翼を持つ鳥達は上空から襲ってくる。

(湖を渡っている最中にデビックに襲われたらひとたまりもないわ……! イグがいても、シャーリーを守りながら、舟を操縦なんて……っ)

 できるのだろうか、自分に。

 フルス聖殿で育てられた子供は、幼い頃からレプス湖で舟の操縦を習う。いざという時の為に、夜での操縦も練習したが、魔獣がいる状況での操縦なんてやったことはない。

 ようやく中庭を抜け、宿泊棟の前まで辿り着いて息を呑んだ。

 裏門の方向から黒い雨雲のような瘴気の塊が移動してくる。

(どうして……、水門は閉まってるはずなのに……)

 ドキリと鼓動が跳ねた。

 ――違う……、祭典前は……

 フルス聖殿は周りをタリスマンを組み込んだ高い城壁に囲まれ、出入り口は玄関と裏口の二つの水門だけ。両方の水門を閉じることで、上空に巡らされた半円ドーム型の結界が強化され、瘴気ばかりか魔獣をも阻む強固な要塞のようになる。

 だけど、水門が開いていれば、結界は弱いままだ。その上、瘴気を浄化してくれる川や噴水の水が瘴気で穢れて力を失えば、上空の結界と城壁によって瘴気が聖殿内に溜まり続け、フルスは瘴気の溜まり場になってしまう――!

(そうだわ……、毎年、この時期だけ夜の間も門を開けてる……っ)

 祭典前から祭典の間のひと月ほどの間。この時期だけ、緊急の荷物や郵便が届いたり、急病人が来ることもあるからと裏口の水門は開いている。

 ただし、聖騎士コンビが巡回を強化してくれていて、異変があればすぐさま門を閉じてくれる。しかし、今日はその二人がいない……。

(そんな……、どうして……!? あと三日で、紅龍皇帝の月なのよ!?)

 各精霊月の間は、精霊王の加護が強まる。

 来月は紅龍皇帝の月だから、三日前の今はもう紅龍皇帝の加護が強まってきているはず。領内を流れる川も雨もいつもよりも浄化の力が強まって――、そもそも魔の霧が発生するはずがないのに――!

「紅龍皇帝の加護が……、弱まってる……?」

 無意識に漏れた自分の言葉に悪寒が走った。

 おかしいと思うことは何度かあった。

 昼間の噴水の濁り、聖騎士コンビが出張する原因になったフナツ村の魔犬の発生……、この時期に、魔獣が大量発生することなんて今までなかったのに……。

「……ィル……、おね……ちゃ……、ご……めん……ね……」

 背中から聞こえた小さな声に弾かれたように振り返った。

「シャーリー!? 苦しいの!?」

 宿泊棟に駆け込むと、黒い霧が立ち込めるエントランスが出迎えた。

「<最大出力マキシム>!」

 叩くようにして壁のタリスマンを発動させながら一番近くの部屋に飛び込んだ。

 乱暴にドアを閉め、シャーリーを奥のベッドに下す。

「シャーリー! しっかり……」

「ごめ……んね……、サラ……、ご……めんなさ……い」

「しっかりして! 謝ることなんてないから!」

 茶の瞳に涙が溢れた。

「わたし……が……、お外……出……ちゃった……から、サラ……、がっ」

 目蓋が下りた。

 一筋の涙がこめかみを滑り落ちていく。

「シャーリー……?」

 まだ温かい首筋に触れた手に脈は伝わらず、口元に触れた掌に呼気は感じない。

「そん……な……っ」

 全身から力が抜けて、床にへたり込んだ。

 だらりと垂れ下がった小さな右手に結んだ黒い石と銀の指輪がタリスマンの光を弾くのを呆然と眺める。

 ――シャーリーまで……

 部屋の窓と背後のドアが音を立てて揺れた。

 魔獣の赤い眼がいくつもこちらを覗き込み、ドアの向こうではキイキイと甲高い鳴き声と硬いものを削るような音が聞こえてくる。

 人の匂いに魔獣が集まってきている――、

 早く立ち上らないと――、

 頭の冷静な部分が警告を発したが、体が重たくて、メイスを持ち上げる気力も湧いてこない。

 硬い木が砕ける音がした。

 振り向いた視界に赤い目を光らせたネズミの群れが雪崩れ込んでくるのが見えた。

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