第3話

 一階は既にリィルが知っている居住棟の景色ではなくなっていた。

(どうして!? どうして、こんなに瘴気が入ってきてるの!?)

 噴水や小川の聖水、地底湖の聖水を多分に含むレプス湖、このどれか一つだけでも瘴気を撃退できる力があるはずなのに――!

(やっぱり、あの濁ってたの……)

 夕方の噴水の水がやけに思い出された。

 結局、叔母に相談できないままになってしまっている。

 その叔母が毎日のように難しい顔で図書室に通っては聖殿の古い資料を調べていた――、あれは、水の異変のことを調べていたのでは?

 副神官長のいつもよりも長い出張――、「大事な会議」というのは、聖水の異変のことを大聖殿へ相談に行ったのでは――?

 今となっては、全てが関係があるように思えてくる。

(どうして……っ)

 唇を噛んだ。

 ――どうして、噴水の異変を報告しなかったのだろう?

 報告しても、何も変わらなかったかもしれない。だけど、少なくとも、この後悔はなかったはずだ。

 ――どうしてあの時、イグに相談しなかったのだろう?

 蒼月王領の精霊の寵児の彼ならば、浄化方法や応急処置を知っていたかもしれないのに。

 だけど、あの時は、どうしても彼に知られたくなかった。

 赤龍皇帝領の聖殿が自分の敷地内でさえ制御できていないなんて、思われたくなかった。

 そのせいで、彼まで危険に晒してしまうことになった。

(どうして……!? どうして、あの時……!)

 いくつもの何気ない選択肢――、その全てを間違えてしまったような気がした。

 膨らみ続ける後悔を砕くように乱暴に壁のタリスマンを発動させる。

 紅い光が少し先の床に転がる大きな黒い塊を照らした。

(魔獣……?)

 メイスを構え、目を凝らす。

 暗い廊下の中で紅い光が目のようにチカチカと光っているが、魔獣の眼にしては弱々しい。

 なによりも、あの点滅は見覚えがある。

(魔獣じゃない……、あれって……)

 その光が小さなタリスマンから放たれていることに気づくなり、ゾッと背筋が凍えた。

 近づくにつれて、横たわる白い制服の少女が露わになる。

「ルーシェ……!?」

 抱き起した親友の髪で、バレッタのタリスマンが今にも消え入りそうな光を放った。

「しっかりして! ねえ!?」

 真っ青な頬を軽く叩き、その感触に頭が真っ白になった。

 ――冷たい……

 それが意味することを即座に頭が理解した。

 だけど、感情が全否定した。

「ウソでしょ……! 起きて! ねえっ!? 起きてよぉ……っ」

 僅かに開いた目蓋の下から覗く瞳は虚ろで、何も映していない。

「い、イヤ……! お願いだから、起きてよおおぉっっっ!」

 この現実ごと否定するように叫び、廊下を見回した。霧の中に、他の部屋よりも頑丈な作りのドアがうっすらと見える。

(喫茶室……)

 談笑用のソファがあったはずだ。

 タリスマンも取り換えたばかり。他の部屋よりも力は強いはず。

「待ってて! すぐに部屋に運ぶからね!!」

 抱き上げようとした少女の手から布で包まれたものが床に転がり落ちた。

 硬い音が静かな廊下に響く。

「万年筆……?」

 布からはみ出した少し短いペンは旅の携帯用万年筆だ。

 紅い川の模様とフルス聖殿の紋章にタリスマンが組み込まれ、お土産用に置いているものよりもずっと凝っている。

(もしかして、これを作ってて遅くなったの……?)

 恨めしい気分で万年筆を睨んだ。

 こんなものを作ってさえいなければ、早くに切り上げて部屋に戻ってくれていれば、こんなことにならなかったのに――!

 タリスマンがリィルの魔力を吸い上げたのか、小さく瞬いた。軸に金色の文字が浮かび上がる。

「え………………?」

 文字を追う目が熱くなって滲んだ。

『親愛なるイグへ リィルより』

 図書室からの帰り。

 工房へ行く前の彼女に会って、イグが図書室のペンを気に入っていたと話したら、ひどく嬉しそうにしていた。

 「いいこと聞いちゃった」などと笑いながら工房へ向かって――、

『私はリィルの味方だから。応援してるよ~~?』

 夕食の時の言葉が耳の奥に蘇っては、グルグルと回った。

 本当に応援してくれていたのだろう。

 きっと、明日イグが去る前に間に合わせようと、こんな時間まで――!

「ありがとう……、ルーシェ……。本当に……、ありがとうね……っ」

 薄く開かれた瞼をそっと閉じた。

 おしとやかで、手先が器用で、人が喜んでいるのを見るのが大好きで、意外とサプライズ好きで――、

 リィルが持っていないものばかり持っていて羨ましいけれど、ルーシェならしかたない、なんて思えてしまうような子で――!

「少しだけ……、待っててね……」

 喫茶室のソファに横たえ、青白い寝顔になんとかそれだけを囁いた。

 頭はぐちゃぐちゃで、何も考えられない。

 朝になって、この部屋に戻って来れば、ルーシェは起きているのではないか?

 いつもと変わらない顔で万年筆を見せて、「このペン、どうかな? 最高傑作!」なんて、いつものように感想を聞いてくるのではないか?

 そんな希望を捨てきれないまま、喫茶室を後にした。




「よく手入れされてる……、優秀な庭師さんなんだなあ」

 黒い霧が立ち込める薬草園を、蒼い瞳が見渡した。

 噴水を中心に丸く整備された園は黒くなった薬草の亡骸が並ぶ墓場と化している。

 散歩でもするように園の中を歩いていた少年は、噴水の傍の棚の前で立ち止まり、眼を細めた。

 棚に並んだ小さな鉢植えの細い芽だけは瑞々しい緑を保ち、この猛毒の霧の中でも仄かな紅い光を纏っている。

「驚いたな……、本当に紅龍の釣り鐘草だ……。可哀そうな人類の戯言だと思ったんだけどな……」

 少年の指が触れた双葉が紅く染まった。

「こういうのは、アドバイスって言わないのかもしれないけど……、まあ、いいか……」

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