第2話
廊下は既に瘴気でうっすらと煙っていた。
(……もう上ってきてる……っ)
思わず部屋に戻ってドアを閉め、何度も息を吸っては吐いた。
(落ち着け……、落ち着かなきゃ……、魔の霧は瘴気の塊だから、対処法は瘴気と同じで……)
神学校の特別授業と書物を必死に頭の中に呼び出した。
瘴気の浄化や避難所の開設は聖殿の重要な仕事の一つだ。とりわけ巡礼士は魔の霧に遭遇する確率も高く、試験では必ず出題される。
受験者は魔の霧の対処方法や瘴気の応急手当の特別授業だけでなく、実習も受けている。ある程度は自信があったはずなのに、あの霧を見てしまうと、一瞬、頭が真っ白になった。
(建物内で遭遇した時は……、まず窓やドアを閉めて瘴気を遮断して、タリスマンで室内の浄化を……)
壁とドアに埋め込まれた浄化用タリスマンを発動させ、窓の鍵をチェックする。
微かに濁っていた室内が赤い光に浄化され、木製のドアがうっすらと赤に染まる。
「ふう、これで良し……」
タリスマンに魔力を注ぎながら籠城すれば、朝まではもつはずだ。
問題は瘴気に侵された獣が魔獣化して襲撃してきた場合――、
「そうだ……、リタさんとルーシェ……!」
二人だって、聖殿内のタリスマンの発動法は知っている。
だけど、眠っていて霧に気づいていないとしたら――?
(マズいわ……、ドアのタリスマンを発動させてなかったら部屋の中に入ってきちゃう……)
リタは同じ二階に部屋があるから、今すぐタリスマンを発動させれば間に合うはず。だけど、ルーシェがいるだろう工房はこの居住棟の裏の建物の一階だ。窓を開けて作業でもしていれば、今頃は――、
(……行かなくちゃ……っ)
どれだけ修練を積んだ屈強な戦士でも、人間は瘴気の前には無力だ。そして、どれだけ魔法を学んでも、人間は道具やタリスマンの補助無しに魔法を使えない。
対して、どれだけ魔力容量の少ない
精霊族と人間の決定的な違いだ。
――
震える手をベルトに伸ばした。
溝に収納されている中指ほどのスティックを取り出し、軽く握る。
「<
手の中で紅い光に包まれたスティックが、ぐんっと伸びた。
ロングソードほどのメイスを握り締め、左手でペンダントを握り締める。
(母さん……、父さん……っ)
紅龍皇帝領らしく、母は魔力も身体能力も高く、あの夜も率先して避難誘導に向かった。錬金術師だった父は穏やかで戦いに向かない性格だったが、母を放っておけないと言って、霧の中へと消えて行った。
――力を貸して……っ
竦む足を叱咤してドアを開けた。
さっきよりも色を増した瘴気に沸き上がった焦燥が恐怖を押し潰していく。
(いけない……! こんなの……、人間には耐えられない……っ)
このフルス聖殿の「家族」の半数は人間だ。瘴気が少しでも体内に入れば命に関わってしまう。
聖騎士コンビも、副神官長も。こんな時、頼りになる精霊族は運悪く留守にしていて、今夜、このフルスにいる精霊族はリィルとベリア、シャーリー、そしてイグだけだ。
廊下を走りながら窓を閉め、壁の浄化用タリスマンを最大出力で発動させていく。強まった赤い光が霧を浄化し始めるが、入り込んでくる瘴気はタリスマンが浄化できる容量を超えてしまっている。
本来ならば窓からの瘴気の侵入を防ぎ、館内に入り込んだ瘴気を浄化してくれるタリスマンも、この調子では焼け石に水だ。
(よかった……、まだ魔獣は出てない……)
魔の霧では瘴気と並んで魔獣の大量発生が起きる。瘴気よりも、魔獣による死傷者のほうが多いくらいだ。
メイスを構え、霧を睨みながら廊下の突き当りの部屋に急ぐ。
「リタさん! リタさん!? 起きてください! リタさんっ」
木のドアに耳をくっつけても、返事が聞こえなければ、中で動く気配もない。
「リタさん! 開けますよ!? ドアから離れて!」
大声で叫び、メイスに魔力を込めた。
相変わらず返事は聞こえない。
(お願いだから……っ)
――無事でいて……っ
ドアノブごと鍵を破壊し、部屋に駆け込んだ。
乾燥中の薬草や花が所狭しと吊るされた暗い部屋は瘴気でうっすらと煙っている。奥のベッドに横たわる人影を見つけ、慌てて駆け寄った。
「リタさん! 起きて! 瘴気が聖殿の中に……!」
肩を揺すっても、リタは全く応えない。
いつもは水鳥の鳴き声にも目を覚ますのに。
(まさ……か……、)
恐る恐る触れた頬はまだ温かい。
だけど――、首筋には脈はなく、寝間着の上から触れた胸の下では鼓動は動いていない。
「リタさん…………?」
生温い風がリィルの髪を揺らした。
ベッドの横の窓が僅かに開き、風と瘴気が入り込んできているのに気づく。
この部屋の瘴気の侵入経路は間違いなく、ドアではなく窓の隙間だろう。
――……ウソ……でしょ……?
自分が見ているものも、触れたものも、何もかもが悪い夢のようだ。
だけど、瘴気のピリピリとした刺激は本物で、これが現実なのだと伝えてくる。
「……だから……、いつも言ったじゃないですか……っ」
瞼を閉じたリタの顔は安らかで、眠っているだけにしか見えない。
こんなに綺麗な寝顔なのに、呼吸と鼓動が止まってしまっているだけで、もう二度と目を覚まさないのだ。
十二年前、ベッドに横たわって息絶えていた宿場町の人達のように……。
「夏だからって……、聖殿の中だからって……っ、窓を開けて寝るのは危ないですよ、って……っ」
気持ちを紛らわせるように少し乱暴に窓を閉め、タリスマンを発動させた。
手遅れだ、もう意味がない――、わかっていても、何もせずにはいられなかった。
『だって、風が夏の香りを運んでくるんだもの。冷却球よりも、私は好きだなあ』
そんなお気楽な声が聞こえた気がした。
夏でも涼しい山間部の村の出身のリタは、窓を開けて眠るのが好きだった。
ちょうど昨日の朝も、いつも通りの子供のような反論を聞いて、呆れたばかりで――。
「ごめん……、なさい……っ、もう、行かなくちゃ……っ」
毛布をそっとかぶせた。
巡礼士は旅の途中で人を看取ることもあれば、弔うこともある。
受験生用の特別授業で作法を学んだし、実際に葬儀に立ち会ったりもした。
だけど――、
「…………ぅっ」
こみ上げてくる嗚咽を呑み込んだ。
こんなに早く、人の死に立ち会うことになるなんて――、
それが、フルスの「家族」だなんて――、想像すらしたことがなかった。
「すぐ……、戻ってきます……からっ」
溢れてくる涙を袖で拭い、重たい足を動かした。
(お願い……、無事でいて……、皆っ)
清流に護られている紅龍皇帝領は初夏でも涼しい。
特に、湖に囲まれたフルスは、真夏でも窓を開ければ室内を冷やす冷却球を使わなくても快適だ。
リタのように窓を開けて眠っている者も多いだろう。
祈るようにペンダントを握り締めて歯を食いしばった。
後ろ髪を引かれる思いを振り切りながら、部屋を後にした。
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