第三章 悪夢の一夜
第1話
黒い霧の中を、優しい笑顔を探して彷徨っていた。
「ママぁ! パパぁ……!」
どこかで壁が崩れては誰かの悲鳴と不気味な奇声が霧を揺らす。
雨も降っていないのにブーツの下はぬるぬるとしていて、鉄のような臭いが鼻を突いた。
右も左もわからない霧の迷路になってしまった小さな宿場町を、リィルは必死に駆け回っていた。
ボロボロになった壁に埋め込まれたタリスマンが足元を照らし、少女は小さな悲鳴を上げた。
真っ赤に染まった道と、お気に入りの白いブーツ。転がっている誰かの動かない腕に目を閉じて耳を塞ぎ、ただ走った。
「ママ……っ、パパ……っ」
何度目かの行き止まりで足も気力も限界を迎え、壁の陰に蹲った。
鼻が麻痺してしまったのか、少し前から鉄の臭いも何もわからない。
霧が深くなり、どこかから重いものを引きずるような音が聞こえた。
荷物を運ぶような音に誘われるように、壁の穴から外を覗き、硬直する。
真っ黒な霧の中で、目を赤くした大きな黒い犬が何かを引きずっていた。
不意に犬は顔を上げ、鼻をクンクンと動かし始めた。
「あ…………」
赤い目がこちらを見た気がして、慌てて穴から顔を引っ込めた。
ぴちゃり、ぴちゃりと音を立てて近づいてくる人外の足音に、ペンダントを握り締め、何かにただ祈った。
窓から差し込む月光が昏い視界で揺れた。
(また……、見ちゃった……)
鼓動が早くて頭がガンガンと痛む。
あの夜の夢を見た時は、いつもこんな感じだ。
ぎゅっと両手でペンダントを握り締め、何度も深呼吸を繰り返す。そうでもしないと、涙が溢れ出して止まらなくなってしまう。
十二年も経ったというのに、夢に出てくる宿場町の景色は嫌なくらい鮮明で、全く褪せてくれない。
十二年前のあの日、リィルは両親に連れられてフルス聖殿を目指していた。
紅龍皇帝領に入り、国境近くの山間部の宿場町に泊った夜、魔の霧が町を襲った。
あの霧の中から生還できたのは、リィルと一握りの住人、そして数人の巡礼士だけだ。
風上に避難を終えた宿の従業員達にリィルを託し、両親は避難できない人達を助けようと霧の中へ戻り――、それきり戻ってこなかった。
リィルに遺されたのは、このペンダントと、町の広場に転がっていたという母がつけていた巡礼士証の指輪だけだった。
「……巡礼士、かあ……」
あの時、両親を追いかけて霧の中を彷徨っていたリィルを間一髪で助けてくれたのは、両親同様に霧の中で避難誘導をしていた、他の精霊領の巡礼士だった。
宿に同じように泊まっていた他の巡礼士や旅人は一人でも多くの人を助けようと霧の中に最後まで留まった。
「自分達は精霊族だから」「瘴気への耐性があるから」「戦う術があるから」――、そう、呪文のように繰り返しながら。
あの夜発生した魔の霧は特に深くて、襲ってきた魔獣の数も通常の倍以上だったと、かなり後になって知った。
「はあ、やっと治まってきたかな……」
あの夢を見た時は、この石を手の中で転がしていると頭痛が治まり、気持ちも落ち着いてくれる。慈悲深いとされる蒼月王の力を秘めた石だというから、心を鎮める力でもあるのかもしれない。
(どうせ見るなら、楽しい時の夢がよかったな……)
例えば、この石を見つけた蒼月王領の遺跡を探検した時の夢とか。
蒼月王領に住んでいた頃に見物したお祭りとか。初めての旅の道中とか。
楽しかった思い出は沢山あるはずなのに、夢に出てくるのは悲惨な夜のことばかりだ。
(……あの時よりも、魔の霧の発生率は上がってるのよね……)
旅に出るのならば、あの夜のような事態に遭遇するのを覚悟しないといけないだろう。それも、一度や二度で済んでくれないかもしれないし、生き残れる保証なんてない。
(……あたしなんかに、母さん達と同じことができるのかな……)
見ず知らずの人を助ける為に、瘴気が立ち込める魔獣の群れの中に留まって――、そんな立派な真似が自分にもできるかと問われると、「わからない」としか答えようがない。どれだけ攻撃魔法が使えても、戦う術を持っていても、怖いものは怖いのだから。
だけど、各地の大聖殿の制服を纏う巡礼士は他国でも恥じない行いを求められ、いわば所属する精霊王領の顔のような存在だ。避難できない人達を残して逃げるわけにはいかない。いざとなれば、感情なんて関係なく留まるしかないのだろう。
――やっぱり、無理……。辞退したほうがいいよね……
イグみたいに精霊王の声が聞こえるわけじゃない。リィルが旅に出るのは、完全な我が儘だ。
だから、きっとこんなに迷っていて、どこかでやめる理由を探しているのかもしれない。
(……あれ……、ルーシェ……?)
隣のベッドの毛布が畳まれたままだ。ルーシェはまだ工房にいるらしい。
ルーシェもまた、幼い頃に魔の霧に家族だけでなく住んでいた村も奪われ、フルス聖殿に引き取られた。
リィルと聖殿に来た時期が近く、サラとシャーリーのようにずっと一緒に過ごしてきたから、親友というより姉妹のような感覚に近い。そんな事情もあって、十二歳でリィルは神学校の寄宿舎に入ってしまったが、相部屋はそのままにしている。
「しょうがない、呼びに行くかあ」
あの夢を見た時は暫く眠れない。
外の空気を吸いに行くついでに、工房で缶詰めになっている親友の様子を見に行こう。今夜は聖騎士コンビがいないので、寝落ちしてしまっているかもしれない。
(……
いつもならば寝間着の上にケープをひっかけるだけで外に出るが、宿泊客がいる日は別だ。特に研究者は夜型が多く、かなりの確率で夜になると動きが活発になる。寝間着で鉢合わせたりしたら、気まずいどころではない。
聖殿の制服に着替え、カーテンを開けた。
青白い月光が室内を照らし、軽く伸びをしながら階下を見下ろす。
「え…………?」
条件反射のようにカーテンを閉め、口元を押えて座り込んだ。
(う、ウソよ……、そんなこと……、あるわけ、ない……っ)
ペンダントを握り締め、何度も深呼吸を繰り返す。
(た、確かめなくちゃ……、きっと見間違いだから……っ)
自分を宥めながらなんとか立ち上がり、震える手でカーテンを開けた。
黒い霧が雲海のように広がり、厚みを増していく。リィルがいる二階の部屋にまで届くのも時間の問題だろう。
(どうして……、フルスに……っ)
見間違えるはずがない。
十二年前のあの夜、あの黒い霧が五歳だったリィルから両親を奪ったのだから――。
「……魔の霧…………っ」
呟いた自分の声は情けないくらい震えていた。
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